神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.210 『私の大学』 

2024-06-24 00:30:32 | 御料地
(1)【コレクション 3】
 あちこちに出かけたとき、宣伝や案内などのパンフレットが置いてあることがあります。そういうものの中には興味深いものもあったりするので、いそいでいなければだいたい見ます。そして、「いいな」と思ったものはもらってきて積んでおいて、あとからゆっくり見て楽しんでいます。雑古紙として処分してしまうものもありますが、思わぬ人が推薦者として登場していたりすることがあって、捨てがたいものが見つかることもあります。たとえば、次のものです。

   

 大きさはB5判です。どんな本かと興味を搔き立てられます。印象的です。
 このパンフレットをとってある理由は、もちろん、秩父事件に関心があるからですが、それとともに、家永三郎・遠山茂樹・江村栄一の各先生が推薦文を寄せられているからです。残念ながら、それをここに乗せるには場所が足りません。
 本について、写真の身を上げておきますから、県立図書館のようなところならあるはずですから、検索してみてください。

   

 なお、江村先生については、このブログのNo.44に相当する1月8日のあたりでも言及しました。

(2)このあと順に、いくらかほかのパンフレットも紹介する予定ですが、パンフレットがあること自体が気が付かないことも多く、ましてやそこに書かれていることなどを知る機会がないということが多いと思います。
 遊び心で、パンフレット集のような企画を受けてくれるところがないかなと思うので、その宣伝も兼ねて、このあともめぼしいのを紹介します。

   

(3)先日紹介した『言論』の関連ものです。棚から次のものが出てきました。
 『私の大学』というタイトルはゴーリキーの同名の作品を彷彿させますが、創刊は昭和21(1956)年2月です。
 手元には創刊号から6号までがあります。どの号もB5判大、50ページほどです。

   

(4)この雑誌の3号から井上清氏が農地解放関連の記事の掲載を始めていますが、上の5号で10ページに及ぶ長大なものを「皇室の小作人」のタイトルで書いています。5号は21年5月の発行です。内容は、栃木県の真岡地方にあった御料農地の実態を扱ったものです。
 御料農地は、おもにこの栃木県と北海道にありました。情報公開法によって宮内公文書館所蔵の帝室林野局の文書が見られるようになり、いくらかその実態解明の動きが出てきていますが、いまでも詳しいことは未解明で、私も『御料局測量課長 神足勝記日記』で手いっぱいで、文書収集には努めているものの、集めた文書の読み込みでさえ不十分な状態なので、井上氏の論稿には不満はあるものの、いまは言及を控えます。
 とはいえ、戦後の早い時期に、どのような調査に基づいて書かれたものかはまだわかりませんが、それも含めて重要な動向なので注目して読みました。研究される人は、ぜひ一読されたい。

 欲張って書いたのがあだとなり、きょうもまたかなりが消えいてしまいました。
 ようやくここまで修復できたので、終りにします。では。

     
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No.106 大菩薩嶺 

2024-03-11 23:45:44 | 御料地
 きのう、甲斐大和駅から大菩薩嶺へのバスを紹介しました。それに関連して、前に上がったコースの落穂拾いをしておくことにしました。まず、地図を見てください。



 地図の左に「大菩薩嶺」、その左下に「上日川峠」があります。
 右上隅に「小菅」があります。小菅から大菩薩へ2本のルートが書かれています。

 大菩薩へは、小菅から2回上がり、そのうち1回目は谷筋〔2本のうちの北の方〕を西にたどるコースを上がりました。この時は、30年ほど前で、子供を連れて上がることが目的でしたから、もう記憶が薄れています。しかし、
 最後の登りが思いのほか苦しかったこと、
 5月の連休なのに日陰がまだアイスバーン状態だったこと、
 多くの宿泊者に対応するため、晩飯のカレーが極端に薄められてスープのように流れたこと
などを覚えています。

 2回目は、小菅の南の尾根筋を上がるコースを歩きました。このコースは、登り始めてすぐが九十九〔つづら〕折れできついこと、最後の石丸峠直下が、だいぶ歩いてきてからの急登なのでかなり苦しいことがあります。しかし、コースとしては、下に見るようにおススメです。私が歩いたのは新緑の頃です。
 まず、九十九折れを上がっところに、前に紹介した朴が見えました。

  
   No.50で掲載

 つづら折れを上がれば、ずっと新緑の中をいきます。こもれびがきれいです
 


 まわりの景色も一枚お見せしましょう。秋の紅葉の時期もきっと素晴らしいはずです。


 そして、大ダワの分岐点から「牛ノ寝通り」に入ると、南側の木の間から「雁ヶ腹摺山」が見えてきます。
 
 
 それをしばらく歩くと 榧ノ尾山です。足元に気を取られて下を向いて歩いていると、気付かずに通り過ぎてしまいそうな山です。
 
  
 
 私がここを歩いて忘れられないものの一つが、次の写真です。

  
 
 逞しいですね。岩を掴んでます。この調子だと、やがて握りつぶしてしまうかもしれません。
「大丈夫」、「どこでも生きられる」といっているように見えませんか。
 ここを過ぎると、急登になります。

 では、3回目の、昨日出てきたバスで入るルートです。
 バスで来た登山者は、終点の「富士見平」まで乗って頂上を目指す人と、ここで下車して「石丸峠」を目指す人がいます。その比率は半々くらいでしょうか。
 石丸峠への道はやや急登ですが、バス半分くらいの人が上って行きますから、もたもたしているわけにはいきません。それにまだ体力がまだありますから、頑張っているうちに1時間ほどで着きます。
 少し上がると辺りが開けてきますから、振り返ると、次の景色が楽しめます。

 
        左上に富士山、右下に大菩薩湖(上日川ダム)
 
 石丸峠からは、北へと左折して「大菩薩峠」方向へ行く人、東へ直進して「牛ノ寝通り」を歩いて「松姫峠」方向へトレッキングする人、南へ右折して小金沢連嶺をたどる人に分かれます。

 このとき私は、雁ヶ腹摺山を左〔東〕に見ながら、小金沢連嶺を、小金沢山ー牛奥ノ雁ヶ腹摺山ー黒岳と歩いたあと、湯ノ沢峠から木賊〔とくさ〕に降り、神足勝記が泊まった天目山栖雲寺〔せいうんじ〕に寄って田野温泉まで歩きました。そこで、折よく温泉から出てきた人が「乗りませんか」と声をかけてくれ、甲斐大和駅まで便乗させていただきました。

 なお、前にも書きましたが、このあたりは神足勝記が巡回していますし、小金沢など御料地になったところでもあります。

 今日はここまでにします。

 



 
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No.100 佐渡

2024-03-05 17:39:45 | 御料地

 これまでに何度も書いてきましたが、このブログは『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)の刊行を多くの皆様に知っていただけるように始めたものです。

 書き始める前は、「毎日は書けないけど週に2~3回なら」と思っていましたが、始めたところ、予想外にあれもこれもとテーマが浮かんできて、時間の経過を忘れて執筆材料探しに没頭することが多くなりました。そのため、棚の整理はできましたが、本来やってきたことが停滞気味になってしまいました。

 私の性分として、自分が知りたいことがわかってしまえば、「誰かに話したい」という気がないわけではないですが、むしろ「もっと先へ行きたい」という気持ちの方が強く働くようです。
 これは、論文にまとめるのが面倒なんだろうと思われるかもしれませんが、そうでもないようです。現に本5冊分くらいの統計や論文の原稿が棚積みになっていますから。
 そこで、50回目が近づいたとき、ブログをやめないにしても、毎日書くのは一区切りとして、日を置いてまとまりを付けてから投稿することを考えてみましたが、書棚を見ているうちに「いくらかずつでも書いていかないとやり残しができる」と思うようになり、動き出して、結局毎日書いて今日に至ったというわけです。毎日を締め切りとしておく方が書ける、ということかもしれません。
 
 『神足勝記日記』や神足勝記を知っていただきたいという趣旨は変わりませんが、それに便乗していましばらくは書き続けるつもりです。お時間のある方は、随時開けてみてください。 


 朴:天に

 さて、きょうは佐渡へ行きたいという思いを書いておくことにします。佐渡へ行きたいという理由はとりあえず今は4つです。

(1)佐渡御料地:
 第1は佐渡にあった旧御料地を見たい、そこが山地なら上りたい、ということです。
 次の佐渡の地図をご覧ください。
 これは『例規録1 明治31年』(宮内公文書館蔵)にある地図の模写です。
 元の図面も測量図面でなくおよその位置図ですが、その模写とはいえ、これで状態がわかります。
 緑色の所が御料地です。色が付けられない黒点の箇所まで入れると大小200に及びます。
 大きな団地は北側に集中していますが、御料地は全島に散在しています。なお、この北部の大きいところは演習林にもなっているようです。
        
 佐渡御料地は、最初は佐渡の鉱山備林として設定されますが、明治29年の三菱への鉱山払い下げの後はもっぱら御料地として経営されます。
 この鉱山払い下げにつてはいくらか研究したものがありますが、のちの御料地経営を包括した研究はまだないので、その準備のためにも廻って見たいと思っているわけです。
 また、佐渡出身の御料局職員の出身地がいくらか確認できましたから、その確認もあります。

(2)金山:
 上にも書きましたが、佐渡はやはり金山が注目されます。
 この佐渡鉱山の払い下げについて、当局が出している文書では「鉱業は設備に経費を要し、往々:収支相償はざりしを以て明治29年之を売却したり」(『帝室林野局経済概要』宮内公文書館蔵、表1の注)と片付けていますが、問題はその実証と分析なので、そのためにも現場を見立ておきたいのです。

(3)北一輝:
 北一輝については、皇室財産問題との関係では、『国家改造法案大綱』に見られる「財産奉還論」が注目されます。
 一定の金額や土地などのほかの財産を天皇に奉還するという考え方は、いまも時々そういう発言をする人がありますが、それを置いても、ドイツの社会民主党などの財政社会主義者の「土地国有化論」に類する所があり、平和国家のはずの日本の首相が、戦闘機の共同開発を国益と表明するとか、武器輸出も可能とする事態になってきていて、また戦争ほかの危機克服の時期の考え方として十分に起こりうる考え方として注目されます。
 ちょっと、取り越し苦労な感もありますが、歴史は繰り返す・・・です。

(4)最後に:
 1966年夏の「直江津のフェリー乗り場での思い」を実現したい。これは気負いではありません。私はまだ「セイシュン」真っ盛りです。
 オット、長くなりました。


 じゅくし・・・たい。




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No.99 恵澤千載

2024-03-04 16:02:58 | 御料地
 昨日の最後、少し落ちてしまいましたので補います。
 多胡・田子・田古の語源は、アイヌ語の「tapkop=たㇷ゚こㇷ゚:ぽつんと立っている山」でしょう。これが「tako=tago」で漢字が当てられ(発音され)、さらに「takao=高尾」、その前に「たんこぶ=tankobu」です。
 上の「たご」についてはほかの例を知りませんが、「高尾」と名付けられた山はほぼ無数にあります。これは「たんこぶみたいなポコポコした小山」があちこちにあるのですから当然です。多胡碑のある高崎市吉井のあたりもそうです。 ・・・くれぐれも楽しみながらのことであることを忘れないください。


       朴と「昼の訪問者」

 今日は、先日の続きとして「碑文」を紹介します。
 「No.96 米山行」で「千貫開墾圃場整備竣工記念碑」を載せましたが、読めましたか。こういうことは、御料地かどうかにかかわらず、全国のどこでもあったことです。そういう意味で、
『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)は、測量史や御料地関係だけでなく、郷土史としても重要な手掛かりや視点を与えてくれるものです。ぜひ生かしていただきたいと思います。
 まず、碑のありかを説明します。
 No.96の地図で(二つのどちらでもOK)、西の蕪栗沼から流れ出た旧迫〔はざま〕川が、北から流れてきた旧迫川と合流して下ると「三ツ口」・「三ツ口橋」に来ます。この橋を北から南に渡ったすぐ東脇に建てられています。
 この碑のところから、旧迫川を北の境界とし、南にある道路を南の境界として、東に細長く「遠田第一御料地」がありました。また、旧迫川を境にして南の碑があるところは大貫村です。元の碑文は漢字・カタカナまじりですが、下の碑文は紹介のためですから、私が、読み下し文にしておきましたので、そういうものとして読んでみてください。この地域の開拓の歴史の概要がわかると思います。ではがんばってください。

【碑文】
 恵澤千載
 宮城県知事 従四位 勲三等 林信茂 題額
帝室御料地である下谷地は、これまで低湿地の原野で葭・萱・秣の採取地であったが、不要存置御料地処分令が出されたので、大正12年に本村〔大貫村〕はこの払い下げを受けた。そして、北上川改修工事の完成が近づいた昭和8年になって、開墾の機運が熟してきたので村会の議決を経て起工の出願をしたが、この当時の宮城県では迫川沿岸地域を一丸として開墾する計画があったため、単独起工は認可されなかった。その後幾多の紆余曲折を経て昭和11年に至った。この時、本村は経済更生特別助成村として指定されたので、その施設の一つとして50町歩の開墾を行い、これを村内38の農事実行組合の共同収益地とし、さらに他の50余町歩は、耕地整理の恩恵を受けられない一般村民に耕作させる目的で開墾計画を樹立し、その許可を得た。こうして昭和12年1月、工事着手以来の県の懇篤なる指導監督と村民の協力並びに関係委員職員等の奮励努力と相まって着々と進捗し、ここに輝かしき紀元2600〔1940〕年を迎えて、これまで遊水地の観があった荒蕪地は美田となった。実に感慨無量である。これはひとえに天の時と人の和との賜であって、戦時下に資源開発のために貢献し、また基本財産の造成による村財政の基礎を鞏固にすることができたのはまことに幸慶である。今後はますます資源愛護の精神をもって心を合わせて一体となって働き、専らこの維持管理に努めることが肝要である。ここに下谷地開墾に関する概要を記録し永く後世に伝える。昭和15年10月

 以上。ごくろうさまでした。
 この地域は、迫川の蛇行のうえ、無数の沼沢地が散在するすさまじい地形でした。その一端は先日の地図でもわかっていただけるものと思いますが、御料局の神足の課寮は、関係者立会いのもとこれを踏査し、それにもとづいて測量しました。
 これについて、すでにおおむね調べが付きましたから、そのデータを宮城県公文書館に提供しました。その後どう扱われている不明ですが、見られるようならご覧ください。
 今日はここまでです。


 くっつきあって・・・いいね。
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No.96 米山行

2024-03-01 23:54:06 | 御料地
 今日は、涌谷の続きとして、その北に位置する米山をとりあげます。(なお、これは東日本大震災の前後頃に何回か調べに行ったことを含みます。現在と違うところがあるかもしれません。)
 米山はつぎの地図のような位置にあります。〔【地図の説明】はパスしてOK〕


 
 【地図の説明】
 〔交通手段〕
 左上に東北新幹線:最寄り駅は「くりこまこうげん」。
    東北本線:北から「にったーうめがさわーせみねーたじりーこごた」。
 左下に石巻線:西から「かみわくやーわくや」。
 右下に気仙沼線:北から「やないづーみたけどうーりくぜんとよさとーののだけ」。
 なお、「ののだけ」は「篦岳」ないしは「のの岳」と書きますが、珍しい地名であるとともに、駅〔停車場〕西側に「御料地」という小字が残っている旧御料地の一帯です。また、そのすぐ西には篦岳山という山があります。
 〔地勢〕
 左上に伊豆沼(周辺は旧御料地)の一部・内沼・長沼
 左の東北本線近く・長沼の南に蕪栗沼〔かぶくりぬま〕。
 左上から見下にかけて迫川〔はざまがわ〕。
  迫川は河川改修事業を重ねてきたため、新旧無数にあります。
 東に北上川が流れ、南は石巻市になります。
 北に南方町〔中心は佐沼〕、右上に中田町、ここを東に行くと南三陸町〔志津:しづがわ〕に至ります。

 【本論」
 米山は、地図のほぼ中央にあります。そして、「米山町」とあるすぐ南の十字路の東に「米山高」とあるのがわかります。 
 そして、米山町と涌谷町の間に、昨日も名前が出てきた加護坊山〔かごぼうやま:標高224m〕と、地図には明記されていませんが、篦岳山〔ののだけやま:222m〕があります。
   
   
   左「加護坊山」・右「篦岳山」:東北新幹線古川駅南付近車中から

 米山と加護坊山・篦岳山に挟まれる一帯は、しばしば迫川の氾濫に悩まされる湖沼地・湿地帯・荒蕪地で、ここに御料地がありました。
 次の地図の下の方〔南方〕に、涌谷をはさんで「相〔野〕沼」のほかに「下地沼」・「名鰭沼」・「広渕沼」が見えます。今日では、これらの3沼の残っている地図は珍しいものとなっています。そして、北側に、西の加護坊山〔又兵衛壇とある〕と東の篦岳山があり、さらに北の一帯の、左上から右下にかけて朱色に色付けした箇所、ここが旧御料地だったところです。
 左上に蕪栗沼があり、そこから出た川〔迫川の一つ〕が、蛇行をつづけて右の北上川に流下していきます。おおむね、この川の北側が「登米御料地」、南側が「遠田御料地」です。
 ここでは、秣や下草の刈り取り、湖沼・河川での漁業、農地貸付などが行われていましたが、大正期頃から処分・払い下げがすすみ、また、地図に見える湖沼もほとんど埋め立てられ、次第に治水も耕地化も進み、現在は水田耕地化されています。


 私は、この一帯を見るためにJR田尻駅から加護坊山に上りました。(その写真は後日の機会に、とします。)そして、さらに篦岳山との境目の、涌谷から来る道に沿って米山まで歩き、米山高校の脇にある「開拓記念碑」を見に行きました。(碑文は『米山町史』に)。

 開拓記念碑:後ろは米山高校の校舎

 また、この頃、蕪栗沼の東にある「千貫〔せんがん〕」に、次の「圃場整備記念碑」があることを知り、見に行きました。これはつぎの写真で読むことができると思いますのでどうぞ。
 

 この千貫へ行った頃はミニサイクルを持ってましたから、これで旧御料地一帯をくまなく回りました。
 しかし、米山の碑を読みに行ったときはまだミニサイクルを持っていませんでした。
 真夏の炎天下の水田地帯を歩きましたから、暑くて暑くて。なにしろ、水路でタオルをビショビショに浸してかぶってもすぐに乾燥してしまうというひどい状態でした。それでも、見たい一心で、帰りのアシのことを考えずにひたすら歩きました。
 そして、endlich〔エントリッヒ:とうとう〕開拓記念碑を見ることができました。すると安心して、ようやく帰りのことを考え出しました。すると「またあの暑いところを戻るのか」と思案に暮れました。
 そう考えながらあたりを見ると、米山高校の近くに店があるのがわかりました。そこで、水分補給をしながらバスの便を聞くことにしました。すると、
 「〔涌谷と反対の〕佐沼の方へ行くバスはあるけど、涌谷の方は・・・。ハイヤーもここまでは余ほど時間がかかる・・。」
 と、ムリそうなので、「また歩くか」とあきらめて外に出ると、なんとそこへハイヤーが来ました。
 「地獄に仏とはこのこと」と喜こんでいるとビックリ、先客が乗っていました。
 しかし、ここが「私の本領」。
 「ほかに手立てがないから、止めるしかない」とばかりに、道路に出て手を大きく振りました。すると、止まってくれました。
 「そこの碑のところに居ますから、戻ってきてくれますか?」
 というと、
 「10分ちょっと待ってくれれば・・・」と。
 
 これが「私の旅」。では。


  にわにはにわの・・・さん

 付録:
 「瀬峰の人」というのをご存じですか?

 
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