神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.143  お詫びかたがた

2024-04-18 03:51:13 | 多謝
(1)昨日は「羊頭狗肉」みたいなことになってしまい、申し訳ありませんでした。
 書き始めるといろいろなことが浮かんできて、それをどんどん書いていくと、あれもこれもとなって、かつ量が多くなり、結局どこかを削る〔割愛する〕しかなくなります。別にそれで問題ないわけですが、ところが、とりあえずのつもりで書いておいたタイトル〔標題〕の訂正を忘れてしまった、これが昨日の顛末です。だいぶ前に番号だけの時がありましたが、あれも同類です。

    

(2)ところで、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIG)の刊行から4ヶ月が経過しました。
 この間、日本林業調査会や関係者のご尽力のおかげでだいぶ知られてきたようですが、そしてそれが図書館の蔵書検索で判明するようになってきました。ウレシイかぎりです。

 たびたび書いてきましたが、このブログは『神足日記』の刊行を知っていただきたいということのために始めたものです。
 ブログとしては、いまだに、UUとかPVにどんな意味があるのかも、カテゴリーとかハッシュタグの機能などもほとんど理解していませんで、ただ、書き残したいこと、思いついたことを書き綴っているだけです。それでも、内容の重複を避けるチェック〔点検〕や、内容の補助や目の保養で入れた写真の重複を避ける工夫をやりながら、少しずつ書いてきましたが、これを自分用に打ち出したものがすでにファイル〔簿冊〕3冊になりました。毎日のことなので、推敲も十分ではないし、写真との連結も理想通りにはいきませんが、まだいくらでも書けるでしょう。というよりも、ものぐさなので迫られないと考えない・・・。まあ、ハジカキになりそうですが・・・。

   

(3)先日、『神足日記』を読破したと来た人がありました。
 その人としばし、神足の人なりとか、事業や足跡、御料地の意味について話しましたが、最後に質問されました。
 「あれは、全部を自分で入力したのですか」
 と。それで、
 「冒頭の「刊行に寄せて」と「奥付け」のほかは全部自分で入力したものです」
 と答えましたが、これは本当です。
 私は、もともと、日記全文、回顧録、そのほか関係文書類、どれも読み飛ばしということなく記録しています。記録がないのは、読む必要がないと判断したものか、まだこれから読む予定のものということです。下読みは別として、正確に読み取りするとなれば、そうしないとわからなくなってしまい、あとから使いものにならないからです。

   

(4)「解題」のどこかにも書きましたが、読んでいてわからないものは、いちいち全部を検索しました。いまは、むかしと違って非常に研究に便利になってきています。「むかし」という意味は、「ここ20年くらい」のことといってよいと思いますが、パソコンが普及して検索機能が向上する前は、図書館でカード検索していました。このカード化されていることとか、索引が作成などされていること自体が大変便利なものですが、パソコンはその比ではありません。
 ともかく、わからないと感じたことはすべて検索しました。ですから、そこそこに知っていることで検索漏れということはありえますが、それはともかく、同時に、収集した文書は可能なかぎり盛り込みました。

     

(5)おそらく、この本を使えば、作家なら小説でも戯曲でも歴史に残る大作が書けるでしょう〔能力ある作家ならば、です〕。これは、全部を読み入力したものとして請け合います。必要なら、概要を説明もしましょう。
 それから、研究者なら、とくに修士課程とか博士課程のように、やたらと期限を迫られている人なら、それはそれとしてなおさら、1年かけてじっくりこれをお読みなさい。読んで、自分で調べたことと併せてテーマ〔課題〕を検討したなら、いくらでも論文が書けるはずです。できないなら、研究者をやめるか、ほかの分野へ移りなさい。
 なら、自分でやればよいではないか、ということにもなりそうですが、自分には、作家の希望もないし、もっと先へ行きたいという願望の方が強く、ここにとどまっているわけにはいきません。ここが自分の「損な性分」と思いますが、「自分でわかったと思ってしまうと、もうそこにはとどまれない」で、先を急ぎたくなってしまうのです。嗚呼。

   

(6)この先は、ひとえに資金力に掛っていて発表できるかどうかわかりませんが、すでに、情報公開法制定以前にいちど作成した統計書も作り終え、年内には『神足日記』に続く調査が完成し、来年には調査結果の入力もできるでしょう。そうしたら、あと20年かけてそれを文章にまとめ上げたい。「まとめ上げたい」とは、「墓標を建てる」ということです。もはや時間勝負に入りました。
 オット、やっぱりカネ次第です。資本主義ですからねえ・・・。
 〽ケ・セラ~・セラ~

 


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No.50  一区切りとします

2024-01-13 23:36:57 | 多謝
 ブログを始めて連続50回目になりました。これにて一区切りとさせていただきます。
 ご覧いただきありがとうございました。

 この間、開いてくださった方がのべ2861名、ご覧いただいたページ数がのべ4515ページでした。1日平均では56名・90ページでした。

 なんとかブログを立ち上げたものの、最初はUUやPVの意味も分からず、今でもカテゴリーとかハッシュタグということの意味・目的をほとんど理解していませんが、思いつくままに書いてきました。
 
 この目的は、『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く-』を日本林業調査会(J-FIC)から12月15日付で刊行していただきましたので、この本を必要とされる方々に周知されることを願ってのことでした。
 これは、宣伝には違いありませんが、販売よりも、本の存在を知っていただきたい、それによってこの分野の研究が少しでも進むように利用していただきたいということが主眼(主願)でした。
 全国の御料地の踏査・測量を担った神足とその課僚の足跡を知っていただきたい、この本はそれを知る重要な手掛かりになるものなので、ぜひ知っていただきたい、ということです。

 ご覧いただいた皆様には、ぜひこの件を関係者に紹介していただけますようにお願いいたします。
  
 このブログを準備するにあたって、これまで撮っても見返したり楽しんだりすることが少なかった写真を、毎日1時間以上も見て楽しみました。
 載せられたのはまだごく一部にすぎません。

 また、何を書くかと考えているうちにテーマがうかびすぎて、書こうとすると錯雑して困るほどでした。むしろ、書き始めればまだいくらでも書けるとの自信を深めました。
 しかし、書くことを予告・約束しながら、ここで中断となってしまうので申し訳ありませんが、もうこの辺でよいのではないかと思う次第です。

 最後に、お礼を兼ねて、1枚進呈します。
 
 
 
 私は、朴の姿を中学1年生の時にふるさとの山で見ました。
 「学校の花壇が草茫々では寂しい」と技術家庭の先生が一人整備されているのを見て申し訳なく思い、花壇に植えるための草木を探して、友人の黒澤君と山に分け入って、藪を抜けて見上げた時にこの姿を見たのです。
 もちろん、この写真はわが家の庭の朴ですが、思い出はこの通りです。
 強いていえば、私が見た朴は、これよりいくらか明るい陽の中で風に揺れていました。

 私もいくらか山歩きをしますが、山で朴花に出遭うことはなかなか難しいです。うまくタイミングが合わないと出会えません。
 それに、山歩きの時、里山の辺りは登りか下りなので、転ばないように下を向いて歩いていますから、気付きにくいでしょう。
 気がついても、手が届かない「高所の花」、小さくしか見えません。

 そこで、前に書いた小菅から大菩薩嶺への途中で見た「朴の蕾」の写真がありますから、それを「今後の開花を期待して」紹介しておきましょう。

 
     蕾も高貴です

 なお、ここを閉鎖するわけではありません。この後もここを利用することがあると思いますが、少なくとも毎日ということはもうありません。ご了解のほどをお願いいたします。

 とまれ、みなさまご健勝のほどを。  

 



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 2023年の終わりに

2023-12-31 18:44:08 | 多謝
  
   頂上がまったいらの荒船山:内山峠下より
 
 今年も内外ともいろいろありました。
 ロシアやイスラエルだけでなく、国内でも、度を越してやりたい放題の場面が多くなってきていませんか。
 冬が来たのに、晴れるとじりじりと暑い。これで夏になったらどうなるかと心配です。暖ったかいと喜んでいられません。

 来年こそは「言葉の力で道を開く年」になってほしいと思います。
 あちこちで怒りの声を挙げている人がいますから、私もできることを少し援助をしようと思ってます。このままでは心配でたまりません。

 さて、今年は、ようやく『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く-』を日本林業調査会(J-FIC)から刊行することができました。
 刊行でお世話になった皆様にお礼を申し上げます。

 なかでも、この日記をお貸しくださった神足勝浩様、それから勝浩様亡き後には弟の勝泰様、さらには勝浩様ご子息の勝文様には、たいへんなご配慮をいただきました。感謝しております。
 それから、私は若いころから、林野庁に勤務されていた萩野敏雄さんに大変お世話になってきましたが、人のつながり・縁は異なもの不思議なもので、その萩野さんとのご縁が、巡り巡って多くの皆様からご援助をいただく背景にありました。忘れはいけないことだと、感謝しております。
 勝浩様や萩野さんのことはいずれ書きたいと思います。
 みなさまにはいろいろとありがとうございました。
 
 なお、これまでは、わからなければ調べる、調べて自分が納得できればそこまで、そして、先へ先へと急いできましたが、刊行を契機としてブログを書き始めました。目下のところ1ヶ月が経過したばかりで、ようやく勝手がわかってきたというところですが、年明けもいましばらく続けようと考えております。お手すきの時にご覧いただけますようにお願いいたします。


 年末に一言。
 群馬の育った家の辺りは昔は田んぼの中にあり、真北に赤城山、北東に榛名山、西に妙義山の上毛三山が見え、妙義山の北に煙を吐く浅間山、南に頂上がまったいらの荒船山が見える風景の中にありました。田植えのころには、蛙がゲコゲコと鳴き窓ガラスを這っていく姿が映り、冬には、北から吹く赤城颪に煽られて吊るしておいたチリ取りがパタンパタン、カタンカタンと鳴り、天気の日には浅間山が煙を吐きながら夕日に赤く染まるのが見える、そんな風景の中にある新興住宅でした。
 それから早くも半世紀が過ぎ、我が家も代が替わり、周囲は広がってきた住宅地や新興施設の中に飲み込まれ、周囲に昔の風景を見ることができなくなりました。ごく普通に見えていた山々は見えなくなり、祖母たちが朝な夕なに精を出していた田畑は無くなり、昔こわごわと入った里山の奥にバイパスが通じて、かつてのでこぼこ道よりもはるかに立派な通りとなりました。
 風景の変化だけでなく、人心もまた都会的に移り変わったのを知りました。

 テレビで、代々の残したものを修復して生活することを誇りとする人々の姿を見るにつけ、あの懐かしい時間をとり戻すには、わが身のなにを差し出せばよいのかと思わされます。
 コロナ蔓延以降の変化の中で見聞きしたということもあり、その落差を大きく感じたのかもしれませんが、これからの日本や生い立ちの地がどう変化していくのか案ぜざるを得ない一年でした。
 今年はここまでです。

 
  


 
 

 
 
 
 


 

 

 
 
 
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