神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.171 小沢峠

2024-05-15 21:46:13 | 勝記の巡回
   
    小沢峠:南側は青梅市
         北側左は名栗村、右は飯能市

(1)15日、青梅市上成木と埼玉県名栗村との境にある小沢峠を越えてきました。
 『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)の「解題」13ページのところで少し紹介しました。なお、その際、小沢峠は小さな峠なので地名を入れませんでした。
 それから、このブログの12月23日〔28回目に相当するところ〕で「柳沢峠」を紹介しましたが、秩父の三峰・武甲山をへて名栗村へと巡回してきた神足勝記は、この小沢峠を越えて青梅に入り、二俣尾を経て丹波山村ー塩山方面へとたどります。
 私は、西の方の「棒ノ折山〔ぼうのおれやま〕」に上った際に、小沢峠まできて上成木に降りたことはありましたが、小沢峠を名栗村に降りたことがありませんでした。そしてまた、この峠を越えるということをどちらの側からもしたことがありませんでした。
 地図を見る限りでは、1~2時間で十分なので、出てみました。 

(2)東京側の最寄り駅は青梅線の「東青梅駅」です。
 東青梅駅北口に出て、道路沿いに西へ10mほど行ったマンションの前のバス停発10:46発に乗ると、30分ほどで終点の「上成木」に到着します。赤の点線がバス路線です。なお、バスは一日に4便〔8時前、11時前、15時台、17時台〕のみです。
 ほとんどの乗客は、地図の範囲に到達する手前で降りてしまいました。終点まで行ったのは、私と一組の夫婦のみでした。この夫婦は、終点まで乗ってみたかったといってましたが、帰りのバスが16時15分とわかると、そのまま折り返しのバスに乗って戻って行きました。
   
    上成木の集落(一部):登山口への途中で見た集落

(3)バス停から200mほど上がると、もう正面に小沢峠のトンネルの入り口が見えます。500mも行けば埼玉県側に出ます。ときどき車やバイクが追い越していきました。
 ここを左に上の写真の集落が見えました。そして、道を右に渡ると登山口で、そこに「小沢峠」の大きな碑(写真)が建設されています。
 なお、この碑は登山者のためのものでなく、トンネル開通記念のものかもしれません。
   
    「小沢峠」の碑

(4)私は、前に「棒ノ折山」に上った時にここを降りてきたので、ここからたどり始めましたが、地図を見ると、本来の小沢峠は別ルートのようです。これは、また後日たどる予定です。
    
     途中で見た花:名前不明

(5)11時半、ともかく上がって行きました。そして、林道となったところを入って行きました。
 すると、どうもそこは本来の峠道でなく、作業用の林道だったようで、何度も行き止まりなってしましました。行きつ戻りつしているうちに、ついに山仕事用の険しい道になってしましました。仕方ないので、それを降りることにしました。
 途中、遠くに民家の屋根が見えましたから、心配はありませんでしたが、急な下りの作業道で難儀しました。林相も、沢の水もきれいでしたが、急坂に気を取られて、写真を1枚も取らずでした。
 ともかく、しばらく沢沿いの険しい道を行くと、車が入る埼玉県側からの道になりました。そこで、そのまま下ると、「久林」というところに出ました。12時半過ぎでした。
   
    「久林」のバス停:1時間に1本はあります

(6)バス停に着くと、近くを「名栗川」が流れ、そこに「堺橋」が架かっていました。時間があったので周囲を見ると、少し北の方にある道路標識に「青梅」への道を示す案内が出ていました。
 手元の地図によると、本来の峠越えの道は、その道路に沿ってトンネル付近まで行き、その上を越えるように書かれています。おそらく神足勝記もそこを通過したのでしょう。次回は地図のルート通りにたどることにしようと思います。
 この後は、12:56のバスで八高線の「東飯能駅」に行き、13:35発の登りに乗り、12時半帰宅となりました。
 では、この辺で。
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No.160 棚の地図

2024-05-05 04:18:08 | 勝記の巡回


(1)今日(4日)は雲一つない良い天気でした。暑くなりましたから、西に庇を付けました。
 上の写真は一昨日の空です。昭島市の付近は都内と三多摩の気象のはざまのようで、いろいろな雲が見られます。
 それから、先日も書きましたが、切られた梢の後に新芽がすくっと伸び始めています。こういうのを見ると、学生の時に、中世文学の杉本圭三郎先生と同席したときのことを思い出します。
 酒席なのに、この時とばかりに私が「鎌倉文学はどうして暗いのか」とたずねると、先生は一瞬考え込み、「どのような時でも必ず次の芽があるから、それを見ないといけない」と力を込めて答えてくれました。直にお話ししたのはこの時だけでしたが、忘れがたい一コマです。

(2)庇を付ける準備をしていると、ミツバチがやってきました。忙しく飛び回っていて、留まってポーズをとってくれませんでしたから、少しボケ気味です。
   
    花は・・・すいかずら、かな?

(3)今日は、『神足勝記日記』を読んだときに行程を把握するために作成した地図のことを少し書いておきます。(地図は、載せる方法がうまくいかず、あきらめました。)
 神足は、御料局に入る前の地質調査所の時代に、北海道を除くほぼ全国を踏破しました。日記のその部分は、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)では割愛しましたが、巡回した諸県については46~8ページに挙げておきましたから、ご覧ください。

 最初に日記を読んだとき、その箇所をいちいち確認しました。しかし、私自身が行ったこともない所ばかりですし、それを今の地図で見ても、地名も道も当時とは変わっていたりしますから、わからないこともしばしばでした。
 また、場所はわかっても、道ではなく、山を直登もしてますから、いまの地図では新しい道路などが優先されていて判別が難しいということがありました。
 そこで、あれこれと探すと、平凡社の『日本歴史地名大系』(全50巻)の付図が当時のものに近いことがわかりました。地図は、等高線の前のケバ描きのもので、当時の宿駅名が書いてあって都合よいので、それを集めてつなぎ合わせ、地名と通過経路をマーカーで着色しました。
 しかし、ひとたび巡回に出ると、2ヶ月や3ヶ月は多少の雨でも移動するというような作業方法ですから、どんどん地図は大きく広がり、畳1畳どころではなくなります。
 それだけではありません。作業が進むと、それが何ヶ所もになりますし、場所によっては何回もとなります。それをいちいち地図をコピーして張り合わせる作業をしていたわけですが、それは、全行程を鳥瞰するには都合がよいとはいえ、作業量として大変なうえ、結局、あとになってそのままでは使えないと思われてきました。そこで、鳥瞰には不都合でも、経路をたどる方を優先すべきと『Mapple』を使うことにしました。
 これだと、当時の地名・地形を負うためには不便なところがありますが、作業がだいぶ簡略化できて、今後はこれをもとに必要に応じて加工すればよい状態にたどり着くことができました。これが、いま手元に、畳1畳前後はある大地図12枚と、『Mapple』5冊があります。どこかで公開する機会があればと考えていますが、今日は宣伝だけです。申し訳ありません。
 地図が大きすぎて紹介できません。具体性のない話となりましたが、後日を期したいと思います。

(4)庭でキンギョソウが元気です。あちこちに種が飛んで、元気です。
    
    きれい きれい

(5)それから小菊。ちいさい赤や白の花で、元気です。直径1㎝くらいです。

    
    かわいい かわいい

 でも、今年は虫が少ないように思います。
 この辺で。
    

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No.80 浅間山・油屋

2024-02-15 00:01:25 | 勝記の巡回
 訂正:「No.76 私の」の件、関西在住の妹が「松前屋」を訪ね、情報を寄せてくれましたので、それにより訂正・修正を施しました。
 
 さて、神足は浅間山に上りました。

     浅間山(右端):小海線・竜岡城駅より

 神足勝記は、明治13年9月17日、シュットやミラベックと群馬・長野・山梨・静岡・神奈川の巡回に出ます。そして、その途次、「大川通久・関野修蔵・ミラベック氏、ほかに定夫・人足都合8人」で浅間山に上ります。

 ここは、説明すると長くなって煩わしくなりますから、その場面を元の『神足日記』の原文で紹介します。
 全文1文ですが、行替し、間隔をあけました。根気よく読んでてください。
「余」がなんども出てきて煩わしいですが、「自分」ということです。

 ・・・此処に至るまて余毎子に先頭し、大川氏之に次く。ミラヘック氏疲労甚しく、後るヽこと数丁。共に踞して同氏をまつ。暫あって来り会す。

 而て云ふ。余、身体甚疲る。喫食して頂上に達する未た遅しとせす。願くは君倶に休して同しく上らんと。
 余、不得已之を諾す。大川・関野氏外、人足・案内人、皆先んし仰て上る。

 余は、ミラべック氏と巨石に踞すること半時許。・・・
 ミラベック氏曰、僕身体甚疲る。已に一歩を進むるに艱む。余は頂上に登るを止め、此処に休して諸氏の下るを待んのみ。君以て如何とす。

 余曰、僕亦疲れさるに非す。然れとも、此処に至り頂上に上らさるは真に遺憾たり。僕か足労せりと雖も、尚以て頂上に達するに足る。君行くを欲せされは、僕敢て独行、噴火の有様を究めんと辞し去らんとす。
 氏、余を止むること再三。而て曰、君設令頂上に至るも、雲霧山を蔽ふ。徒に労を増すのみ。強て上る亦愚と云ふへし。

 余曰、我輩労苦茲に至るは、他に望む処あるにあらす、只頂上に至りて見る処あらんと欲する耳。然れとも、雲既に満山に播く、余其已に究極する能はさるを知る。然りと雖とも、八合目に至り止むは意の安んせさる処なれは、須らく至りて雲霧の霰るヽを待ち、噴火を目視すへし。

 君の毛氈並に酒瓶等は、天の晴るヽを待ち、人夫を下らしむへし。君亦倶に上り来るへし。雲若し散せされは、余等も亦直に下り来る。殊に人夫を送らすと辞し上る。

 頂上に近きを以て山腹甚急。岩に攀ち、百艱漸くにして十二時半頂上に至れは、風弥烈しく、佇立する能はす。並立の岩石を楯とし、水銀バロメトルを記し午食。

 将に案内人に依りて噴火の有様を目視せんとす。雲全山を蓋ひ、風愈強く、降雨寒気肌をつき、ケットを被るも未た堪へす。全身震慄す。
 案内人曰、陰雲天を覆ふ。噴火を見るは危殆なり。宜しく下山すへしと。故に不得已下山。案内人を先に立て帰途に就く。

 どうですか、すごい気迫ですね。たまにはいいでしょう。
 ここも本にして残したいのですけど、その手立てが見つからないので、Xデーが来たら、既に入力してあるデータと一緒に打ち出したものを、どこかに寄贈する予定です(もちろんご遺族の了解を得てです)。

 つぎは、神足が上った頃より30~40年後の浅間山の絵葉書です。撮ったところが追分ですから、上の写真よりは軽井沢寄りです。


        浅間山:大正期の追分から

 なお、『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)では、この箇所はスペースの関係で『回顧録』の引用で補いましたから、ほとんど出てきません。
 
 私は、浅間山に上れませんでした。行こうとすると、入山制限があって・・・。写真でガマンです。

 それから、神足が泊まった油屋を尋ねました。
 良い写真がないので、昭和期の絵葉書です。
 

 昭和に入ってのものなので、道もずいぶんきれいです。
 しかし、その昔の明治末期は、いまの林道などとも比較にならないくらい未整備な道だったようです。

 
 神足らが巡回に出たころはこれよりもさらに20年は前ですから、とても今の軽井沢からは想像がつきません。

 ところで、あなたのパソコン、「軽井沢」は「かるいさわ」で出てきますか?

 そうそう、油屋の骨董のコーナーで「思い出の小物」を見つけました。

 
 アイヌ像



 

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No.74 小松屋

2024-02-08 23:49:22 | 勝記の巡回
 明治14年9月25日、神足勝記は小仏峠を越えて山梨県に入りました。(越えてすぐの相模湖町・藤野町は神奈川県、その先の上野原町から山梨県になります。この辺は水源の関係から歴史的にやや入り組んでいます。)
 

    小仏峠付近:赤鉛筆の箇所は旧御料地(今日は触れません)
 
 最初に、小仏峠付近の地図の説明をします。

 右上から高速道路に沿うように追ってください。
 まず、中央線高尾駅からバス〔黒い線〕で小仏バス停まで21分〔歩行なら約2時間〕。そこから登山道〔赤い線〕に入って西へ進み、コース時間50分で小仏峠。下って分岐点まで45分。さらに底沢の分岐点まで20分。そして、与瀬とある相模湖駅まで35分。
 合計は、バスを利用しての所要時間約170分(約3時間)。全行程歩行するなら270分(4時間半)です。

 ここを歩くとわかりますが、バス停からしばらくは広い林道で、下って、分岐点の手前からまた林道です。それもきれいに舗装してあります。そういう現在の道でも半日かかる行程ですから、往時の山道を歩いての旅はさぞ大変だったに違いありません。

 ちなみに、私は40分くらいで登り、下りは、のんびりと歩いて、分岐点からは奥の方へ入ったりして遊びました。もし時間があればおススメです。
 そして、途中でたわわに実ったカナガワのヤマナシを見つけてザック一杯に持ち帰り、ジャムを作って味わいました。美味かったですよ。
 作ったのは、もちろんアノ素晴らしいカミさんですが、もう2度とイヤだと言っています。何が理由かというと、小ぶりで皮をむくのが大変なんですね。仕方ないから、今度は自分でやるつもりです・・・。
  
 オット、モトイ!
 この件は『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)では、「解題」13ページ下で「・・・甲州街道を八王子に向かい、小仏峠を越えて山梨県に入る」と要約して書きましたが、実はもうちょっと長くて次のようになっています。 

 まず、出発から八王子までです。   
 「9月25日 雨 日曜日 ・・・午前6時発。四谷塩町に至り、戸川〔為
 継〕氏と倶に馬車に乗し、8時発。連日の降雨、道路泥濘。高井戸駅を経、 
 神奈川県多摩郡に入れは、道路頗る好し。布田駅を過き、12時府中駅に
 着。午食す。1時頃同所発。多摩川を渡り、日野駅を経、2時八王子駅に
 着。下車、暫休。復乗車。」
 
 いよいよここから小仏です。なお、駒木野は高尾の辺りです。
 「駒木野を経、小仏駅に於て下車し上坂。小仏峠を超へ下坂。渓澗を屈曲
 し、6時相模国〔神奈川県〕津久井郡小原駅に着。小松屋に投す。・・・。
  9月26日 雨 午前八時小原駅発。相模川に沿ひ・・・与瀬駅を経、左
 道を取り下坂。相模川を超へ藤瀬村を歴、復渡河、吉野駅に入る。」

 すごいですね。都心を朝6時に出発して、一泊して与瀬(相模湖駅)に達したわけです。まる1日です。いまなら2時間はかからない。
 
 私は、コロナ蔓延の前に歩きに出ました。
 でも、ただぶらぶらしに出たわけではなくて、神足が泊まった小原駅に行き小松屋を確かめました。
 庭仕事をしていた人に伺うと、斜め前の家を指して、
 「その家です」と。
 笹子の時と同じく、ここでも屋号が通用しました。

 
    小原の旧小松屋

 この右の家がそうです。町並み保存ということで、おおむね昔のままだそうです。そうすると、神足もここから上がったのでしょうか。
 そんなことを考えながら、ちょっと休ませてもらいました。
 ではここで。



 朴:悠然と空に
  





 



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No.62 太良峠 2.甲府から

2024-01-27 19:17:45 | 勝記の巡回
 昨日の写真のうち、塩ノ山から西の方向〔笛吹川フルーツ公園〕を写した写真をもう一度載せます。
向こうに見える山はおそらくすべて旧御料地です。
 
 前にも紹介した恩賜林との関係ですが、山梨の山はかなりが一度御料地に編入されます。しかし、明治40年代の度重なる洪水をを契機に、下賜されます。その理由は、通常は「天皇が洪水被害をあわれに思ったからだ」といわれたり、それが碑文に記されたりしています。これは誤りとは言えませんが、実際は、当局が入会問題に手を焼いていたという背景があり、40年ころになると内地〔本州〕の測量事業が進んで、皇室財産の要になる世伝御料地の確定に見通しが立つようになったことがあります。つまり、山梨の御料地を払い下げても困らないようになっていたのです。こういうことを言った人はまだいないでしょう。
 
 戻ります。
 山梨の山はかなりは恩賜林になりますが、写真に見える山の一帯は下賜されずに御料地として残ります〔それがなぜなのかはまだわかっていません〕。
 ともかく、神足はここを写真の右の方から上がって行きました。上がって行ったところが切差です。

 さて、私は甲府の方から上がりましたから、そちらの写真をお見せしましょう。

 
 この写真は、甲府駅から北へ10分ほど進んだ山梨大学のキャンパスから、少し拡大して撮ったものです。実際はもう少し遠くにある感じになります。
 手前の左のこんもりとしたところが武田神社、中央奥が積翠寺、その右に要害〔山:787m〕があります。

 『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く-』日本林業調査会(J-FIC)の口絵にある「相川御料地」の中心部分がこの写真の後ろに見える一帯です。この写真に見える山がすべて旧御料地です。

 ここがなぜ「相川御料地」と名付けられたかというと、この一帯が「相川村」にある山林だったからです。写真の左方向に相川という地名もあります。

 さて、要害の下を通って後ろの山の方へ上がって行くと、上にある家のところに到達します。この間、道の一部がかなり急登です。
 上がると近代的な住宅が10軒ほどあります。うしろから郵便車が来ました。歩く人が珍しいのか、声をかけられ、少し立ち話をしました。
 住宅地は限界集落化して?無人の家もあるようで、「熊注意!」の看板が出てました。驚きましたが、山ですから、そういうことも当然ありです。

 上の写真で、中央の🍙状の山のすぐ上、住宅の右上の中央にV字形に窪んだ所が見えます。ここが「太良峠(太良ヶ峠)1123m」です。神足は「多々良峠」と書いていますが、間違いないと思います。

 神足は、塩山の方から切差を巡回してここを通って甲府へ降りて行ったわけです。太良峠から甲府の方を俯瞰したところ、逆光でしたが、次の写真のように見えました。

  
   太良峠から甲府方面:実際にはもっと迫って見えます。

 はっきりとしませんが、森が横に並んだあたりが武田神社かと思われます。駅は中央にあるようですがよくわかりません。

 ここは甲府の夜景を見るにはいいでしょう。ただし、この峠に上がるには、車のローでも大変な坂がいくつかあるので気を付けてください。そのほかは、この峠付近も含めて、普通の自動車道です。バイクのツーリングも見ました。全く開けています。

 
  太良峠:向こうが甲府方面 
      写真の左下方向へ行くと塩山、右下方向へ行くと帯那山
 
 前にも書いた多様に、わたしは向こう側の甲府方面から上がってきて、左下方向へミニサイクルで降りて行ったわけです。
 帰りの道がさわやかでした。
 正面は山梨市、中央向こうが笹子峠の方向:切差から下って堀内の辺りより

 最後に、繰り返しになりますが、ここは塩山からでも甲府からでも、どちらから登っても急登があり、注意が必要です。ということは、下りも要注意の坂道だということです。老爺心です。

 こういう近代化した道をいくら歩いても、神足を偲んだことになるのかわかりません。むしろ、その辺の山道を歩く方が当時に近いのかもしれないと思うことがたびたびあります。しかし、いまの道を歩くのも別な意味で大変なところもあり、まわりの景色や雰囲気はわかるので興味ある人にはお勧めします。
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