神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.125 

2024-03-31 01:34:15 | 君へ
   
    人も、本当はもっと華やかなはず・・・
 きょうは、まだ先日の余波の頭痛があって、おまけに黄砂もあって、家で読書三昧、もうちょっと具体的にいえば、起きてはあっちの本、しばらくしてこっちの本・・・と読み飛ばし。夜は、NHKスペシャル「シリーズ未解決事件 下山事件」を19:30と22:00の計3時間見ました。下に、少しだけようすを書きます。

(1)拾い読み:
 おもしろかったのは、中岡哲郎『日本近代技術の形成』(朝日選書、2006年11月)で、今日はこの第1~3章をパラパラとめくってみたわけです。
 ヨーロッパを見てきたサムライたちがいくら頑張っても、圧倒的多数の国民はやはり目前の状態から出発するしかない。ヨーロッパ頼みの財政的限界、「在来」が持っている優位性、そこから発する新段階の在来産業の発展ぶり、久しぶりに読み入ってしまいました。
 あまり広げてしまうといけないですが、子供のころ見たおばあさんたちの養蚕・糸取り・機織り、注文に応じて何でも作ってしまう鍛冶屋、たまに廻って来る飴屋、などなどを思い出しながら読んで、在来のものの残存(古いからでなく、生きて新しい現実に対応できる技術)をもっと考えてみる必要がある・・・と。
 古いといえば古いのだが、それは、のちの改良された技術や機械を知っているものの目から見たもので、当時の諸条件を総合するとそれが最適、というところ。私の方からいうと、木曽式伐木運在方式の現場のことなど、もう一度見直す必要があることがあるのかも・・・。

      安保法、ああ、許すまじ!

(2)下山事件:
 今日はこれを見たという人が多いでしょう。ですから、なにか細かいことは書くことはしませんが、若いころから、三鷹事件・松川事件なども含めて、松本清張の『日本の黒い霧』などで読み、テレビ番組なども見てきました。
 そういうものとして、きょうの番組を見ながら思ったのは、まず番組制作側の調査力、布施検事の執念、新聞記者の矜持、そして、日本の政治家として名を残している面々の厚顔・破廉恥さです。
 私は講義で常々「アメリカから日本を守らなければならない」といってきましたが、昭島市や多摩川で米軍機を見るにつけ、思うのは今もそのことです。米軍がいることや米軍基地があるこのためにむしろ多くの被害や犠牲がありましたし、日本の平和外交を妨げてきた、ということです。
 2015年の安倍内閣の安保法以来、その後もどんどん改悪されて、もう武器輸出に道を開いただけでなく、この先、新しい武器開発に応じていくらでも閣議などでやっていけると、あの「平和の党」も合意しているとのことです。
 「〽 おら~死んじまっただ~」と多くの「英霊」が怒り出すでしょう。
 このままでは「元の黙阿弥」、何百万の死者も報われません。
 
 アメリカの資本のために郵政民営化・解体などなど、もう数え上げたらきりなく被害があります。下山事件はその始まりでもあったのですね。よくいう「対米従属」です。
 もう、あえて言いましょう。上の新聞記事をもういちど見てください。プラカードを持っている人がいます。あれは私です。
 あの日、私は安保法反対の流れを止めてはいけないと考えて、国会前に行きました。
 信濃町で下車して「平和の党」の前で抗議の手を挙げ、徒歩で青山から溜池を通って国会前まで歩きました。たむろしている人がいましたから声をかけてポスターを2枚分けてもらい、3時頃から9時頃まで、ハトバスに手を振り、立ったり座ったりしていました。そのとき、左の方で誰かが写真を撮ったのがわかりましたが、見た時にはもういませんでした。
 翌日の新聞が上のものです。
 不当なものを許さなない、忘れないということは大事なことです。
 布施検事の執念、感じ入りました。
 
  
  御嶽・日の出山付近
 

 
 
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No.124 分類

2024-03-30 01:09:11 | 勝記日記
 「御料林」で検索していくと、しばらくして「平塚運一:天城山御料林」に行きあたります。イメージとしては下の写真のようなものですが、興味ある人は検索してみてください。
 ふっくらとした山林の中央にポツンと建物があって、郷愁をそそられる暖かい作品です。

   
     大菩薩山御料林

 2018年7月14日~9月9日に千葉市美術館で「平塚運一展」があり、そのときの展示品の紹介欄につぎのことが書かれています。
 昭和10(1935)年作/木版多色摺/40.4㎝×29.9㎝

 天城御料地は、①天城山御料地 ②棚場山御料地 ③富貴野御料地 ④田中山御料地 の4団地からなる御料地です。(「天城御料地」と「天城山御料地」は厳密には別物です。)
 そのうち、②~④は小さな御料地ですが、天城山御料地は湯ヶ島本谷・筏場・地蔵堂・菅引・奈良木・片瀬・白田・佐賀野・梨木・大鍋・池代・仁科の12の御料地に区別されます。
 
 残念ながら、平塚運一「天城山御料林」を直に鑑賞したことがありません。また、この絵が具体的にどこかをモデルにしたものかも知りません。画像を見ると、周辺にこんもりとした山林が広がる中央に小さく建物が見えます。湯ヶ島のあたりでしょうか。
 上の私の写真はどうですか?

  
   釈迦堂遺跡博物館

 ところで、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)ですが、図書館のどこに配架されるとおもいますか。
 考えられるのは、書名(タイトル)のどこをみるかでしょうから、まずそれでポイントを挙げて「:」の右に配架先を例示してみましょう。なお、書誌についての素養はありません。たんなる思いつきです。
(1)御料局:天皇・宮内省関係・皇室財産/日本史(明治・大正・昭和)
(2)測量課長:踏査・測量・測量史関係
(3)神足勝記:大学南校・熊本県関係/郷土史
(4)日記(回顧録):?
(5)林野:山林(史)・林業(史)・国有林(史)・御料地(御料林)
(6)林野地籍:国土・法規・地誌(史)
(7)日本林業調査会:林業

 以上はタイトルから推測してみたものですが、このうち、
 (8)一般的には、御料地形成史に関わることがメインなので(1)。これは、皇室関係法令なども該当します。
 (9)御料地や御料林が多くあった地域では、「御料地」とか「御料林」で独立させるかもしれません。
 (9)山梨県なら「恩賜林」もあるでしょう。
 (10)熊本県なら郷土資料・出身者、あるいは測量関係。
 (11)農林系の大学なら(5)~(7)
 (12)文学部でも、池辺義象の件ほかでかかわりがありますが、これはどこにしましょうか?
 (13)東京大学・南校・開成学校・貢進生などなら教育(史)関係
 (14)御料局の法制・制度・職員などなら総記?

 どうでしょうか。もっとありそうです。
 この本がもし失われていたならどれだけの損失か、お分かりいただけるかと思います。
 こういう本があること、こういう人がいたことをぜひ知っていただきたい、そう思います。
 
  
   朴はあこがれ

 今日はこの辺で。


 

  
 


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No.123 レキシコン

2024-03-29 00:45:11 | 先生
 きのうは、雨の日のあとの晴れで、おまけに久しぶりのお出かけとあって、ずいぶんのんびりしました。
 まあ、米軍機が南方から飛来したり、基地から来て旋回したりで、五月蠅〔うるさ〕かった。「三月米軍機」も「うるさい」ものです。
  
 
 ところが、陽気の良さにうかれて、マスクを外したままでいたり、のんびりと弁当を食べていたものですから、夜からくしゃみ・鼻水が始まり、昨日のブログ作成にはかなり難儀しました。その余波は今日も続き、目は赤くなり、終日ウトウトの連続でした。
 というわけで、今日はパソコンの前にすわらず、『レキシコン 1 競争』をずっと読んでました。もっとも、居眠りの時間の方が長かったかもしれません。
  

 表紙が横文字なので、経済畑でない人にはびっくりされたかもしれません。
 No.119で『価値形態論と交換過程論』を紹介しましたが、その筆者の久留間鮫造先生がマルクスの著作から「競争」について書かれた箇所を抜粋して、独自に項目をたてて整理・編纂されたものです。日本語名は『原典対訳 マルクス経済学レキシコン 1 競争』、初版は1968。私のは1971年版です。
 中身は、左ページ独語原文、右ページ日本語訳です。
 ですから、左を読むと眠くなり、右を読んでも眠くなる・・・。オット!

 これをしばらく前から読み直しているのですが、内容は、たとえば次のようなことです。
「資本の数がふえれば、資本家間の競争がふえる。資本の規模が大きくなれば、いっそう巨大な武器をもついっそう強力な労働者群を産業の戦場に率いていく手段が選ばれる。」(95ページ)
 これは、資本は本来的に儲けようとする性質をもっているが、その資本が多数あって互いに競争しているという現実が、資本に「もっと儲けろ、さもないと負けて没落するぞ」と強制するということなどです。
 これ自体は誰でも知っていることですが、ここのところ、ヒマな折に、明治以降の御料地形成と確立の中での当局者の行動を考えるヒントを探せないかと思ったわけです。とくに昭和期に入ってからは確実にヒントがあるはずだというのがネライです。
 というのは、皇室財産の核心である御料地を管轄する御料局〔後の帝室林野局〕は、宮内省の一部局ですが、ほかの部局とは役割が異なります。単なる財産管理をこととする部局ではなく、実物資本としての御料地を管理する部局です。職員は、形態は役人ですが、実態は従業員です。
 
 ちょっと話が変わりますが、テレビで地方を探訪する番組があります。その中で、町や村の宿泊施設が立派なので事情を聴くと、実は元小学校だったものが廃校になったので、町おこしで利用しているということがあります。
 少子化が進んできて廃校になりそうなら、そんなに立派な設備をこしらえなくてもよかったのではないかと思われるのですが、当事者は違うのですね。少しでも環境を良くして、町内外から見直しを図ってもらい、これを機会として活性化させたい、との願望が働くのでしょう。
 
 実はこの意識というのは経済学的にも注目されるところです。
 企業が、とかく経営が左前になってくると、なんとかもう一旗揚げたいという願望が先に立ちます。そうすると、ノルカソルカの賭けに出ます。そして、広告・宣伝、設備投資、業務拡張、などなどをやるものの、うまくいかず、結局、それが引き金となって破産に追い込まれる。あるいは、恐慌の連鎖が始まる。
 線香花火も、少し似てます。
 最後の方になって、もう終わりかなと見ていると、ジュクジュクと音がして、それから、パチパチパチと火花を散らしだします。「まだあった」と思わせた瞬間に「ポトッ」と落ち、「アーッ!」といわせて暗くなる。
  

 私が経済学部のゼミに出席を許されたのは72年4月からでした。『資本論』全3巻を読破・通読したのは74年4月です。上記のレキシコンが刊行されたときは、まだイロハもわかってない時期でした。ですから、私が欲しいと思ったときはもう稀覯本でした。
 大学院に入ってからも、修士課程の頃は、奨学金は丸々アパート代、女房・子持ち、それも下の息子も生まれて、3人を養いながらの生活でしたから、博士課程進学で手いっぱい、理論的関心を深めるも広げるもありませんでした。
 レキシコンは全15巻からなるものです。終わりは1985年の刊行です。
 博士課程に入って、予備校などでそれまでよりいくらか割の良い仕事や、大学非常勤講師をやるようになってからは、月2~5万円くらいは書籍に使ってましたから、高価な本を買うことも増えましたが、それまではなかなか本を買うのも勇気が要りました。日給が1500円くらいのときにレキシコンも2000円はしていました。
 そういうことでしたから、恩師の宇佐美先生宅に伺ったとき(先生宅には、通常は毎週伺っていました)、レキシコンの前の方を持っていないことをお話ししたのだろうと思いますが、そのときに、先生が、
「いくらか書き込みがあるけど、それでも良ければあげるけど」と、遠慮がちに言われたので、
「え? むしろその方がいいです・・・」とお願いして、
その場でいただいたのだと記憶しています。
 上記の「競争」編ほか、いただいたものには先生の推敲・訂正のメモが、揺れるような文字で入っています。貴重なものなのです。
 
 では、今日はここまでにします。
  
  3月27日:多摩川
 








  

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No.122 弁当食べ

2024-03-28 01:06:08 | 弁当食べ
 このごろは、まともに外出ということがなくなりました。たいがいのことは電話とメールで済みますし、メンドウなことは昔からカミさんの一元的管理下にあるので、よろずのことが「あっしには関わりのないことでござんす」(木枯し紋次郎)となってきています。

 そういうことなので、結局、3月は4・14・27日の3回弁当を食べに出ただけ。あとは、本屋・古本屋(ブック・オフ)へ各1~2回行ったくらいですから、コロナもはしかもインフルエンザも無縁です。あるとすれば、媒介者はカミさんということになります。
それはともかく、この3日間の多摩川をお見せしましょう。

 【3月4日】多摩大橋の下流へ行きました。ぽかぽかとした日で、なんとも長閑でした。
(1)向こうに多摩大橋が見えます。その手前に、向こうへ移動していった鴨などが固まっているのが見えます。水面はかすかにさざ波がたつ程度でした。
   

(2)ここで弁当を食べていると、澱んだ川でもないのに、水面に逆さ影がくっきりと映っているのがみえました。
   

(3)もちろん、かすかに波がありましたが、それは、多摩川の流れというより、上のカモなどが移動するときにたてる波でしたが、ふと見ると、鯉が悠然と泳いでいました。
   

 多摩川の上流や秋川でも悠々と鯉が泳ぐのを見ましたが、こうして鯉が泳ぐさまを見ていると、上田秋成『夢応の鯉魚〔むおうのりぎょ〕」を思い出します。幻想的で、意表を突く展開をみせる作品です。
 そうそう、「秋成」は七言絶句からでした。
 少年老い易く学成り難し/一寸の光陰軽んずべからず/未だ覚めず池塘春草の夢/階前の梧葉すでに秋成

【3月14日】多摩大橋の上流のNo.60〔1月25日〕に書いたところへまた行きました。
(4)雨のあとだったためか、水量がやや多く、侵食された岩の手前が全部水に覆われて、近づくことができませんでした。
  

(5)前のときに、ウナギを飲み込み合っていた鵜はどこへ行ったかと探したところ、上の岩のすぐの左の流れの中に頭を出している岩の上でたむろしていました。満腹のようで、ほとんど身動き見せることがありませんでした。
  

 この日は、ボーッとして眺めていて、ほとんど写真を撮らなかったようです。でも、土手の近くでカンゾウの群生を見つけ、大きいところを一掴みとってきて、サッとお湯に通してしょうゆをかけて食べてみました。シャキシャキとした歯ごたえが最高でした。

【3月27日】前日までの雨もあり、土手の直下まで水がしみ出ていました。きょうは、川べりにはいかず、染み出た水などを見ながら、遡上しました。
(6)風が少々ありましたが、暑くなってきて、手袋も帽子もジャンバーも取って、シャツであちこちと藪にも入って楽しんできました。雲がきれいでした。
  

(7)もうひとつ、「ひょっこりひょうたん島」みたいな雲を見ました。
   

 「〽 くもにのり~たあい~」ていう歌がありました。

(8)「自分はそういうことを考えたこともがかったな、雲や天文みたいなことにも関心を持つことがなかったな、どうしてだろうか」と思いながら弁当を食べていると、八高線がなんども行き来していきました。
 私の父親は親バカで、私の目がまだ見えているかいないかのうちに、首が座っているかいないかのうちに、汽車をみせなければ遅れるといって、中里村神ヶ原から群馬藤岡駅まで、未舗装の道を30km以上も自転車に乗せて連れて来たそうです。叔母たちがなんども話してました。
 八高線を見ていると、いろいろなことが思い出されます。またいずれ。

  

(9)左に大岳が見えます。また昇りたいなと思いながら見ていると、中州にある木の新緑が目に入りました。
  
 
 周りの薮原がまだ冬枯れのままなのでひときわ光ってました。とはいえ、いくらかは芽がみえていました。

(10)それだけでなく、ひだまりにタンポポが咲いていました。
  

 そこから少し歩くと、ヨモギを摘んでいる人がいました。
 私は、近くにカンゾウの群生とノビルの群生を見つけたので、一掴みずついただきました。どちらも、サッと湯に通して酢味噌でいただきました。
 
 帰りの道すがら、拝島橋近くに桜を探ってみましたが、まだゼンゼンといった感じでした。
 きょうの夜のニュース番組での話では、2月が温暖だったから、一般には開花が早いと思われていたけれども、実は3月に冷え込まないと、桜は開花の決断ができない、そのために開花が遅れるのだそうです。
 つまり、桜の開花が遅いのは異常気象が原因ということのようです。

 4月からは山に上がりたいなあ。
 では、この辺で。 

  

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No.121 君は元気か  

2024-03-27 00:47:36 | 君へ
 きょうは、またまた日本の無節操ぶりを世界に示した日になりました。



 日本は、あの悲惨な戦争を引き起こし、日本国民にも周辺諸国にも多大な犠牲と負担を強いた責任を問われ、ふたたび世界に受け入れてもらう条件として日本はポツダム宣言を受諾して、二度と軍事国家にならない、軍事産業は解体すると約束したはずだ。
 ところが、戦後ずっとそれを裏切る経過をたどり、とくに2015年以降はもうとめどなく戦争をできる国家になり、重ねて軍需産業を育成していくべく英・伊と国際協力までし始めた。
 しかも、国民の代表が集まる国会で審議をするでもなく、支持率が低迷して、なおかつパーティー券問題で追い込まれた「死に体の政権」が、国民を道づれにするつもりか、戦闘機の輸出までも閣議決定で決めてしまう・・・。
 そして、歯止めになるかと期待した「平和の党」は、今度もまた、いくらかブッテ見せて、結局、結局、結局、賛成に廻った。

 

 Y・O君、君は元気か。
 上の写真は、わが家の西に見える空だよ。この空を、今は米軍と自衛隊の飛行機やヘリコプターが、ひどいときは、夜9時過ぎの1時間に10回以上も飛び交うこともあるんだよ。もちろん、市には対応を求めて苦情を言ったがね。
 でもね、心配なのは、やがてこの空を日本の爆撃機が飛ぶことになるかもしれないんだよ。君はどう思う。

  

 あのころ君は、君の生い立ちのこと、君の身体をめぐるご両親の悩みのこと、思想上のことを語り、ぼくはぼくで、同じように、本当に親密にいろいろなことを語り、よく相談した。
 中学・高校時代に、君とはよく語った。ぼくにとって君はよい兄だった。

 その君から賀状も来なくなって、もう何十年たつだろうか。
 君の居場所も消息ももうわからないけど、ぼくは君に聞きたい。
 「まだ、おれの考えを間違っていると思うかい。」

 きょうはね、『進退録』昭和19年のところをずっと調べていたんだ。
 そしたらね、1日で5人も戦死者が出てきたよ。
 そのうちの一人は、山林学校を卒業してめでたく帝室林野局に就職できたと思ったら、即日徴兵されて、それから2年も戦地を連れ回され、結局19年3月戦死だよ。いちども自分を生かすことなく終わった。そう追い込まれた。
 たまんないねぇ。君ならわかるだろう?。

 歳のせいかなあ。ふと話したいと思うことがある・・・。
 「うん、おれはまだ元気だ。でも、去年6月に、4つ下の弟が逝ってなあ・・・」

 
 

 


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