神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.66 朝鮮人3題 余聞

2024-01-31 14:57:40 | 余録
 

 気が付いたので、追記しておきます。

 (1)花かげ:大村主計・益夫
 先日来「花かげ」について検索して、いくつか分かったことがありますので書いておくことにしました。
 一つは、顕彰会の運動や大村主計の紹介が出ていることです。
 会では、桜の木を植えたり、草刈りをしたりして、花吹雪の再現を目指して楽しんでいるようです。興味のある方は検索してみてください。
 お姉さんの名は「はるえ」、写真も出ています。
 
 もう一つは、大村主計に関する紹介記事の中にご子息3人の写真が出ていました。そのうちの3男益夫さんについて「早稲田大学名誉教授」とあったので、驚いて調べたところ、岩波文庫の『朝鮮短編小説選』(上・下)の訳者(大村益夫・長璋吉・三枝壽静)の一人でした。
 実は、1980年以降に、大韓航空機事件・監督亡命事件ほかがあって、いくらか韓国・朝鮮や朝鮮人作家のものを読みました。その中に上記の『小説選』がありました。
 私の手元のものは1984年初版で、ちょうど40年前のものです。すでにまわりが変色してしまっていて、開くと背がパリッと音を立てて自然崩壊しそうです。 
 上記の『小説選』には(上)に10篇、(下)に12篇入っていますが、40年も前に読んだものなので、もう記憶が薄れていますから内容紹介をできません。
 大村益夫氏は(上・下)とも各3点ずつ翻訳されていて、そのうちわりあいよく覚えているのは(上)の李箕永「民村」です。
 この文庫はまだ販売されているようです。もちろん図書館にはあるでしょう。

 このほかの文庫では、『朝鮮民謡選』(岩波)、『春香伝』(岩波)、『朝鮮冬物語』(青木文庫)、『笑いの三千里』(白水Uぶっくす)がすぐ浮かびます。
 とくに、『春香伝』は、作品だけでなく、歌〔サランガ:愛の歌〕もパンソリも面白いですし、映画は韓国版も北朝鮮版も見ました。どちらも興味深く、ぜひまた見る機会があればと思っています。これについてはまたの機会に。
 

 (2)朝鮮・韓国
 朝鮮・韓国にはいろいろな関心があります。
 もうムリと思いますが、プサンから朝鮮半島を縦断して、中国経由か、シベリア経由で、モスクワ―ベルリン―ライプツィヒと列車旅行するのが、しばらく前までの夢でした。
 オット、それよりも、北は無理ですが、韓国へはかじったばかりのハングルとあとは英語で、3回旅行に行きました。2回は友人と同行。1回は単独。

 その単独の1回は、1ドル=70円台という時代だったこともあり、板門店ツアーに乗って現地参加したほか、浦項〔ポハン〕から鬱陵島〔ウルルンド〕へ行き、帰りは江陵〔カンヌン〕に寄り、ソウルの忘憂里(マングリ)へ行き浅川巧〔たくみ〕の墓参をしてきました。
 なお、上記の『春香伝』を「死ぬまでにハングルで読みたい」と思い、この時ソウルの書店で買ってきました。〔多分、このブログを止めれば時間ができて、辞書首っ引きで読めると思います・・・。どうしましょうか???〕

 なお、江陵の烏竹軒(ウジョッカン)は韓国文化がよく保存されていて感動しました。また行きたいと思っています。
 ああいう文化を持つ国を植民地下においていい気になっていた日本のお粗末さに唖然とさせられます。
 皆さん、ぜひ検索だけでもしてみてください。

 それから、浅川巧は山梨県北杜市高根町の人です。
〔現地に「浅川伯教・巧兄弟資料館」があります〕。
 巧は林業技術者です。丸裸になった朝鮮の山に木を植えた恩人として、また朝鮮の美〔いわゆる民芸〕を敬愛した人として親しまれ、没後はソウル近郊の忘憂里〔マングリ:土地の人の発音はそう聞こえました〕に葬られ、「韓国の土になった人」です。
 高崎宗司『朝鮮の土になった日本人―浅川巧の生涯』(草風館)があります。
 私が行った時も墓所〔朝鮮風の土饅頭型〕はきれいに整備され、花が飾ってありました。公園化された山の中の墓所へ行くにも、多くの人が訪れるとみえて、管理人に場所を聞くと、「アサカワタクミ」と言いながらすぐに所在地を教えてくれました。
 ちなみに、兄伯教も、朝鮮の全土にわたって竈を調査するなど、日本の民芸運動との関係で注目される人です。
 また、伯教の娘美恵子は経済学者の上杉重二郎夫人です。

 まだサワリですが、ここまでにします。
 
 
  



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No.65 朝鮮人3題

2024-01-30 23:31:12 | 余録

 
 きょうは朝鮮人にかかわって少しだけ書きます。

 (1)群馬県の「朝鮮人追悼碑」撤去の件
 まだごく最近のことなのでご存じの人も多いでしょう。
 群馬県の県立公園内にあった碑について「反日的」との批判が起こり、県も碑前の集会で政治発言があったことを問題視して、碑の設置条件に違反があっとしての更新を認めず、それが裁判に至り、最終的に県が勝訴して撤去と決まった、ということです。
 しかし、現実に設置条例に違反があったことは事実ですが、関係団体側も碑前集会を自粛するなどしていて、この10年余なにも問題は生じていないといいます。
 これに対して、山本一太知事は「公益に反する状況が続いている。一日も早く正さなければ行けない」と述べたとそうです。つまり、「碑があること」=「公益に反する状況」ということらしいですが、私にはその意味が分かりません。みなさんはどうですか。

 (2)「移民」への態度
 明治以降、朝鮮人が日本にどのようにしてきたのか、いろいろな場合があるでしょう。職を求めて自主的に来たのか、口車に乗せられてきたのか、強制的に連れてこられたのか、などなどです。
 そうして、たとえば、関東大震災の時にはすでに多数の朝鮮人が日本にいました。
 『御料局測量課長 神足勝記日記』日本林業調査会(JーFIC)の538ページ以降に神足たちの被災の状況が克明に描かれていますけれども、震災2日目に東京から逃げてきた人の咄として「殆と全滅なりと云ふ。震災よりも火災の方甚大なりしと云ふ」と伝えられた翌9月3日に「暴鮮人襲来の説あり。復ひ山に逃げんとせしも、風説なるを知り中止す」ということが出てきます。

 私が見た限り、神足は、御料地測量という現実の課題をリアルに遂行することを迫られた人=「誠実の人」で、部下を見下げるとか、上司に卑屈になるとかということを感じさせませんでした。だから、よく聞いて事態に冷静に対応できたのではないかと思われます。
 いうまでもなく、朝鮮人が多数いることが日本人に被害を及ぼす原因になるということは考えられません。もしそんなことが起こるのなら、日本人は韓国旅行に行くことはないでしょう。
 そうではなく、「移民としての朝鮮人」とどうかかわってきたか、どういうものだったと考えるか、それを全体としての日本人に問うているのが(1)の問題でしょう。
 そうすると、これは同時に現在の問題でもあります。
 多数いる「外国人実習生」を初めとする「現在の日本への移民」への対応はこれまでのようなことでよいか、どうすべきかということです。
 上の碑の撤去問題も、すでに沈静化している問題をむきになって対処するのでなく、議論しやすい環境を整備するほうが公益であり、行政としてふさわしいと考えます。

 (3)帰国した朝鮮人
 1971年ころ、帰省して町を自転車に乗っていると、上から「大澤くん」と呼びかけの声が聞こえました。見上げると、山本君でした。
 山本君は朝鮮人ですが、この当時もまだ日本名を名乗っていました。お父さんはいわゆるバタヤ(古物商)で、金物の廃品・くず鉄などの回収を生業としていて、村中にある豊玉神社の社務所を借りて生活していました。
 その山本君が、町の表通りの2階から声をかけてきたので、懐かしいというより、いぶかしく思いながら「おう!」と返事をすると、ニコニコとして嬉しそうに言いました。
 「今度、祖国へ帰るんだ。」
 私は、一瞬とまどって、
 「祖国って、ここじゃないのか?」
 と思いましたがすぐに、「そうだ彼は朝鮮人だった」と気付いて、
 「いつだ?」というのが精一杯でした。
 いつも赤銅色の日焼けした顔をした彼のお父さんは、今の韓国の出身だと聞いたことがありますが、韓国ではなく、当時「地上の楽園」と宣伝された北へ「集団帰国」して行ったのでした。

 北のことがニュースになると、いつも彼の家族のことを思い出します。
 「山本、メシを食えているのだろうか?」と。
 「自分は×××を守れなかった」と。



    どこでいつみたのか・・・
 


 


 
 



  
 

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No.64 山梨あるき

2024-01-29 23:15:45 | 余録
 
    雪の太良峠方面:旧相川御料地 
            (*室内から撮ったので窓枠が写っています)

 私は20年ほど前から2020年のコロナ蔓延の前まで、山梨のいくつかの大学でも財政学や教養講座を担当していました。
 その時に、授業が午前ならば、終ってから夕方までを、午後ならば、授業の1時間前までに控室に着けるように計画を立てて、山梨とくに甲府盆地を自分で動いてみることにしました。

 甲府は盆地ですから、東京から向かう場合、勝沼や塩山で降りてミニサイクルで移動すれば、労力はかなり少なくて済みます。
 授業が午後の場合は、「位置のエネルギー」を活用して神足の足跡を中心に神社仏閣などもずいぶん廻りました。

 私がそのことをある先生に教えたところ、なんと電動式のミニサイクルを見つけてきて、しかも持ち運びに便利なキャスター付きのものでした。そして、いわく「これだと坂道の登りもラクに登れます」と・・・。
 ちなみに、私のミニサイクルは5000円の中国製。某先生の電動式は10万円余、それを「安く手に入った」とのたまった。

 
  勝沼から塩ノ山方面 その向こうに帯那山

 一方、授業が午前の場合には、夕方までに降りられるところを選んで歩きました。太良峠もそうやって上がったのでしたが、ほかに、黒駒や御坂の方へは弁当持参でバスで上ってやや遅い昼食を取りながら、地図と山の地形を照合したりと、ずいぶん楽しみました。
 前に紹介した上芦川・鶯宿・古関・右左口へ神足が入る際の明治17年10月20日に上黒駒で宿泊していますが、その時に泊まった家も確認することができました。

 
   右下が御坂峠 中央が黒駒 左上にインタチェンジ
    *この付近もずいぶん見ました。古墳の上にある神社とか・・・。
 
 もちろん、授業に影響が出るような行動計画は立てられませんから、時間がかかるところはそれなりの時間をかけます。
 でも、それなのにその方がうまくいかないことがあるものです。

 ある時、山越えの某地へ行く計画を立て、朝5時のバスに乗るために前日に甲府に入って早く寝ました。
 普段はどちらかというと夜型人間なので、早く寝るのは苦手です。うまく寝付けるように、ちょっと一杯飲んで、9時頃寝たかとおもったら、電話音がしました。なにかと思って取ると、いきなり
 「・・・おい✕✕、起きてるか・・・」
 間違い電話とわかったので、「どこへかけたんだ」といってガチャンと切り、時計を見ると1時でした。

 どうも、グループで宿泊している連中が、いたずらで別の部屋の友人にかけたようでしたが、ともかく寝ないわけにはいかないので、寝ようとしていると、またかかってきました。
 今度は「バカモノ」とひとこと言って、思い切りガチャンと切りました。

 その後は、もうかかってきませんでしたが、ついに眠れなくなってしまい、結局、計画を甲府から富士山駅までのバス旅行に切り替え、あとは大月に出て帰りました。

 ところが、話はこれで終わりではありませんでした。
 乗ったバスの乗客は最初二人。一人は私、もう一人は勤め人風の女性。途中高校生や、勤め人が一人二人と乗っては降りていきました。結局、多いときでも5人。その乗客は明らかに皆日本人でした。
 ところが、甲府の町中から、峠越えの山の中のバス停を通過して、富士山駅に着くまで、30近くあったバス停名を、アナウンスは律儀に日本語・英語・中国語と3か国語で流されました。
 最初は面白く聞いていましたが、だんだんとばかばかしくなり、最後はうるさいばかりに思えてきて、つまらない計画を立てた自分に腹が立ってきてしまいました。
 しかも、電車の中では高校生が化粧直しをして、もう唖然。
 
 良い時ばかりではありませんが、『神足勝記日記』の編纂作業や神足を追っての旅はいろいろなことを教えてくれました。
 皆さんにも、ぜひお読みいただきたいと思います。

 かくありて 旅路の恥はやまなし

 

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No.63 向嶽寺

2024-01-28 23:46:54 | 余録
 今日はNo.61の余録です。
 「説明板を読むのは面倒」という人は、パスして先へ行ってください。
 
 塩山市の塩ノ山の近くに向嶽寺があります。
 正確な位置を記憶していませんが、確かここだったと思います。つぎの説明板がありました。
 興味ある人は読んでみてください。メンドウという人はパスでOK.。




 それから、向嶽寺といえば、大村主計の「花かげ」の詩碑があります。
 もう最近は歌っているのを聞いたことがありませんが、昔は教科書にも出ていた?ように思います。
 「〽じゅう~ごや おつきさ~ま ひ~とりぼち・・・」

 まず全体のようすです。



 3点見えます。右から歌碑・説明板・西条八十の詩碑です。
 下に、右から順に拡大写真を載せます。


 (1)花かげの歌碑
 

 ご存じでしたか?
 私は「うま」と思っていましたが、「くるま」(たぶん「人力車」)だったんですね。
 「〽う~まに ゆ~られて」
 「〽くるまに ゆ~られて」
 どっちでも、なんとかなりますね。
 
 ともかく、優しいお姉さんがいる人は、こういう記憶があるでしょうねぇ。
 「おねえちゃんがお嫁さんにいっちゃう・・・ていう感じですね。」

 それで、これが神足とどうつながるかですが、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍に礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)の183ページ上の明治31年12月6日~8日の項に、神足が、塩山の北にある大藤村の萩原御料地で作業中の田中安次郎〔のち従之〕技手補を巡視に来たことが記されています。そして、田中が逗留していた「藤屋」を訪れますが、大村のお姉さんの嫁ぎ先も「藤屋」・・・らしいのです。(これは記憶です。目下メモを探索中。同じ村であることは確かです。)

 (2)説明板

 お姉さんの嫁入りは大正期のようです。嫁入りの時期などいろいろ調べたことがありますが、いずれまたメモが出てきた時にとして、予告だけしておきます。
 説明板に拠れば、大村主計は蘇峰と知合いですし、一方、蘇峰と神足は熊本人で、神足一家は蘇峰にかなりの援助をしていますから、ちょっとこじつけがましいですが、無縁ではありません。

 (3)西条八十の詩碑
 これは、上の説明板の中の詩2作です。
 
 
 わたしは『神足日記』でずいぶん勉強しました。
 知らないこと、わからないこと、読めない文字が出てきたら、かならず調べる、可能なかぎりやる、ということを決めて、時間を限らずやりました。それでもまだまだわからないことがいろいろ残ってますが・・・。
 皆さんには、読めるところから、読んでいただけるとよいと思っています。








 
 
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No.62 太良峠 2.甲府から

2024-01-27 19:17:45 | 勝記の巡回
 昨日の写真のうち、塩ノ山から西の方向〔笛吹川フルーツ公園〕を写した写真をもう一度載せます。
向こうに見える山はおそらくすべて旧御料地です。
 
 前にも紹介した恩賜林との関係ですが、山梨の山はかなりが一度御料地に編入されます。しかし、明治40年代の度重なる洪水をを契機に、下賜されます。その理由は、通常は「天皇が洪水被害をあわれに思ったからだ」といわれたり、それが碑文に記されたりしています。これは誤りとは言えませんが、実際は、当局が入会問題に手を焼いていたという背景があり、40年ころになると内地〔本州〕の測量事業が進んで、皇室財産の要になる世伝御料地の確定に見通しが立つようになったことがあります。つまり、山梨の御料地を払い下げても困らないようになっていたのです。こういうことを言った人はまだいないでしょう。
 
 戻ります。
 山梨の山はかなりは恩賜林になりますが、写真に見える山の一帯は下賜されずに御料地として残ります〔それがなぜなのかはまだわかっていません〕。
 ともかく、神足はここを写真の右の方から上がって行きました。上がって行ったところが切差です。

 さて、私は甲府の方から上がりましたから、そちらの写真をお見せしましょう。

 
 この写真は、甲府駅から北へ10分ほど進んだ山梨大学のキャンパスから、少し拡大して撮ったものです。実際はもう少し遠くにある感じになります。
 手前の左のこんもりとしたところが武田神社、中央奥が積翠寺、その右に要害〔山:787m〕があります。

 『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く-』日本林業調査会(J-FIC)の口絵にある「相川御料地」の中心部分がこの写真の後ろに見える一帯です。この写真に見える山がすべて旧御料地です。

 ここがなぜ「相川御料地」と名付けられたかというと、この一帯が「相川村」にある山林だったからです。写真の左方向に相川という地名もあります。

 さて、要害の下を通って後ろの山の方へ上がって行くと、上にある家のところに到達します。この間、道の一部がかなり急登です。
 上がると近代的な住宅が10軒ほどあります。うしろから郵便車が来ました。歩く人が珍しいのか、声をかけられ、少し立ち話をしました。
 住宅地は限界集落化して?無人の家もあるようで、「熊注意!」の看板が出てました。驚きましたが、山ですから、そういうことも当然ありです。

 上の写真で、中央の🍙状の山のすぐ上、住宅の右上の中央にV字形に窪んだ所が見えます。ここが「太良峠(太良ヶ峠)1123m」です。神足は「多々良峠」と書いていますが、間違いないと思います。

 神足は、塩山の方から切差を巡回してここを通って甲府へ降りて行ったわけです。太良峠から甲府の方を俯瞰したところ、逆光でしたが、次の写真のように見えました。

  
   太良峠から甲府方面:実際にはもっと迫って見えます。

 はっきりとしませんが、森が横に並んだあたりが武田神社かと思われます。駅は中央にあるようですがよくわかりません。

 ここは甲府の夜景を見るにはいいでしょう。ただし、この峠に上がるには、車のローでも大変な坂がいくつかあるので気を付けてください。そのほかは、この峠付近も含めて、普通の自動車道です。バイクのツーリングも見ました。全く開けています。

 
  太良峠:向こうが甲府方面 
      写真の左下方向へ行くと塩山、右下方向へ行くと帯那山
 
 前にも書いた多様に、わたしは向こう側の甲府方面から上がってきて、左下方向へミニサイクルで降りて行ったわけです。
 帰りの道がさわやかでした。
 正面は山梨市、中央向こうが笹子峠の方向:切差から下って堀内の辺りより

 最後に、繰り返しになりますが、ここは塩山からでも甲府からでも、どちらから登っても急登があり、注意が必要です。ということは、下りも要注意の坂道だということです。老爺心です。

 こういう近代化した道をいくら歩いても、神足を偲んだことになるのかわかりません。むしろ、その辺の山道を歩く方が当時に近いのかもしれないと思うことがたびたびあります。しかし、いまの道を歩くのも別な意味で大変なところもあり、まわりの景色や雰囲気はわかるので興味ある人にはお勧めします。
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