神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

2024年:言葉の力で

2023-12-31 23:59:10 | 願い
  
       雁ヶ腹摺山からの富士山:瞬間のお目見えでした 

 2024年が始まりました。
 今年こそ「言葉の力で平和を!」。

 いつも思うことですが、一生懸命考えているという人でも、正解を外して(除けておいて)答えを探していることがあります。
 とくに利害が絡むようなとき(間違っていることでも、それを認めると自分が損をすようなとき)に往々にして起こります。
 たとえば、「機内禁煙」が決められたとき、タバコ会社の社長が「トイレの中だけは許可してくれ」と言ったとか(言わなかったとか)はその例です。
 
  それから、ちょっと別な例ですけど、先日、病院に見舞いに行ったとき、
 「看護師がタバコを吸うとはナンダイ(難題)」と私が言ったところ、
 看護師(女性:40歳くらい)の当人が、
 「ストレスの解消に役立つから、よいのではないか」というので、
 「そうか。そういうものか」と考えていると、続けて、
 「チョコレートを食べる人がいるのと同じですよ」と。

 これは、前半はともかく、後半ははっきりおかしい。
 タバコははっきり有害、でもチョコレートは必ずしも害ではない・・・。
 しかし、気の弱い私は、「遠慮」して言うのを止めました。
 「人質」を・・・。
 こういう利害もありますね。

 ましてや、政治的なことになると、わが町、わが県、わが国の損得、いろいろな利害が絡みます。
 国際的には、力で解決しようとすることがまかり通っています。
 
 しかし、恐れつつも声を上げる人がふえています。
 そういう勇気・・・すごいことだと思います。
 
 今年こそ「武力でない平和を!」
 
  
   庭の実:食べられません・・・
 



 







 



 

 
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 2023年の終わりに

2023-12-31 18:44:08 | 多謝
  
   頂上がまったいらの荒船山:内山峠下より
 
 今年も内外ともいろいろありました。
 ロシアやイスラエルだけでなく、国内でも、度を越してやりたい放題の場面が多くなってきていませんか。
 冬が来たのに、晴れるとじりじりと暑い。これで夏になったらどうなるかと心配です。暖ったかいと喜んでいられません。

 来年こそは「言葉の力で道を開く年」になってほしいと思います。
 あちこちで怒りの声を挙げている人がいますから、私もできることを少し援助をしようと思ってます。このままでは心配でたまりません。

 さて、今年は、ようやく『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く-』を日本林業調査会(J-FIC)から刊行することができました。
 刊行でお世話になった皆様にお礼を申し上げます。

 なかでも、この日記をお貸しくださった神足勝浩様、それから勝浩様亡き後には弟の勝泰様、さらには勝浩様ご子息の勝文様には、たいへんなご配慮をいただきました。感謝しております。
 それから、私は若いころから、林野庁に勤務されていた萩野敏雄さんに大変お世話になってきましたが、人のつながり・縁は異なもの不思議なもので、その萩野さんとのご縁が、巡り巡って多くの皆様からご援助をいただく背景にありました。忘れはいけないことだと、感謝しております。
 勝浩様や萩野さんのことはいずれ書きたいと思います。
 みなさまにはいろいろとありがとうございました。
 
 なお、これまでは、わからなければ調べる、調べて自分が納得できればそこまで、そして、先へ先へと急いできましたが、刊行を契機としてブログを書き始めました。目下のところ1ヶ月が経過したばかりで、ようやく勝手がわかってきたというところですが、年明けもいましばらく続けようと考えております。お手すきの時にご覧いただけますようにお願いいたします。


 年末に一言。
 群馬の育った家の辺りは昔は田んぼの中にあり、真北に赤城山、北東に榛名山、西に妙義山の上毛三山が見え、妙義山の北に煙を吐く浅間山、南に頂上がまったいらの荒船山が見える風景の中にありました。田植えのころには、蛙がゲコゲコと鳴き窓ガラスを這っていく姿が映り、冬には、北から吹く赤城颪に煽られて吊るしておいたチリ取りがパタンパタン、カタンカタンと鳴り、天気の日には浅間山が煙を吐きながら夕日に赤く染まるのが見える、そんな風景の中にある新興住宅でした。
 それから早くも半世紀が過ぎ、我が家も代が替わり、周囲は広がってきた住宅地や新興施設の中に飲み込まれ、周囲に昔の風景を見ることができなくなりました。ごく普通に見えていた山々は見えなくなり、祖母たちが朝な夕なに精を出していた田畑は無くなり、昔こわごわと入った里山の奥にバイパスが通じて、かつてのでこぼこ道よりもはるかに立派な通りとなりました。
 風景の変化だけでなく、人心もまた都会的に移り変わったのを知りました。

 テレビで、代々の残したものを修復して生活することを誇りとする人々の姿を見るにつけ、あの懐かしい時間をとり戻すには、わが身のなにを差し出せばよいのかと思わされます。
 コロナ蔓延以降の変化の中で見聞きしたということもあり、その落差を大きく感じたのかもしれませんが、これからの日本や生い立ちの地がどう変化していくのか案ぜざるを得ない一年でした。
 今年はここまでです。

 
  


 
 

 
 
 
 


 

 

 
 
 
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仙台・北京建都

2023-12-30 23:58:09 | 御料地

      朴

 どうもここ何日かいけません。
 あれこれと見直したり読み直しているうちに、楽しくて楽しくて時間がどんどん過ってしまいます。
 ベートーベンの『運命」みたいに、「ジャジャジャジャーン」と始まったらそのテーマをどんどん展開できるとよいのですが、もともと人に何かを説明したいと思っている方ではないので、なかなか書くまでに至らないんですね。

 オット、今日は仙台の地理・経済について述べたもの3つを紹介しましょう。いずれも核心部分のみ引用します。
  
 (1)まず、本多利明の『経世秘策 後編』(岩波書店『日本思想体系』72ページ)です。
 「阿武隈川通り、所々にある大岩を焔硝仕掛けの地雷火を用〔もちい〕反割 
 〔はねわり〕て、川船石巻港へ通用するに於ては会津、長沼、白川辺所々よ
 り石巻まで70余里・・・略」

 これは、阿武隈川の大石を火薬で砕けば、荒浜港から(明治18年に完成する)貞山堀を通って仙台につながる。さらに仙台から松島湾をへて(明治20年に完成する)東名運河を通過して鳴瀬川河口の野蒜〔のびる〕に出て、(明治15年に完成する)北上運河を経て石巻港に出ると、北上川水系で盛岡までつながる。そして、猪苗代湖と阿賀野川をつなげれば、日本海側と太平洋側、そして内陸の盛岡まで太平洋の荒波を避けてつなげられる、という考えです。

 (2)つぎは、明治9年の松方正義の演説です(『公爵松方正義伝 乾巻』758~762ページ)です。
 「・・・陸羽地方は米穀、生糸、牛馬、鉱山、海産物の5者に富んでいる。宮城
 県の地勢たる・・・奥羽の中心に在りて、四通八達、水運には北上、阿武隈の便
 あり。・・・野蒜港を開き、陸羽地方の物貨の輸出入を支配せしめんとしつつあ
 る。・・・北海の開拓果たして奏功し人民の数亦能く増殖するの盛事に遭はば、
 本県の如きは実に日本の中央・・・。人口固より希少、土地固より荒漠である
 が、・・・牧場を開き、・・・開拓をなす等、従来の人力に換ふるに機械の力を以
 てせば、その成功の遅速難易果たして如何ぞや。」
 
 要するに、陸羽は物産等に富んでいる。宮城県はその中心地で、交通の便も良い。北海道の開拓が進めば、日本の中心になる。人口が少なく土地も未開拓だが、機械力をもってすれば問題ない、というものである。

 (3)最後は、前回紹介した仙台建都の建白です。これは明治14年12月に山形県の開鉱人・信太歌之助によるものです。
 「・・・岩代以北・・・沃野膏土接し、動物植物・・・自ら繁殖し、金銀鉄美玉宝石鉱
 処々に散布し全国の宝庫なるも・・・、開運に遅れ、庶民稀少にして陋習脱する
 を得ず。」明治維新後「民地開発物産増殖答駸々として真に驚くべき進歩の
 情あるも自然の徳化風俗の改良にいて猶憾む所あるを免れ  ず。・・・北京創
 立の説をなす所以なり。」
 
 信太は、宮城県から依頼されて県内を跋渉して桃生郡〔ものうぐん〕にきて、ここの地の利を知ったといいます。大久保利通が遷都を進めたのと同様の理由で提案するのだが、建都できなければ、離宮だけでも、開化や物産富饒につながると述べています。

 さて、3人だけですが、こういう意見が御料地選定の際にどのように働いたのか、まだ課題としておかなければならないのだと考えます。そもそも誰が選定したのかさえ分かってないのですから・・・。


 「おい、トゲ大丈夫か」って言ってやったら、
 こういうカッコになりました。
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仙台・松島 北京構想 

2023-12-30 01:01:33 | 勝記日記
 神足は御料局入局前にほぼ全国を歩きました。(正確には、北海道と四国の一部を残して、すべてです。)

 私は、神足が歩いたところは一応すべて御料地候補地だったとして機会があるごとに検討することにしています。その一つとして、仙台近辺があります。

 明治21年7月9日、青森、秋田・山形・岩手と巡回してきた神足は、気仙沼・志津川・石巻を経て松島に着きます。
 そして、松島について、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の68ページ、7月9日の項で、つぎのように書いています。
 「・・・行々日本三景の一なる松島を探る。松島の景を見るの好所は富山な
 る丘を最とす。・・・絶景筆紙の能く尽す所あらさるなり」

 
    富山〔とみやま〕から見た松島

 松島が人気があるのは、もちろんその景色の故ですが、そのもとは古くからの霊場であったなどの理由も言われています。
 いまここで取り上げたいのは、その人気のある松島の近くの塩釜の北にある山地に宮城第一御料地があって、その付近が御用邸の候補になっていた可能性があることです。たとえば次の記述がそれです。
 「宮城第一御料地は・・・松島湾に近くして、同湾の風光を瞰下し、頗る絶
 景の所なり。然れとも其地海岸に適せさるか為、若し御用邸等を建築せんと
 するには近傍の民地を買上くるを要す可し」(『宮城県委託御料地実況調査
 書』(宮内公文書館蔵)
 
 この文書は、明治27年11月1日付調査と書いた箇所がありますから、28年ころの作成文書です。
 また、この箇所は、払い下げられて、『神足勝記日記』冒頭の地図(大正7年)には出ていません。
 さらに松島湾の辺りはその後に埋め立てられていますから注意が必要です。
 
 要するに、27年頃にここに御用邸の案があったということです。

 それだけではありません。その北に品井沼がありますが、ここは志田第一御料地の中にあって御料地になっています。
 御料地になっていることがなぜ不思議かというと、北の瀬峰の方にある蕪栗沼やそのさらに北の伊豆沼は、御料地の中にあるにもかかわらず御料地になっていないのです。そのため、上記の『調査書』では2沼も御料地に編入することを提案しているくらいです。(これに似た例として、日光の中禅寺湖は御料地でなかったけれども、箱根の芦ノ湖は御料地だった、ということがあり、基準はまだよくわかりません。)
 品井沼を猟場にする可能性は、品井沼の北の涌谷の辺りにある名鰭〔なびれ〕沼と平郡沼が御猟場になっていて、監視人も任命されていましたから、あったということです。(『猟場録』明治28・30年)
 また、涌谷の北には広大な湿地・沼地が広がっていましたが、これが御料地として編入され、遠田第1~3御料地などとなっていました。これらの地は後に干拓されて耕地となりましたが、その記念碑が、米山高校脇や東千貫・短台などに残されています。また、JR箟岳〔ののだけ〕駅前には御料地という小字も残っています。
 
 ですから、このあたりに北京を計画した可能性もあるのです。北京の周辺に、それに付随・関連する施設を設ける計画があったかもしれないのです。
 実際、一文書に過ぎないとも言えますが、涌谷の南に旭山〔朝日岡〕という小山があり、ここを北京とする建白「北京建都の議に付建白書」(『宮城県広渕沼沿革史』昭和3年非買品)もあるのです。

 少し荒っぽい議論ですが、皇室財産形成というものの、東北については、収益用地の面と同時に、京都・東京に次ぐ北京建都などの面も必要なようです。
 都市としての適地、港湾・水運としての適地、農耕としての適地、北京としての適地、など具体的に見る必要があるようです。
 つづきは明日に。

 かげろう
 


 

 
 
 
 


 
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カデルリ―の死

2023-12-28 22:43:55 | 勝記日記
      

  大学南校(明治6年):正面玄関、その右と後教室、さらにその後ろに 
             六角堂、その奥に2階建ての講堂

 ブログを書き始めて1ヶ月が経過しました。
 毎日、これまで撮り貯めた写真を見直して、撮った時のことや、撮った場所のことを思い浮かべたり、『神足勝記日記』や関係文書を読み直して、何のことかとあれこれ調べた時のことを振り返っていますが、これはこれで大事な作業だった、もっと早くにやればよかった、先を急ぐばかりが能ではなかった、と反省しています。
 書きたくなるものを探す作業は、大変といえば大変ですが、目下のところは楽しめています。

 
     千葉県久留里付近の山中の寺で

 今日は、一つだけ。『神足勝記日記』を読み始めて最初の方で気が付いたことです。
 これは、大概の皆さんがご存じないことだと思われますので、結論から書きますが、
 「カデルリ―の死亡日が違う」
ということです。

 まず、『神足勝記日記』明治6年6月15日の項に次のようにあります。
 「十時頃より村岡〔範為馳:はんいち〕・和田〔維四郎:つなしろう〕と外 
 出。・・・帰路、教師センクを訪ふ。・・・センクより前教師カデルリ―の死去を 
 聞き一統悲嘆。・・・。」

 ここに出てくる人について、大体は納得いくところまで調べがついていますが、ここではカデルリ―についてだけとします。

 カデルリ―のフルネームはヤーコプ・カデルリ―(Jacob Kaderli)です。
 カデルリ―については静岡大学『人文論集』57(1)2007年、57(2)2007年、58(2)2008年、62(1)2011年(共同執筆)に城岡啓二さんが論文を発表されています。興味ある方は調べてみてください。
 このうち、上記の57(2)に『ベルン伝記集』第3巻にある「カデルリ―」の箇所が翻訳されています。それに拠ると、カデルリ―は神足たちが勉強した大学南校の教師となってドイツ語教材を出版した人であること、1869年に日本に来て1872年7月22日にアメリカへ向かったこと、1874年12月31日、48歳でマルセーユの病院で肺炎のために死亡したこと、などがわかります。
 ちなみに、シベリアを横断してやってくるなど、興味深い人です。
 
 もうお気づきかと思われますが、カデルリ―の死亡日は、『ベルン伝記集』に依れば1874(明治7)年12月31日ですが、『神足日記』に依れば、明治6年6月15日より前なのです。つまり、神足たちが「悲嘆」したときにはカデルリ―はまだ生存していたらしいのです。
 ただ、『神足日記』の明治6年辺りは薄い美濃紙に鉛筆書きだったため消えかかってきたので、昭和になってから書き直しています。事実まで変えることはないと思われますが、それも含めて検証が必要です。

 日記には誤記や誤記憶で書かれていることがあります。怖いところです。
 今日書きたかったのはこのことです。

 『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー 』日本林業調査会(J-FIC)は、元の日記のほかに、大澤の注記や資料引用・加筆などがあります。ぜひ批判的にご覧いただけますようにお願いします。

 
      え、です
 


 


 

 
 
 

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