神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.420 福富旅館

2025-02-27 23:40:43 | あの日
(1)大船渡の山火事、拡大するばかりで終息の見込みがまだ立たないようですね。
 大船渡というと、海岸べりの「福富旅館」のことが気掛かりです。一時の恩があるからです。
 
(2)3・11東日本大震災の後、私は、被災地を自分の眼で見て学生に話すのも支援と考えて、ミニサイクルを持参して出ました。
 この時は、一ノ関駅から大船渡線に乗って気仙沼に行きました。直ちに気仙沼の一帯を見て廻り、それから南下して陸前階上〔はしかみ〕駅や海洋高校があるあたりまで廻りました。
 本当は本吉町まで行くつもりでしたが、ミニサイクルでの長丁場はムリと諦めました。
 
(3)翌日、雨がしょぼつく中を、大型船が陸に置き去りになった気仙沼を出発し、唐桑トンネル(只越峠下)を潜って、やはり雨がしょぼしょぼと降る広田湾に沿って行くと、にわか作りの橋があり、渡って陸前高田市に入りました。
 しかし、市街の一角だったはずのところに近づいても何もなく、左の山の方の高台に家が見えるだけでした。右の方をみると、松林は流されてなくなって海が丸見え、その中に「奇跡の1本松」が霞んだ景色の中で立っているのが見えました。
 コンクリート製の建物(会社・集合住宅など)がありましたが、すべて中抜け状態でした。

(3)あえぎながら通岡峠を越えて、大船渡側に出ました。大船渡駅近くまでは高台だったので被害は見ませんでしたが、くだるにつれて被害が見えてきました。
 そのころになると雨も一層ひどく降り、着用していたポンチョのために汗で内側からも濡れて、ほとんどビショビショよれよれ状態でした。

(4)しかし、濡れついでに海岸沿いを見て廻りました。今日は、盛町の方へ行って泊まればいい考えていました。
 見て廻っていると、まわりは皆押し流されて廃墟になっている中に1軒だけきれいな「福富旅館」という看板の出た建物がありました。
 怪訝に思ったので入ってきくと、やはり被害を受けたがすぐに立て替えたのだと言いました。震災からまだ4~5ヶ月の時期だったので驚きましたが、常連客があるからとのことだったと記憶しています。
 それで、思い立って一泊お願いできるかと聞くと、やはりムリでした。そこで、着替えしたいので1~2時間だけ借りることはできないかときくと、それには応じてくれ、入り口脇の一部屋と、まだ湯がはってないが、シャワーだけでもと浴場を提供してくれました。
 料金をいうと、「縁ですから」といって受け取りませんでした。

(5)さっぱりして「福富旅館」を出て腹ごしらえのラーメンを食べていると、バス停が見えました。行って見ると、ちょうど仙台行きのバスがありました。
 情けないとは思いましたが、雨模様の中を峠を二つもこえたので、さっぱりして腹ごしらえができたとたんに気力の方が持たなくなり、仙台経由で帰ることにしました。
 しかし、そのバスは陸前高田の市街を通過しましたから、自分で辿った何倍もの被災状況を見ることになり、あらためてその全容を見ました。

(6)ニュースを見ながら、まだ恩になったままだと思うことしきりです。
 大船渡、頑張れ!

    
      うめ?もも? 今日の宮内公文書館前(No.416に20日のを載せました)

【コレクション 177 日本産魚類大図鑑】
 この本は1994年10月に東海大学出版会から出版されたものですが、もう30年前の出版ですから、あのにぎやかな「さかなクン」は関係してないでぎょざいましょうね?
 書名に「日本産」とありますが、この「日本」はどこまでかというと、パンフの内側に「主として琉球列島最南端および沖ノ鳥島からオホーツク海南部まで」と説明がついています。それから、海域を示す地図から、「オホーツク海南部」というのはエトロフ島のすぐ北側までとわかります。要するに、「日本近海で獲れる魚類大図鑑」ということです。
 lこのパンフレットの大きさはA4判タテで8㌻です。A4判タテの用紙4枚分の横長の用紙を左右の4分の1を折り込み、それをさらに二つ折りするとできます。下には、1・7㌻を載せました。
 全体は、
 1㌻ 下に載せました。
 2㌻ 下に載せた7㌻と同様の原寸見本で、サケ類8種が載せられています。
 3~6㌻ きららハゼの拡大見本を中央に、
      発刊に際して 上野輝弥 国立科学博物館研究室長・日本魚類学会会長
      日本周辺の略地図
      執筆陣31人の名称(略)
      内容紹介と内容見本
 7㌻ 下に掲載
 8㌻ 装丁紹介
    推薦文 
     渡辺文雄 前水産庁長官 魚類の保存と利用に果たす役割は極めて大きい
     宮原九一 全国魚業協同組合連合会長 漁業関係者の待望の魚類図鑑
     岩井 保 京都大学教授・日本魚類学会副会長 無謀な試みの成功に驚きを感ずる   
    刊行案内 A4判 ①図版編378㌻ ②和文解説編472㌻ ③3英文解説編460㌻
        定価①+② 40,000円、①+③ 40,000円 ①+②+③ 50,000円
        1994年10月 東海大学出版会
        1㌻ 

        7㌻:A~Fはタイ G~Lはゴイ


 以上です。
 今日はここで。

    
      今日、竹橋脇のお堀で
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No.408 火災の記憶 

2025-02-13 22:23:24 | あの日
(1)今日は風が強いです。すでに火災が発生しているとのこと。火の用心!
 私は小さい時に、2度も大火を見ているので、先日のカリフォルニアの大火はもちろんですが、どんな小さな火災でも、火災というとこの時のことを思い出し、他人事とは思えません。
 このことは、一度書いた記憶がありますが、ダブってもよいので書いておきましょう。

(2)最初は、小学校入学前の6歳の頃で、「柏木の大火」といって群馬県の災害史にも出て来る歴史的な火災です。
 この火災は、神流〔かんな〕川を挟んで両岸に広がっていた柏木の集落と吊り橋がマルマル焼けるという大火でした。もう70年も前のことなので、今からみれば消防設備なども無いに等しく、もっぱら人手頼りの消化でしたから、ついには、ブキッチョの父親も自動車の荷台に乗って現場に向かいました。
 父がいつ帰宅したかの記憶はありませんが、家では、電気も止まってしまってろうそくの火を頼りに、母から、入学準備として、大澤の「お」の字を教わり、「上手だ」とおだてられながら練習していたことを思い出しました。

(3)ちなみに、自慢話になりますが、この復旧のために、竹筒の貯金箱に貯めていた700円を寄付しました。父の給料が当時まだ1万円くらいだったでしょうから、それなりの金額だったはずです。父に連れられて中里村神ケ原の西はずれにあった駐在所に届けに行ったこと、しばらくして町長から(型通りでしたが)感謝ハガキが届いたことを覚えています。
 えっ!700円はどうして貯めたかって?
 それはね、私が賢くメンコイ子供だったので、お客さんが来ると5円・10円・50円とお小遣いをくれたんです。でも、わたしは、毎日10円の羊羹を買ってぺろりと食べたあとはお金を使いませんでしたから、自然と貯まってたんですね。

(4)オット、火災でした。
 もう一度は、小学2年頃、母方の実家にいた時に、一軒おいて東隣から出火しました。
 この頃もまだ常備消防はなく、近くの公民館に1台、江戸時代のような古びた人力ポンプが大八車に乗っているだけの防火設備があるだけでしたから、ひとたび出荷すれば、誰かが火の見櫓に登ってカンカンカンと半鐘〔はんしょう〕を鳴らして周囲に知らせて、延焼を防ぐくらいのことしかできませんでした。
 延焼を免れない恐れがある場合は、被害を少しでも少なくするために、家財道具を運び出して避難させるわけです。小学生だった私もバケツやぞうきんを持って、運び出された箪笥などの脇に立って落ちてくる火の粉を監視したものです。
 それから、当時は、農家の大半はまだ藁屋根が部分が残っていましたから、出火すると火が風を呼び、風が燃え上がった藁を巻き上げます。これを消さないと、周辺の家に降り落ちて延焼原因になりますから、この時は、叔父がバケツと雑巾などをもって屋根に上がり、降りかかってきた火の粉を消して回りました。その様子は暗くてよく見えませんでしたが、あの緊張感はイヤものです。

(5)火災は、消化した後も大小のモエクジが出て来て、長く独特な臭いが残り、記憶からも消えませんね。
 もうじき春一番が吹くでしょうから、その時も注意しましょう。

     
     チーチーパッパ チーパッパ

【コレクション 167 近世子どもの絵本 江戸篇・上方篇】
 子どもや高齢者が大事にされない社会とはどういう社会でしょうか。それは、現役層が生きるのに必死な社会、最悪は戦乱の社会です。今どうでしょうか。だんだん、強いものが我を通す時代になっていないでしょうか。

 このパンフは、横長のA4判で4㌻です。言い直すと、横長のA4判2枚分の用紙を二つ折りしたものです。下には、1・2・3㌻を載せました。
 4㌻ 組見本 本書の特色
    刊行案内 A4判 2分冊 平均424㌻ 定価2万9千円

   1㌻


   2㌻:推薦文・収録作品


   3㌻:本文組方見本


 以上です。
 今日は、ここで。

   
     昨夜の月:満月

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No.307 金峰山遭難の記

2024-10-18 23:42:37 | あの日
(1)きょうは終日雨曇りでした。天気に関わりなく作業は真面目にやっているので、閑居はしていませんし不善もしていませんが、にわかに「ああ山に行きたい」と思い立ちました。
 すると、コロナの自粛以降だいぶ遠出してないから、きっと体力が落ちてるな、足はどのくらい持つだろうか、もう山行の準備をやらなければだめだな、青梅の日ノ出山北尾根には入れればいっぺんに回復させられるだろうに残念だな、などなど次々に浮かんできて、作業が手につかなくなりました。

    

(2)あれこれと考えているうちに、山梨県にある金峰山のことが思い出されました。
 金峰山のことは、『御料局測量課長 神足勝記日記』(JーFIC)の14㌻に、神足勝記が巡回して登ったことを書いておきましたが、それもあり、私も2017年11月に上りました。
 初日は、甲府からバスで昇仙峡に行き、バスを乗り継いで金桜〔かなざくら〕神社まで行き、そこから歩いて黒平〔くろべら〕の青少年センター?泊。

(3)翌日、甲府市森林浴広場まで車道を行き、そこから金峰山古道に入りました。
 歩き始めて3時間近くたったころ、林道に出ました。地図には「一部林道を通る」とあるのでこれで良しと辿って行くと川に出ました。道はだいぶ細くなりましたが、それでもちゃんと踏み跡はついていました。少々不安に思いましたが、まだ行くと、シャクナゲが生い立って左右から道をふさぐようになりました。それでも道はありましたからさらに歩くと、少し開けました。そのころになって、いくら通る人が少なくなっているとはいっても、これは荒れすぎていると思うようになり、道を間違ったことに気が付きました。

(4)引き返そうかと思いましたが、まだ先に道は続いているのがわかりましたし、上に金峰山のシンボルである五丈岩が見えますから、上に行く方が近いと感がえて進むことにしました。
 やがて頂上に着いている時間の12時頃になりました。しかし、どこにいるのかもわかりません。そうこうするうちに16時頃になり、陽が斜めに傾き始めました。それでもまだどこにいるかわかりません。仕方なく、尾根から外れないようにして、上を目指して歩き続けました。
 やがて、陽が落ちました。ところが、木陰は真っ暗ですが、20時頃だったでしょうか、まんまるの月が出てきました。すると、木のないところは月の光で道がわかる明るさで、ほとんどヘッドランプも懐中電灯もつけずに歩けました。電気類はLEDにしていたので、持ちがよくこれは助かりました。月明かりで、 上にある五丈岩もはっきり見えてました。

(5)ところが、ウソみたいな話ですが、にわかに雲が出始めました。それも傘のように頭の上あたりに丸くです。そのころになると、月はやや傾いて、雲から外れていましたから、月明かりは確保できていました。ですから、困ることはなかったのですが、それからまもなく、雨が降り始めました。すでに防寒用にカッパを着ていましたが、傘も差しました。でも、傘を差すと暗くなります。
 いよいよの時のためにできるだけ電灯類を使いたくないな、などと思案していると、ちょうどその時、岩谷のような大きな岩が見えました。そこで雨宿り兼野宿でもして夜明かしをすればいいかと踏んで下に入りました。ところが、11月の山ですから、じっとしていると寒くて5分も持ちません。火を炊くことも考えましたが、風があり危険と判断して止めました。
 仕方なくそこを出て歩くことにしました。そして、ともかく、今夜は寝られないこと、歩いて体があったまったら少し休んで、寒くならないうちに歩くしかないと覚悟を決めて動き始めました。
 もっとも、ふだんは2~3時くらいまで起きているのは平気ですから、「ふだんよりも2~3時間がんばれば夜が明ける。夜が明ければ、道が見える。もう大丈夫だ」と考えて、ともかく手と体を冷やさないことを気をつけることにして動きだしました。

(6)ところが、雨が雪に変わりました。雨も雪もそうたくさん降ってきたわけではありませんでしたが、みるみるうちにあたりが白くなりました。月が出ているのに雨が降り、それが雪に変わったのですから、狐の嫁入りみたいな天気だったわけです。しかし、雪が月の光を反射して、あたりがさらに明るくなりましたから、これはむしろ助かりました。
 雨と雪にぬれた手袋の指を冷やさないようにより注意して、ひたすら尾根を外さないように歩いていくと、やがて五丈岩の西にある「千代ノ吹上」の大岩が近づいてきました。
 安心して来た方を振り返ると、甲府の夜景と塩山方面の夜景がきれいに見えました。それで「記念写真だ」といって撮ろうとすると、デジカメの電池が切れていました。仕方なく、「証拠なしだ」とぼやきながら、見納めにもう一度見ておくことにしました。じつにきれいでした。
 千代ノ吹上の北側は、前に甲武信〔こぶし〕岳ー国師ヶ岳ー大弛〔おおだるみ〕峠ー瑞牆〔みずがき〕山と縦走していましたから、尾根筋の登山道のことはわかっていました。
 最後は、ハイマツ帯を越えて千代ノ吹上の下の岩畳を登るだけでした。

(7)こうして、4時過ぎに尾根道に辿り着きました。
 五畳岩の方に迂回して金峰山小屋の方を見ると、もう電気が点いていて、人が動き始めていました。降りていくと、下から上がってきた人に「もうご来光を見て来たんですか」と驚かれましたが、「いや、道に迷って、今着いたんです」と答えるのが精一杯でした。
 すれ違って、小屋に着くと、またまた小屋の人に驚かれ、自力でたどり着いた旨を話すと、ひとこと、「運がよかったですね」と。
 妙に「運」ということが記憶に残っていますが、ともかく、炬燵に入って横になりました。

(8)そうそう、神足が辿り、私が目指した古道は、すでに年に100人も通らない荒れた道になっていたので、今年1月にクラウドファンディングで資金を集めて修理をし、10月18日〔昨日〕開通したそうです。う~ん!年内の挑戦はムリかな・・・。



    
   うつぎ

 今日はここで。

   

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No.290 国民生活時間調査

2024-09-11 23:34:38 | あの日
(1)きょう、庭で水遣りをしていると、「あんちゃん」たちはもう無事育ったとみえ、もうあたりから見えなくなっていましたが、横から小さい蛾が挨拶に来ました。
 「もう一期一会を決めたから、五月蠅いのはやだよ」というと、
 「いえ、もう九月ですから・・・」と軽口を言います。生意気なヤツと思って見ると、少し羽根を痛めたヤママユのようでした。
    

(2)ヤママユには、むかし父が世話になったことがあります。
 それは、右の肩甲骨の辺りに天保銭くらいの大きさの腫物ができたときのことです。何が原因かはわからなかったようですが、熱をもって赤く腫れあがりました。そこでこれを冷やすと、今度はウミをもって痛み出しました。もちろん、医者に治療してもらいましたが、なかなか治りません。
 困っていると、ある人が、お蚕くらいの大きさでうすい黄色をしたヤママユを持ってきて、「これをほぐして綿みたいにして傷に貼るとウミが取れるから、試しにやってみて。この辺じゃあ、みんなそうやってるから・・・。」と、言いました。
 父も母も「医者で治らないものを」と疑い半分でしたが、ともかく試しに貼って、それから2~3日してその人がまた来て剥がしたところ、ヤママユがウミがみな吸い取っていて、あとには真っ赤な傷口が見えました。すると、「あとは、肉が上がるのを待てば大丈夫だ・・・」と言って帰って行きました。

(3)これは、父が群馬県多野郡中里村神ケ原で教員をしていた1956年ころのことです。
 ちなみに、神足勝記がここを巡回したのは明治17(1884)年ですから、この70年も前のことになります。   
 それから、この時のことが頭にありますから、山でヤママユを見つけたときに拾ってきました。手元のものはきれいな黄緑です。山でもなかなかみつからないものです。

    
      きょうの月

【コレクション 84】
 きょうは「国民生活時間調査」です。
 「昭和16〔1941〕年調査」で「〇に秘〔マル秘〕」とあります。興味深い調査ですね。
 私個人としては、右下の「生活の夜型化はいつから始まったのか」に目が行きました。
 

 大きさは、B5判6ページの冊子です。
 全体は、
 1㌻ 上掲
 2㌻ 下に載せました。鈴木泰「刊行にあたって」はぜひ読んでみてください。せっかくの調査も、平和でないと、時の国策との関係で「秘」されてしまっい生かされません。

 
 3㌻ 本調査の特長
 4~9㌻ 推薦文
     石川弘義 成城大学教授 これは驚くべき調査だ
     一番ケ瀬康子 日本女子大学教授 多面的な活用を
     大江志乃夫 茨城大学教授 「滅私奉公」時代の「私」の時間を調査
     加藤秀俊 放送教育開発センター長 よみがえる半世紀前の生活 
     佐々木亨 名古屋大学教授 よみがえる国民生活の実像
     土屋精作 NHK放送文化調査研究所長 日本人の生活実態を比較する
     中嶌邦 日本女子大教授 戦時生活を問い直す
     中西尚道 文教大学教授 戦前の生活実態を知る貴重な資料
     原朗 東京大学教授 生活の中身を考え直す
     原芳男 東京工業大学教授 新しい知見の得られる貴重なデータ
     松島千代野 日本女子大社会教育会家庭科学研究所長 家政学・家庭科教育の分野にも貢献
     松田義幸 筑波大学助教授 ライフスタイルの昨日・今日・明日を比較する
     室俊司 立教大学教授 社会をつくる人間行動の基底を探る
     山中恒 作家 『国民生活時間調査」の復刻刊行を喜ぶ 
 10㌻ 組見本
 11㌻ 巻別構成
 12㌻ 原版編纂発行 日本放送協会
     刊行案内 A4判 揃定価90000円 大空社  刊行年不記載
 以上です。
 最近、日本共産党議長の志位和夫さんがしきりと「自由な時間」のことをいっています。
 たしかに、これはマルクスも言っていることで、我々の自由は社会経済的に制約された自由なんですね。一見何も問題なく自由に行動しているように見えますけど、これは一定の収入が確保できたうえでの自由です。ですから、もし職がなければ、死ぬ自由くらいしかありません。
 ほかにも、たとえば、職はあるけど低賃金のためにピアノを買えないから練習できない、ピアノは買えるけど置く場所がない、置く場所はあるけどまわりに音が響くのでムリ・・・。こういう例はいくらもあります。むずかしいですね。

 きょうはここで。
 きのうも書きましたが、目の治療のため、あすのNo.291〔実質290回〕をもってしばらく中断します。開始は目の調子次第です。

    
       きょうの夕焼け
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No.256 原爆の日

2024-08-09 00:00:32 | あの日
(1)きょう8日付『朝日新聞』11面の山田朗氏へのインタビュー「昭和天皇の戦争関与」を読んだという人も多いでしょう。「天皇の戦争責任問題研究の到達点」として、私も興味深く読みました。そして、軍の最高指揮権である「統帥権」を持つ天皇が直接に指揮に乗り出す事態にまで対立するに至った陸海軍の実態はどこまで解明されているのかと改めて思いました。

(2)なお、これに関わって、手元に次のパンフがありました。  
    

 大きさはB5判、6㌻です。体裁は、B5判大の用紙3枚分の横長の用紙を、最初に右から3分の1を谷折りし、つぎに左から3分の1を谷折りするとできます。
 全体は、
 1㌻ 上掲
 2㌻ 秦郁彦 刊行にあたって
 3~4㌻ 組見本
 5㌻ 掲載項目 第1部 主要陸海軍人の履歴/第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧/
    第3部 陸海軍主要学校卒業生/第4部 諸名簿/第5部 陸海軍用語の解説
 6㌻ 装丁見本
    刊行案内 B5判 760頁 定価32960円 1991年10月刊 東大出版 
 
(3)ひとことだけ、これを見ての「感想」を述べます。
 まず、上の1㌻目に「巨大組織の全貌!」とあり、「総合事典」とあります。しかし、5㌻を見ると「主要」と付けられてます。はて、どちらが本当でしょうか?
 つぎに、私は軍事について直接関心を持っているわけではありませんが、神足勝記の子息の勝孝〔かつたか〕氏が海軍で爆薬研究に従事しておりました。勝孝氏は、最終的に研究職の軍人として海軍中将に昇進します。しかし、その関係で、戦後は公職を追放となり、追放解除になるまでのあいだ窮乏生活を強いられ、解除後は社会復帰でいろいろ活動します。
 勝孝氏はこのことを日記に記していましたので、勝記日記と同様に、ご遺族の勝文〔かつぶみ〕氏よりお借りして全文を読み解きパソコンに入力しました。(これについては「No.84神吉翕次郎」をご覧ください。)
 海軍中将といえば幹部ですが、それでもかなりのことを経ます。それなのに、「主要」な「全貌」だけだとしても、760㌻の事典でどこまで取り上げられたのか・・・。ふと「発想が軽い」のではないかと思いました。

     

【コレクション 43】
 8月6日は「広島の日」、9日は「長崎の日」、行かなければと思いながら、とうとう半世紀が過ぎました。若い時、親しい友人から誘われたことがありましたが、アルバイトのことやいろいろあり、ついと行けませんでした。しかし、「沖縄の日」と共に忘れることはありません。 
 手元に、次のパンフがあります。
 
   下部の「Kiyoshi Awazu〔粟津潔〕」のサインが切れています。
        この作品名は:「羽ばたく鳥たち」

 大きさはA4判、8㌻のものです。全体は、A4判4枚分の横長の紙を、最初に左右から4分の1ずつを折り込んでA3判大とし、それをさらにもう一度谷折りするとできます。
 体裁は、
 1㌻は上掲。これを開くと、2㌻と7㌻になり、上下各4分の1に「刊行にあたって」と「推薦文」があります。
 「刊行にあたって」の箇所を下に載せます。 
 ガザの子たちと重なります。戦争指導者は生かして、必ず裁きましょう。

 推薦文 林 京子(作家) 若い人たちの未来への道標
     本島 等(長崎市長) 過去への反省、未来への警告
     森瀧市郎(哲学者) 反核の波を起こす契機に
     大江健三郎(作家) 忘れてはならぬもの忘れぬために
     松谷みよ子(児童文学者) 戦争を知らない世代へ手渡さねば―
 3㌻~6㌻ 上段 特長 全巻内容/下段 装丁見本
 7㌻ 上段 刊行案内 A4判 平均420㌻ 1991年刊行 日本図書センター 
    下段 粟津潔の絵:「沈黙する鳥たち」

 なぜ、標題に「日本の」と付いているのでしょうね? ビキニや他の実験地などがあるからでしょうか。
 いま世界に1万1000発余の原爆があり、毎年200兆円もの軍事費が使われています。200兆円は、日本国民約1億人に一人につき200万円ずつ配れる金額に相当します。
 岸田内閣は、軍事費を2倍化し、自衛隊を米軍の指揮下に入れました。ナンセンス!
 過ちを繰り返さないのが叡知です。

 【コレクション 44】
 来年の原爆の日にこのブログが続いているとは思えませんから、この際、もう一つ行きましょう。『新聞資料 原爆』です。
 これは、次に掲げたところに特長や内容説明があるので、贅言を弄するまでもありませんから、簡単に終わらせます。
 
 
 このパンフは、B5判大、4ぺーじです。つまり、B4判を二つ折りしてできています。
 全体構成は、
 1㌻ 上掲 ここに、キノコ雲と、内容説明は右上に記されています。
 2㌻ 監修者挨拶
    小田切秀雄(法政大学名誉教授)ほとんど突然に、経験のワクがひろげられー 
 3㌻ 内容見本
 4㌻ 刊行案内 A4判 240㌻ 定価9800円 日本図書センター
    内容紹介(ほか宣伝)

 パキスタンにカーン博士という人がいました。
 インドとパキスタンでは国境周辺が不分明で、国境紛争で揉めるごとに人々は移動したそうです。そして、カーンさん自身も実はインド人だという説もあり、少なくとも一族がインドに住むそうです。
 カーンさんはイギリスに留学して物理学を勉強し、やがてパキスタンで「水爆の父」といわれる地位を築きました。
 ところが、その兵器はインドに向けられ、つまり一族に向けられているのだそうです。
 
 むなしいですね。自分の努力した結果が一族を苦しめるために使われているわけです。 
 考えなしで学問をすると、あるいは、広く、目先の都合だけで良かれと思ってやっていると、人を苦しめることになりかねません。
 今は、世界の危機です。
 きょうはここで。

    
    〽宵闇~ せ~まれば~ なやみは~ は~てなし~
 
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