神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.193  新刊紹介

2024-06-06 23:50:26 | 勝記日記


(1)山田直利氏が、『GSJ地質ニュース Vol.13 No.5(2024年5月)』に、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)の「新刊紹介」を書いてくださいました
 さきほど、検索していて気が付きましたが、驚いたのは、全体がA4判2ページに及ぶ長大なもので、たんに「新刊紹介」するという域を越えていること、また、内容としても、これまでのいきさつを踏まえた書評になっています。
 本書の内容把握の手助けになること請け合いです。ネット検索で読めますので、ぜひご覧いただきたいと思います。
 山田様とGSJ(産業総合研究所)には感謝いたします。
 
(2)「きのうの落穂拾い」をしておきます。
 まず、前回の戸倉城山行は、2022年でなく、2023年1月5日でした。
 その時のものが見つかりましたから、紹介します。 
 
 これは、カメラにこう写ったというだけでなく、肉眼でもこのくらいに見えてました。全体にくっきりしています。
 遠方を見るなら、空気が澄んでいる時期、景色を見るなら、青葉のいま頃ということでしょう。私は、夜景と雪景色見に行きたいと思っています。

(3)それから、昨日は、この時期のことで木の葉が延びたため見えませんでしたが、前回は、正月でしたから、御岳神社と宿坊の界隈が見えました。少し拡大して、それも紹介しましょう。
   

(4)それから、頂上とふもとの畑で見たチョウです。
 図鑑を見ましたが、「アオスジアゲハチョウ」と「クロアゲハ」ということでどうでしょうか。


 この畑のすぐ隣に農作業をしている女性がいましたが、なん十匹というチョウが、気兼ねする様子もなく飛び交っていました。
 それを見て、「極楽の宣伝に使えそうだな」、とずいぶん撮りましたが、うまく映ってくれませんでした。多分、「極楽は写真に撮れない」のだと思います。
 ともかく、いい光景を見ました。

(5)それから、近くの畑に次のようなものが植えられていました。
 まず、花の方です。
   

 次に実の方です。
    

 どちらも、トゲトゲがある感じです。
 なんだか、こういうかたちの病原菌がいましたね・・・。
 そう思って、農作業をしていた人に訊いてみようかと思ったのですが、チョウのいる極楽に不穏な空気を持ち込んではいけないと思いやめました。

(6)それから、「天女が現われないかな」と思いながら歩いているとき、おもしろいものがいくつも見つかりました。とりあえず2つだけ。
 ひとつは次のものです。
   

  もう一つは次のものです。
  

 「天女」の代わりに「お化け」が出たかな、「いい気味だ」と自嘲・・・。
 
 きょうは、きのうの急登のために足腰が痛むかなと思いながら用心しましたが、別段なにもありませんでした。
 〽私は~げんき~ 歩くのだいすき~ 
 どんどん行きます。では。

 

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No.145 『測量』の「書評」のこと 

2024-04-19 17:18:57 | 勝記日記
(1)もう一昨日になりますが、日本測量協会の機関誌『測量 The journal of survey 地理空間情報の科学と技術測量』(2024年4月号)が送られてきました。(以下では副題を略して『測量』とします。)

   

(2)『測量』が送られてきたのは、88ページ以下の書評欄「Survey Library」に『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎をきずくー』の書評を山岡光治氏が書いてくださったからです。 
 山岡氏は、長く国土地理院の技官として勤務され、退職後はゼンリンに勤務され、さらに、地図の楽しみ方を知ってもらいたいと、『地図を作った男たち ー明治の地図の物語』(原書房)、『地図に訊け』(ちくま新書)、『地図を楽しもう』(岩波ジュニア新書)などの著書が多数ある人です。著書はわかりやすく、すでに測量関係では知られた人です。
 その山岡氏が、『神足日記』について注目してくださったのは次のところでした。

(3)まず、私は『神足日記』の編纂にあたって、「解題を導入部として日記本体を直に読む努力をしてもらう」ことがこの日記を最も生かすことになると思って編纂しました。ですから、できるだけ私見は述べないようにし、理解に役立つ資料や説明を付けました。そのことを山岡氏は次のように書いてくれています。
 「本書は、・・・御料局の測量事業に関わる部分を主に報告するものである。神足勝記と御料局の業務をたどるには、704ページ、約80万字に及ぶ本書を一々読み解くことになる・・・」
 そうです。あれほど面白い日記もそうはありません。それを私が読み砕いてしまっては、エキスを伝えられたとしても、いちばんよいところを奪ってしまうと考えたわけです。「大変でも、読破してほしい」、この一念です。
 そのために編纂にあたっていくらかの工夫をしましたが、それについて、次のように書いてくれています。
 「そこには、公務出張のようす、日々の公私の出来事、広範な人との出会いなども淡々と記述する日記に沿うばかりでなく、関連文献や史料を基にした追記編集が適宜・適切になされて理解を容易にする配慮がある。」

(4)「配慮」が「適宜・適切」であったかは、今後も検討していくつもりですが、読者には読む努力求め、その努力をする人が一人でも二人でも出て来ることが、この分野の研究を先に進めることになる、その確信が自分にはあります。山に登り切った人だけが見られる世界です。
 山岡氏はそれについても書いてくれました。
 「・・・著者が解題でも述べるように、「これまでは外から観察していた御料局とその事業を、内側から生き生きとした動きとして見られるようになり、現場の目線で考えることができる」研究者には必須の一冊となっている。」
 そうです。情報公開法によって研究者は研究姿勢を改めなくてはならなくなりました。これまでは、資料の制約から、どうしても手に入り易い高官や著名人の書き残したものから断片的に推測する方法しか取れませんでした。しかし、いまは違います。明治天皇の手許書類まで閲覧請求をすることができます。研究者は、高所からでなく、現場の目線でとらえ直す必要に迫られる時代に入りました。そして、そこで自分の居場所を見失わない学問的方法論が要求される時代になっているのです。一級資料を見て二級三級のレベルにならない努力が求められています。前より格段に大変な時代になっているのです。  

   

(5)ところで、いただいた『測量』4月号は「令和6年能登半島地震」の特集号になっていました。さっそく巻頭の2論文を拝読、興味深く読みました。
 ひとつは、私の専門の財政学から見た公共事業費の在り方の件です。
 従来のゼネコン型の大規模公共事業ではない、災害多発国日本の国土保全としての公共事業をどう形成すべきか、このことをもっと考えるべきと思いました。
 もう一つは、この国の研究体制です。
 よく、対米従属・大企業優先といわれますが、また軍事ばかり突出した予算編成がなされていますが、主権者である国民福祉と科学研究にもっと力を入れ、それに裏付けられた環境整備や国土計画が必要となっていますから、それに早く気付くべき時だということです。
 これまでの災害に続いて今度の地震もその警告になっている、これは明らかです。

 おっと、またまた脱線。長くなりました。

   
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No.124 分類

2024-03-30 01:09:11 | 勝記日記
 「御料林」で検索していくと、しばらくして「平塚運一:天城山御料林」に行きあたります。イメージとしては下の写真のようなものですが、興味ある人は検索してみてください。
 ふっくらとした山林の中央にポツンと建物があって、郷愁をそそられる暖かい作品です。

   
     大菩薩山御料林

 2018年7月14日~9月9日に千葉市美術館で「平塚運一展」があり、そのときの展示品の紹介欄につぎのことが書かれています。
 昭和10(1935)年作/木版多色摺/40.4㎝×29.9㎝

 天城御料地は、①天城山御料地 ②棚場山御料地 ③富貴野御料地 ④田中山御料地 の4団地からなる御料地です。(「天城御料地」と「天城山御料地」は厳密には別物です。)
 そのうち、②~④は小さな御料地ですが、天城山御料地は湯ヶ島本谷・筏場・地蔵堂・菅引・奈良木・片瀬・白田・佐賀野・梨木・大鍋・池代・仁科の12の御料地に区別されます。
 
 残念ながら、平塚運一「天城山御料林」を直に鑑賞したことがありません。また、この絵が具体的にどこかをモデルにしたものかも知りません。画像を見ると、周辺にこんもりとした山林が広がる中央に小さく建物が見えます。湯ヶ島のあたりでしょうか。
 上の私の写真はどうですか?

  
   釈迦堂遺跡博物館

 ところで、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)ですが、図書館のどこに配架されるとおもいますか。
 考えられるのは、書名(タイトル)のどこをみるかでしょうから、まずそれでポイントを挙げて「:」の右に配架先を例示してみましょう。なお、書誌についての素養はありません。たんなる思いつきです。
(1)御料局:天皇・宮内省関係・皇室財産/日本史(明治・大正・昭和)
(2)測量課長:踏査・測量・測量史関係
(3)神足勝記:大学南校・熊本県関係/郷土史
(4)日記(回顧録):?
(5)林野:山林(史)・林業(史)・国有林(史)・御料地(御料林)
(6)林野地籍:国土・法規・地誌(史)
(7)日本林業調査会:林業

 以上はタイトルから推測してみたものですが、このうち、
 (8)一般的には、御料地形成史に関わることがメインなので(1)。これは、皇室関係法令なども該当します。
 (9)御料地や御料林が多くあった地域では、「御料地」とか「御料林」で独立させるかもしれません。
 (9)山梨県なら「恩賜林」もあるでしょう。
 (10)熊本県なら郷土資料・出身者、あるいは測量関係。
 (11)農林系の大学なら(5)~(7)
 (12)文学部でも、池辺義象の件ほかでかかわりがありますが、これはどこにしましょうか?
 (13)東京大学・南校・開成学校・貢進生などなら教育(史)関係
 (14)御料局の法制・制度・職員などなら総記?

 どうでしょうか。もっとありそうです。
 この本がもし失われていたならどれだけの損失か、お分かりいただけるかと思います。
 こういう本があること、こういう人がいたことをぜひ知っていただきたい、そう思います。
 
  
   朴はあこがれ

 今日はこの辺で。


 

  
 


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No.115 人名録

2024-03-21 00:29:00 | 勝記日記
 このブログは『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)の紹介のために始めたものです。
 おそらく、この本をもとにしたり、手掛かりにしたりした論文が何十本も書かれる日がくることでしょう。それを期待しています。

 

 さて、『神足勝記日記』の末尾に「人名録」を付けました。
 「解題」に書きましたが、日記を読んだ時、出て来る人が誰だかわからくてメモが取れませんでした。まさに Who's Who?(この人は誰)という状態だったわけです。それで、全文をパソコン入力しながら読むことにしたのですが、そうして入力作業をしていると、知る人物が次第に増えてきて記憶しきれなくなりました。つまり、各人のメモを独自に作る必要に迫られることになったわけです。人物がわかってくると事態の移り変わりとあわせて、日記の空間が読めるようになりましたから、これは有効で不可欠の作業だったわけです。
 「人名録」は『神足日記』に登場する人を集めたものです。職員全員を網羅した「職員録」ではありません。しかし、登場人物は、その職務上の地位の高低に関わらず、能うかぎり探求して盛り込みましたから、この時点での私の到達点でもあります。ぜひ手掛かりにしていただきたい。できれば、知る知らないにかかわらず、拾い読みでよいので、読んでみてください。人の一生の悲喜を読み取ることができる場合も少なくないと思います。
 今日はもう、ここで終わりにしてもよいのですが、ここからが本論です。


 『神足日記』に知らない人が出て来ると、ネットで検索し、人名辞典で調べました。しかし、これは、よほどの高官か有名人でないとまず出てきません。
 従来は、「有名人史観」とでもいいましょうか、有名人が歴史を作ったという見方の側面が強かったのではないでしょうか。
 これは、もちろんいまでもまだそうですが、無名の人のことを纏めても読む人はいないし、いても読まれることは少ない、だからテマなだけ・・・、これを出版しても売れない、だから出版の対象にならない。まあこんなですね。
 しかし、今まではともかく、これからの歴史の要点は「無名な多数」です。そこまで見る。「人の総体が歴史をつくった」という視点です。いいなおすと、「一人一人を積み上げる息の長い探求をやる」、これが本当の研究です。

 ちょっと話を変えますが、芸能界を見ていて思いました。
 しばらく、このごろは「ナントカ48」みたいなのばかりでスターが出てこない、ツブが小さくなってしまってスターを作りあげる側のスタッフの力が低下した・・・のかなと。
 でも、ふと気づきました。
 芸能プロダクションの基準は、今も売れるかどうかでしょう。その育成・創造能力はともかく、むしろ受け取る側が一人のスターだけを求める時代ではなくなったのではないか・・・と。
 日本でも世界でも野球人気が低落してきた中で、あの「大谷翔平」の人気を支えているものは、超絶した能力もさることながら、「庶民性」でしょう。スゴイの基盤としての「庶民の共感」、これがなくては通用する時代ではなくなっています。敬愛されない。もともと、庶民性は「きどらなさ」として尊重されていたのですが、それが普通になった 
 もうちょっというと、庶民から隔絶した英雄(ヒーロー)とか憧れとしての英雄でなく、みんなの英雄、みんなに祝福される英雄、一言で庶民性のある英雄・・・。これは、焦点(主役)が英雄の側ではなく、庶民の側に移ったという発想です。

 その例として、アノ象徴天皇も、「庶民に畏敬の念を持たれる天皇」とか「敬愛されるだけの天皇」から「庶民に寄り添う天皇」へと主客転倒したことがわかります。
 だいぶあらぬ方へ突き進みましたが、つまり「見られる側が主役」から「見る側が主役」へと意識転換してきている。

 研究の分野では、著名人や有力者に専ら注目する時代から、その背部や底辺にいる多くの人、「これまでの無名層」へと焦点が移ってきていると思うのです
 これには、情報公開法によって、従来、よほどの高名の学者でも見られなかった文書の閲覧ができるようになったこと、もう一つは、素人でも自由に撮影でき、瞬時に撮影の結果を見極められるデジタル撮影(デジカメ)の普及が大きいでしょう。
 情報公開法後でも、デジカメ撮影許可前は、その都度範囲を指定して申請し、A4判1枚を入手するのに、範囲を指定して申請し、基本料金+1枚100円余の経費が必要でした。このため、ある時1000枚余を申請して15万円を要したことがあります。
 今は、16GBのSDカードがあれば、1回1000枚程度として、4回分は収納できます。文書だけでなく、図表も画像も瞬時に自分のものとすることができます。申請の手間や追加の経費を考慮することが必要なくなりました。制度変更や技術変更が、歴史研究の分野でも研究技術水準を引き上げ、研究視野の拡大を可能にしました。進化しているように思います。
 オット、またまた脱線です。今日はこの辺で。

  
   ミノムシ:住みごごちはどう?

  

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No.110 退職理由

2024-03-15 22:43:50 | 勝記日記
  

 神足勝記は、大正6年に御料地測量事業の完成を見て退職を決意し、辞表を提出しました。
 辞表全文は『神足勝記日記』483ページ下の5月30日の注に挙げておきましたが、その主要部分は「過般来病気に付き加療罷在候処、今に全治不仕、何分執務に堪へ兼ね候間、・・・」です。
 これについて、同時に提出された「診断書」に、病名が「慢性気管支加答児〔カタル〕」とあり、それを説明した部分には「明治42年以来、寒冷の時期に感冒に罹り易く・・・本年2月以来・・・再発、・・・容易に全治の見込無之・・・」と書かれています。
 神足が蒲柳の体質の持ち主であることは、日記を編纂したものとして知っていましたから、とくには違和感はありませんでしたが、しかし、「こういう医学判断になるのか」、とは思ったものです。 

  

 ところが、『進退録』(御料局などの職員の採用・退職・異動・昇叙などの記録を綴じた簿冊:宮内公文書館蔵)を見ていて、不思議に思ったことがあります。それをいくつか紹介することにします。

(1)H・K氏は、大正6年に20歳の頃に職員講習試験を受けて雇員に採用されました。当時の高等小学校卒ほどの学歴で、職歴ほとんどなかったと見られます。その後、名古屋支局で働き、大正10年依願退職します。
 細かいことを措いて、「退職願」と同時に提出された「診断書」を見ると「脳神経衰弱症」とありました。
 最初、私は、本当に脳神経を患っているのかと思いましたが、見ていると、ほかの人でも、類似名の「神経衰弱症」とか「脳神経衰弱」というのが結構あるのです。
 この意味するところをまだ突き止められてはいませんから、推測ですが、病気でもないのに、「生涯一職業に専念できない」で「中途退職するのは頭がおかしい」という判断に見えます。
 これは、この当時はそういう判断が一般的だったのかどうかわかりませんが、今でも、変わったことや犯罪を犯すと、頭がおかしいとか、狂人扱いの判断をすることがありますから、興味深いところです。
 実際、「家業の都合」とか、「老親の孝養のため」などという場合は、「慰留した」が「事情やむなく」という判断が書かれているようです。

  

 (2)M・K氏は、昭和15年に東京帝大農学部林学科を卒業して、技手〔ぎて〕として採用され、木曽支局に配属されました。その後、2年従事して、17年に依願退職します。25歳です。
 この人の「診断書」を見ると、「神経衰弱症」でしたが、そこには付箋があり、「三菱系東山農事会社に入り南方へ赴く予定」と記されていました。
 そうすると、この場合の「神経衰弱症」の意味はどういうことでしょうか。
「安全な御料地で働くことを止めて、危険な南方へ行くなど正気の沙汰でない。神経が衰弱している」
といっているようにも解釈できますが・・・。ひょっとして反戦?

  

 (3)T・I氏は、愛知県の安城農林学校林科を卒業し、技術雇員として採用され、木曽支局に配属されます。その後、13~15年は徴兵され、16年~18年の間、最初は技術雇員として、のちに昇進して技手補〔ぎてほ〕として従事します。そして、18年8月に依願退職します。26歳です。
 そこで、その辞表をみると「胸部疾病、脚部不具」とあります。これは自分で書いたものでしょうけど、その実際のようすがよくわかりません。そこで「診断書」にどうあるかを見たところ、つぎのようにありました。
「右背部育管(肺胆損傷)、両大腿軟部育管、右下腿腓骨骨折兼右腓骨神経損傷、手榴弾破片創」
 徴兵でケガをしたようですけど、詳しいことはわかりません。でも、おもしろいですねえ。どんな様子なのか、見てみたいです。
 
  

 (4)S・T氏は、明治39年愛知県立農林学校を卒業して、1年間小学校の先生をやり、のち樺太庁で働いて、43年に技手として名古屋支局に採用されます。その後、61歳で技師に昇給して同時に依願退職します。50代くらいで退職が多い時代に、61歳まで在職したのは長期です。
 この人の「退職願」をみると、
「61歳と相成候処、近年健康を害し、専ら摂養を要し候条・・・」
とあります。いまのように定年ではないのですね。でも、ほとんど年齢的に限界です。
 こういう人の場合はどうかというと、「診断書」に
「心臓冠状動脈硬化症」
 とあります。この説明も読んでみますか?
「体格中等度、栄養稍々衰ふ、呼吸器尋常、心音稍々不純〔ママ〕にして規則的ならす、時々衝心様発作ありて、胸内苦悶甚しく、次第に高進して就寝時も発作を見るに至る」

 どうですか。おもしろいですね。
 まだ、これから検討する所ですが・・・。こういうことも含めて、人までよく見ないと、御料局や後の帝室林野局の動向はつかめません。

  
 前途程遠し 思いを北桔橋門の夕べの雲に馳す


 
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