神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.307 金峰山遭難の記

2024-10-18 23:42:37 | あの日
(1)きょうは終日雨曇りでした。天気に関わりなく作業は真面目にやっているので、閑居はしていませんし不善もしていませんが、にわかに「ああ山に行きたい」と思い立ちました。
 すると、コロナの自粛以降だいぶ遠出してないから、きっと体力が落ちてるな、足はどのくらい持つだろうか、もう山行の準備をやらなければだめだな、青梅の日ノ出山北尾根には入れればいっぺんに回復させられるだろうに残念だな、などなど次々に浮かんできて、作業が手につかなくなりました。

    

(2)あれこれと考えているうちに、山梨県にある金峰山のことが思い出されました。
 金峰山のことは、『御料局測量課長 神足勝記日記』(JーFIC)の14㌻に、神足勝記が巡回して登ったことを書いておきましたが、それもあり、私も2017年11月に上りました。
 初日は、甲府からバスで昇仙峡に行き、バスを乗り継いで金桜〔かなざくら〕神社まで行き、そこから歩いて黒平〔くろべら〕の青少年センター?泊。

(3)翌日、甲府市森林浴広場まで車道を行き、そこから金峰山古道に入りました。
 歩き始めて3時間近くたったころ、林道に出ました。地図には「一部林道を通る」とあるのでこれで良しと辿って行くと川に出ました。道はだいぶ細くなりましたが、それでもちゃんと踏み跡はついていました。少々不安に思いましたが、まだ行くと、シャクナゲが生い立って左右から道をふさぐようになりました。それでも道はありましたからさらに歩くと、少し開けました。そのころになって、いくら通る人が少なくなっているとはいっても、これは荒れすぎていると思うようになり、道を間違ったことに気が付きました。

(4)引き返そうかと思いましたが、まだ先に道は続いているのがわかりましたし、上に金峰山のシンボルである五丈岩が見えますから、上に行く方が近いと感がえて進むことにしました。
 やがて頂上に着いている時間の12時頃になりました。しかし、どこにいるのかもわかりません。そうこうするうちに16時頃になり、陽が斜めに傾き始めました。それでもまだどこにいるかわかりません。仕方なく、尾根から外れないようにして、上を目指して歩き続けました。
 やがて、陽が落ちました。ところが、木陰は真っ暗ですが、20時頃だったでしょうか、まんまるの月が出てきました。すると、木のないところは月の光で道がわかる明るさで、ほとんどヘッドランプも懐中電灯もつけずに歩けました。電気類はLEDにしていたので、持ちがよくこれは助かりました。月明かりで、 上にある五丈岩もはっきり見えてました。

(5)ところが、ウソみたいな話ですが、にわかに雲が出始めました。それも傘のように頭の上あたりに丸くです。そのころになると、月はやや傾いて、雲から外れていましたから、月明かりは確保できていました。ですから、困ることはなかったのですが、それからまもなく、雨が降り始めました。すでに防寒用にカッパを着ていましたが、傘も差しました。でも、傘を差すと暗くなります。
 いよいよの時のためにできるだけ電灯類を使いたくないな、などと思案していると、ちょうどその時、岩谷のような大きな岩が見えました。そこで雨宿り兼野宿でもして夜明かしをすればいいかと踏んで下に入りました。ところが、11月の山ですから、じっとしていると寒くて5分も持ちません。火を炊くことも考えましたが、風があり危険と判断して止めました。
 仕方なくそこを出て歩くことにしました。そして、ともかく、今夜は寝られないこと、歩いて体があったまったら少し休んで、寒くならないうちに歩くしかないと覚悟を決めて動き始めました。
 もっとも、ふだんは2~3時くらいまで起きているのは平気ですから、「ふだんよりも2~3時間がんばれば夜が明ける。夜が明ければ、道が見える。もう大丈夫だ」と考えて、ともかく手と体を冷やさないことを気をつけることにして動きだしました。

(6)ところが、雨が雪に変わりました。雨も雪もそうたくさん降ってきたわけではありませんでしたが、みるみるうちにあたりが白くなりました。月が出ているのに雨が降り、それが雪に変わったのですから、狐の嫁入りみたいな天気だったわけです。しかし、雪が月の光を反射して、あたりがさらに明るくなりましたから、これはむしろ助かりました。
 雨と雪にぬれた手袋の指を冷やさないようにより注意して、ひたすら尾根を外さないように歩いていくと、やがて五丈岩の西にある「千代ノ吹上」の大岩が近づいてきました。
 安心して来た方を振り返ると、甲府の夜景と塩山方面の夜景がきれいに見えました。それで「記念写真だ」といって撮ろうとすると、デジカメの電池が切れていました。仕方なく、「証拠なしだ」とぼやきながら、見納めにもう一度見ておくことにしました。じつにきれいでした。
 千代ノ吹上の北側は、前に甲武信〔こぶし〕岳ー国師ヶ岳ー大弛〔おおだるみ〕峠ー瑞牆〔みずがき〕山と縦走していましたから、尾根筋の登山道のことはわかっていました。
 最後は、ハイマツ帯を越えて千代ノ吹上の下の岩畳を登るだけでした。

(7)こうして、4時過ぎに尾根道に辿り着きました。
 五畳岩の方に迂回して金峰山小屋の方を見ると、もう電気が点いていて、人が動き始めていました。降りていくと、下から上がってきた人に「もうご来光を見て来たんですか」と驚かれましたが、「いや、道に迷って、今着いたんです」と答えるのが精一杯でした。
 すれ違って、小屋に着くと、またまた小屋の人に驚かれ、自力でたどり着いた旨を話すと、ひとこと、「運がよかったですね」と。
 妙に「運」ということが記憶に残っていますが、ともかく、炬燵に入って横になりました。

(8)そうそう、神足が辿り、私が目指した古道は、すでに年に100人も通らない荒れた道になっていたので、今年1月にクラウドファンディングで資金を集めて修理をし、10月18日〔昨日〕開通したそうです。う~ん!年内の挑戦はムリかな・・・。



    
   うつぎ

 今日はここで。

   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

No.290 国民生活時間調査

2024-09-11 23:34:38 | あの日
(1)きょう、庭で水遣りをしていると、「あんちゃん」たちはもう無事育ったとみえ、もうあたりから見えなくなっていましたが、横から小さい蛾が挨拶に来ました。
 「もう一期一会を決めたから、五月蠅いのはやだよ」というと、
 「いえ、もう九月ですから・・・」と軽口を言います。生意気なヤツと思って見ると、少し羽根を痛めたヤママユのようでした。
    

(2)ヤママユには、むかし父が世話になったことがあります。
 それは、右の肩甲骨の辺りに天保銭くらいの大きさの腫物ができたときのことです。何が原因かはわからなかったようですが、熱をもって赤く腫れあがりました。そこでこれを冷やすと、今度はウミをもって痛み出しました。もちろん、医者に治療してもらいましたが、なかなか治りません。
 困っていると、ある人が、お蚕くらいの大きさでうすい黄色をしたヤママユを持ってきて、「これをほぐして綿みたいにして傷に貼るとウミが取れるから、試しにやってみて。この辺じゃあ、みんなそうやってるから・・・。」と、言いました。
 父も母も「医者で治らないものを」と疑い半分でしたが、ともかく試しに貼って、それから2~3日してその人がまた来て剥がしたところ、ヤママユがウミがみな吸い取っていて、あとには真っ赤な傷口が見えました。すると、「あとは、肉が上がるのを待てば大丈夫だ・・・」と言って帰って行きました。

(3)これは、父が群馬県多野郡中里村神ケ原で教員をしていた1956年ころのことです。
 ちなみに、神足勝記がここを巡回したのは明治17(1884)年ですから、この70年も前のことになります。   
 それから、この時のことが頭にありますから、山でヤママユを見つけたときに拾ってきました。手元のものはきれいな黄緑です。山でもなかなかみつからないものです。

    
      きょうの月

【コレクション 84】
 きょうは「国民生活時間調査」です。
 「昭和16〔1941〕年調査」で「〇に秘〔マル秘〕」とあります。興味深い調査ですね。
 私個人としては、右下の「生活の夜型化はいつから始まったのか」に目が行きました。
 

 大きさは、B5判6ページの冊子です。
 全体は、
 1㌻ 上掲
 2㌻ 下に載せました。鈴木泰「刊行にあたって」はぜひ読んでみてください。せっかくの調査も、平和でないと、時の国策との関係で「秘」されてしまっい生かされません。

 
 3㌻ 本調査の特長
 4~9㌻ 推薦文
     石川弘義 成城大学教授 これは驚くべき調査だ
     一番ケ瀬康子 日本女子大学教授 多面的な活用を
     大江志乃夫 茨城大学教授 「滅私奉公」時代の「私」の時間を調査
     加藤秀俊 放送教育開発センター長 よみがえる半世紀前の生活 
     佐々木亨 名古屋大学教授 よみがえる国民生活の実像
     土屋精作 NHK放送文化調査研究所長 日本人の生活実態を比較する
     中嶌邦 日本女子大教授 戦時生活を問い直す
     中西尚道 文教大学教授 戦前の生活実態を知る貴重な資料
     原朗 東京大学教授 生活の中身を考え直す
     原芳男 東京工業大学教授 新しい知見の得られる貴重なデータ
     松島千代野 日本女子大社会教育会家庭科学研究所長 家政学・家庭科教育の分野にも貢献
     松田義幸 筑波大学助教授 ライフスタイルの昨日・今日・明日を比較する
     室俊司 立教大学教授 社会をつくる人間行動の基底を探る
     山中恒 作家 『国民生活時間調査」の復刻刊行を喜ぶ 
 10㌻ 組見本
 11㌻ 巻別構成
 12㌻ 原版編纂発行 日本放送協会
     刊行案内 A4判 揃定価90000円 大空社  刊行年不記載
 以上です。
 最近、日本共産党議長の志位和夫さんがしきりと「自由な時間」のことをいっています。
 たしかに、これはマルクスも言っていることで、我々の自由は社会経済的に制約された自由なんですね。一見何も問題なく自由に行動しているように見えますけど、これは一定の収入が確保できたうえでの自由です。ですから、もし職がなければ、死ぬ自由くらいしかありません。
 ほかにも、たとえば、職はあるけど低賃金のためにピアノを買えないから練習できない、ピアノは買えるけど置く場所がない、置く場所はあるけどまわりに音が響くのでムリ・・・。こういう例はいくらもあります。むずかしいですね。

 きょうはここで。
 きのうも書きましたが、目の治療のため、あすのNo.291〔実質290回〕をもってしばらく中断します。開始は目の調子次第です。

    
       きょうの夕焼け
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

No.256 原爆の日

2024-08-09 00:00:32 | あの日
(1)きょう8日付『朝日新聞』11面の山田朗氏へのインタビュー「昭和天皇の戦争関与」を読んだという人も多いでしょう。「天皇の戦争責任問題研究の到達点」として、私も興味深く読みました。そして、軍の最高指揮権である「統帥権」を持つ天皇が直接に指揮に乗り出す事態にまで対立するに至った陸海軍の実態はどこまで解明されているのかと改めて思いました。

(2)なお、これに関わって、手元に次のパンフがありました。  
    

 大きさはB5判、6㌻です。体裁は、B5判大の用紙3枚分の横長の用紙を、最初に右から3分の1を谷折りし、つぎに左から3分の1を谷折りするとできます。
 全体は、
 1㌻ 上掲
 2㌻ 秦郁彦 刊行にあたって
 3~4㌻ 組見本
 5㌻ 掲載項目 第1部 主要陸海軍人の履歴/第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧/
    第3部 陸海軍主要学校卒業生/第4部 諸名簿/第5部 陸海軍用語の解説
 6㌻ 装丁見本
    刊行案内 B5判 760頁 定価32960円 1991年10月刊 東大出版 
 
(3)ひとことだけ、これを見ての「感想」を述べます。
 まず、上の1㌻目に「巨大組織の全貌!」とあり、「総合事典」とあります。しかし、5㌻を見ると「主要」と付けられてます。はて、どちらが本当でしょうか?
 つぎに、私は軍事について直接関心を持っているわけではありませんが、神足勝記の子息の勝孝〔かつたか〕氏が海軍で爆薬研究に従事しておりました。勝孝氏は、最終的に研究職の軍人として海軍中将に昇進します。しかし、その関係で、戦後は公職を追放となり、追放解除になるまでのあいだ窮乏生活を強いられ、解除後は社会復帰でいろいろ活動します。
 勝孝氏はこのことを日記に記していましたので、勝記日記と同様に、ご遺族の勝文〔かつぶみ〕氏よりお借りして全文を読み解きパソコンに入力しました。(これについては「No.84神吉翕次郎」をご覧ください。)
 海軍中将といえば幹部ですが、それでもかなりのことを経ます。それなのに、「主要」な「全貌」だけだとしても、760㌻の事典でどこまで取り上げられたのか・・・。ふと「発想が軽い」のではないかと思いました。

     

【コレクション 43】
 8月6日は「広島の日」、9日は「長崎の日」、行かなければと思いながら、とうとう半世紀が過ぎました。若い時、親しい友人から誘われたことがありましたが、アルバイトのことやいろいろあり、ついと行けませんでした。しかし、「沖縄の日」と共に忘れることはありません。 
 手元に、次のパンフがあります。
 
   下部の「Kiyoshi Awazu〔粟津潔〕」のサインが切れています。
        この作品名は:「羽ばたく鳥たち」

 大きさはA4判、8㌻のものです。全体は、A4判4枚分の横長の紙を、最初に左右から4分の1ずつを折り込んでA3判大とし、それをさらにもう一度谷折りするとできます。
 体裁は、
 1㌻は上掲。これを開くと、2㌻と7㌻になり、上下各4分の1に「刊行にあたって」と「推薦文」があります。
 「刊行にあたって」の箇所を下に載せます。 
 ガザの子たちと重なります。戦争指導者は生かして、必ず裁きましょう。

 推薦文 林 京子(作家) 若い人たちの未来への道標
     本島 等(長崎市長) 過去への反省、未来への警告
     森瀧市郎(哲学者) 反核の波を起こす契機に
     大江健三郎(作家) 忘れてはならぬもの忘れぬために
     松谷みよ子(児童文学者) 戦争を知らない世代へ手渡さねば―
 3㌻~6㌻ 上段 特長 全巻内容/下段 装丁見本
 7㌻ 上段 刊行案内 A4判 平均420㌻ 1991年刊行 日本図書センター 
    下段 粟津潔の絵:「沈黙する鳥たち」

 なぜ、標題に「日本の」と付いているのでしょうね? ビキニや他の実験地などがあるからでしょうか。
 いま世界に1万1000発余の原爆があり、毎年200兆円もの軍事費が使われています。200兆円は、日本国民約1億人に一人につき200万円ずつ配れる金額に相当します。
 岸田内閣は、軍事費を2倍化し、自衛隊を米軍の指揮下に入れました。ナンセンス!
 過ちを繰り返さないのが叡知です。

 【コレクション 44】
 来年の原爆の日にこのブログが続いているとは思えませんから、この際、もう一つ行きましょう。『新聞資料 原爆』です。
 これは、次に掲げたところに特長や内容説明があるので、贅言を弄するまでもありませんから、簡単に終わらせます。
 
 
 このパンフは、B5判大、4ぺーじです。つまり、B4判を二つ折りしてできています。
 全体構成は、
 1㌻ 上掲 ここに、キノコ雲と、内容説明は右上に記されています。
 2㌻ 監修者挨拶
    小田切秀雄(法政大学名誉教授)ほとんど突然に、経験のワクがひろげられー 
 3㌻ 内容見本
 4㌻ 刊行案内 A4判 240㌻ 定価9800円 日本図書センター
    内容紹介(ほか宣伝)

 パキスタンにカーン博士という人がいました。
 インドとパキスタンでは国境周辺が不分明で、国境紛争で揉めるごとに人々は移動したそうです。そして、カーンさん自身も実はインド人だという説もあり、少なくとも一族がインドに住むそうです。
 カーンさんはイギリスに留学して物理学を勉強し、やがてパキスタンで「水爆の父」といわれる地位を築きました。
 ところが、その兵器はインドに向けられ、つまり一族に向けられているのだそうです。
 
 むなしいですね。自分の努力した結果が一族を苦しめるために使われているわけです。 
 考えなしで学問をすると、あるいは、広く、目先の都合だけで良かれと思ってやっていると、人を苦しめることになりかねません。
 今は、世界の危機です。
 きょうはここで。

    
    〽宵闇~ せ~まれば~ なやみは~ は~てなし~
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

No.179 非正規雇用者の半生

2024-05-24 04:47:23 | あの日

     バラがにぎやかです。

(1)ひとも他の生き物も、衣食住が足りて生活が成り立っています。これがなくては生きられません。そして、その生活のためにひとは働いています。

(2)私は、最初は自分の学生生活のために働き、その次には、研究者の道と家族を養うために働き、そして「稼ぐひと」という意味でのいわゆる「現役生活」を終わりました。この間に一時期だけ正規職員になったこともありますが、研究者の生活としてはずっと非正規でした。

(3)振り返ってみると、非正規であったために不安定であったといえば不安定でしたが、うまく切り抜けてきました。
 うまくというのは、学生の頃のアルバイトは証券会社の相場書きでしたが、このころは列島改造でも知られる高度成長の時期でもあり、証券会社もまだデジタル化する前でしたから、兜町での株の商いを短波放送で受けて黒板に記入していくアルバイトは不可欠でした。
 その後、スタグフレーションが起こりますが、この時期は、定職についていました。

(4)勉強しようとして定職を離れてから、中野区で塾の時間教師になりましたが、そのころは、塾は数も規模も大きくなっていく走りの時期でしたから、専任講師の誘いを断るのが大変でした。大学院に合格してからは、理解してもらえて、それもなくなりましたが・・・。

   
    これは? 黄色い花です。

(5)その後、留学のために最初の塾をやめて、帰国後は国立・立川・八王子の方の塾に移りましたが。この時がすこし大変でした。
 いろいろありましたが、要するに、この時期の塾は、いくらか大きくなってきていたとはいえ、まだ個人経営ですから、ワンマンなところがでてきます。それに対して、私は、自分のためでなくても、よせばいいのに、おかしいことは意見を言う方です。そうすると、意向に沿わないためにうまくいかなくなります。その結果、3度も塾をやめることになりました。
 その中には、自分が必要とされていると思うから、親身になって提言したにもかかわらず、即日クビということになり、「辞めさせるなら1ヶ月分払え」と要求して支払わせたこともありました。
 
(6)年度の途中で新しい塾を探すのはほとんど困難です。収入が途絶えたために、全集や百科事典などを4~5箱分売ったということもありました。
 しかし、世の中捨てたものではありません。その後、塾の時の腕を買ってくれる人がいて、ある大手の予備校に移りました。おかげで、時給が塾の時の最初は2倍くらいから時期に4倍くらいになり、助かったということもありました。

   
    オリーブがまたまた大きく開いてきました。

(7)このころになると、知り合いの紹介もあり、大学の非常勤講師の口もかかるようになりました。
 ところが、ある大学の社会学部で財政学を教えるようになって3年目に、急にカリキュラムが変わり、それまでは、2年生からの受講だったものが、1年生からいきなり受講できることになりました。
 財政学は、本来は「財政論」というべき科目で、経済学の中でも応用分野の科目です。経済だけでなく、政治や経営などいくつもの分野とまたがるので、2年生どころか4年生からでもよい科目内容です。それが1年生から受講できることにされたわけです。
 そこで、年度初めの講師懇談会の席上で、司会者が「ぜひ忌憚のないご意見を」というので、その事を言いました。すると、すぐに教科主任?が説明にて、「あれは誰でも自由に取れるように配慮したもの」と言うので、「入学したばかりものに、いきなり応用科目を履修できるようにしたといっても、配慮とは言えない」と言い返したところ、物別れとなり、翌年はその講座を廃止、つまりクビになりました。
 専任職が、非常勤職の管理職になっているんですね。

(8)もっとひどい例があります。これは別の大学でのことです。
 2000年の頃から財政学の担当が始まりました。受講者は毎年100~160人くらいいました。まあ、多い方でしょう。出席率60%として、学生がいちばんさぼった時期でも50~70人くらいはいました。盛況でしたから、「任せて大丈夫」と思われたのか、5年目からは「行政演習(財政学)」という公務員試験対策を期待していると思われる3年4年生向けの講座が追加されました。

 その後、財政学は受講者がさらに増えて200~300人に及び、また行政演習は「演習」なのに50~60人は当り前、多い時は131人に及び、悲鳴を上げるほどでした。こんなにいると、毎回のプリント印刷だけでもかなり時間がかかります。

 ところが、2009年に財政学の受講者が57人、行政演習は46人と激減しました。これだと、全員出席しても、その前の最低人数ほどもいないのですから、寂しいものです。これを見て、私はなにか具合の悪いことでも言ったかなといろいろ考えてみましたが、何も思い当たることがありませんでした。(当時はまだハラスメントという言葉は一般的ではありませんでした。)
 仕方なく、心当たりがないままに授業を続けて、翌年度を迎えました。そして、行ってみて驚きました。なんと、財政学の受講者が24人、財政学演習(元の行政演習)は3人でした。明らかに異常とわかりました。

(9)そこで、これまでの履修者を調べてみました。その結果わかったことは、つぎのような結果でした。(2010年以降のみ記載)
          財政学履修者(人)    行政演習履修者(人)
         2年  3年  4年     3年  4年
  2010年 126  18  59     15  24
  2011    0  11  46     20  26
  2012   16   8   0      0   3
   
 それまで、財政学を大半の学生は2年時に履修していたのでしょう。そのためもあって3年次時は少なくなります。4年生は、就活もあり、ついでに登録しておくという人が多く、ほとんど出席しません。
 一方、財政学演習は、就職用ですから、4年生が主体です、来る人はきちんと来ます。

(10)問題はこの原因ですが、ようやくわかりました。2010年に制度変更があったのです。どう変わったかというと、財政学と行政演習は選択科目ですが、その同じ時間帯に必須科目を入れたのです。
 私は、それまで同じ曜日の同じ時間帯に授業をやってきていました。制度を変えるなら、それに伴って影響が出ることはわかっていたはずですから、調べて時間変更なりを要請すればよいものを、何も連絡がないまま・・・。
 何があって邪魔だったか知りませんが、要するに、首切りです。

   
    首を切られちゃってもいいのかい・・・。

(11)いま日本で普通にあることですが、非正規は一般に不利な条件下にあります。だからといっていらないのか、付け足しなのかというと、そんなことはなく、本職と変わらない役割を担う不可欠の一員に組み込まれ、場合によっては、本職よりも非正規の方が主力であったり、人数が多かったりすることがしばしばあります。正規・非正規の区別は外部の人から見たら区別はつきません。
 ところが、給与の面でも、勤務待遇の面でも不安定なのが普通です。そして、そういう非正規の人と一緒に仕事をしている正規の専任の人が、管理職として非正規の人の上に立って取り仕切っている場合があります。

 こういう点、「はむねっと(公務非正規女性全国ネットワーク)」が、いろいろな大手の新聞でも地方新聞でも取り上げられるようになってます・・・。女性は、男性よりももっとひどい状態のままです。ちょっと注意してみてください。
 チョー、長くなりました。

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする