神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.112 河口慧海

2024-03-18 00:46:39 | 山の本
 その昔、父親が話してくれたことを一つ思い出しました。
 お祭りのとき、浅間様へいくと、屋台などと並んで「大イタチ」とかかれた見世物が出ていたそうです。「どんなに大きなイタチなんだろう」と思って入ったところ、「大きな板があって、血がちょっとついているだけだった」と。
 これは、一休さんに出て来る「このはし渡るべからず」の類のトンチですが、考えてみれば、昨日の「秘境」には「言葉の魔術」を感じます。


        朴:おもいで&あこがれ

 昭和30年代ですから、今より不便でした。しかし、もうバスも奥地まで入っていました。(バスに限っていえば、今の方がもっと不便かもしれません)。人口だって今より多かった? 
 そもそも、近世にもいくらかは物産もあり、鷹の捕獲によってコメなどを供与されるなど、当時の社会に組み込まれていました。また、有害獣捕獲のため、鉄砲を所持して山に入ることも普通にありましたから、もう「秘められてはいなかった」のではないかと思われます。それをどう思うかは勝手ですが、なんとも違和感があり、です。
 そういうことを念頭に、本の帯に「秘境ブームになった傑作」とあるのをみると、「このブームは作られたブームだったかもしれない」と複雑な気分になります。 
            
 そういうことを考えていて、ふと次の1冊を思い出しました。
 『西上州の岩山藪山』(二木久夫〔ふたきひさお〕、現代旅行研究所、昭和56年)です。

  

 この本は、昭和40年代~50年代の、妙義山を中心に南から西の埼玉県・長野県の県境付近をくまなく歩いてまとめたものです。歩いていないところを見つけるのが難しいくらい丹念に歩いていて、うらやましいかぎりの本です。おそらく山好きな人ならば、必ず読むことでしょう。
 私も、あと20年若ければ、これを「聖典」(笑)として踏破を目指すかもしれません。

 この本は、昨日の『日本の秘境』とは打って変わって、「秘境」などと陰鬱な感情を書きたてるのでなく、どんどん入って行きます。道がなければ道を作ってしまうくらいの勢いです。そしてそれを、克明に記録しています。
 『日本の秘境』に「秘境演出」の作為を感じるのに対して、こちらは明るい。臨場感にあふれて健康的です。この本がすぐに手に入る本かどうかわかりませんが、オススメの1冊です。本の大きさは、縦195mm✕横135mm、362ページです。
 ちなみに、本の表紙は「尾附天狗岩より望む秋の小倉山と鷹岩」とあります。
 これは次の地図をご覧ください。地図中央下に「尾附」、橋倉川に沿ってやや北に「天狗岩」、そこから西を見ると、左〔南〕に「小倉山」と右〔北〕に「鷹岩」があります。
 なお、この地図にはありませんが、この地域の少し奥にももっと高い「小倉山」がありますが、そこではないようです。

  

 もう、今日の標題のところを書く時間がなくなってしまいましたが、「秘境」で思い出したことがあるので一言書いておきます。
 小学校5年の頃、旺文社か学研の学習月刊誌の付録に、河口慧海のチベット入国についての物語本がありました。当時のチベットは鎖国下にあり、そこへ慧海が仏典を求めて密入国を図ったことが内容ですが、ずいぶん緊張して読んだ記憶があります。慧海の「身を賭して真理を求める姿勢」を忘れることができません。
 これも、『かばすけ漫遊記』とは別理由ですが、ずっと探しているものです。

 私はこれを夏休みに読んだのかもしれません。
 宿題の作文として感想文として提出したところ、金賞・銀賞でない、なにか努力賞のような紙がつけられて返されて、エラク満足したのを覚えています。
 ところで、『河口慧海日記』(講談社学術文庫、2007年)が刊行されました。全体は315ページ、半分が日記、半分が解題・解説・研究です。
 もはや、幼少時の感動はありませんでしたが、それでも「真摯な探求の姿勢」には学ぶべきものがあると思っています。
 
  

 『御料局測量課長 神足勝記日記』日本林業調査会(J-FIC)の編纂にあたって、神足の人となりや、課寮の労苦がわかるように工夫したつもりですが、どうでしょうか。  

  

 今日はここまでとします。





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No.111 「神流川の源流を行く」を読む   

2024-03-16 18:37:42 | 山の本
 今日、次の『日本の秘境』(岡田喜秋 ヤマケイ文庫 2017年)の「神流川の源流を行く-西上州から奥信州へ―」を読みました。 

    

 この本は、末尾の説明によれば「おもに昭和30年代の旅の記録」をまとめたものだそうです。 
 それを1960(昭和35)年に東京創元社から刊行したのが初版で、その後、一部追加して64年に角川文庫から再刊され、さらに76年にスキージャーナルから新装版として刊行されたという経緯があり、この最後のものを底本して、「定本」として本書を刊行したそうです。
 なお、著者は、東京生まれ、旧制松本高校卒業とのことですから、「信州人」といってよいようです。

 さて、神流川の上流といえば、私が就学前に過ごした「生い立ちの地」ですし、神足勝記が明治17年10月・12月の2回通過していますから、読まないわけにはいきません。
 おまけに、30(1955)年代といえば、このブログで取り上げた「笠原義人先生」のご家族が橋倉にお住いでしたでしょうし、我が家もまだ神ヶ原に居りました。また、カバヤ食品のカバ型の宣伝カーがやってきたころということになります。
 このころはまだ、山中谷〔さんちゅうやつ〕とか「群馬のチベット」とかいわれてはいたものの、そして、まだ道路の舗装もされていなくて、もちろんガードレールなどもなかったとはいえ、ずいぶん開けてきて、万場も活気もあったように思います。
 しかし、先に結論を言いますと、ちょっとがっかりでした。

 まず、下の地図はこの本の73ページに付けられているものです。

  

 最初、この地図を見てすぐに変な地図だなと思いました。直観です。しかし、ともかく一読が先と考えて読んで、あとから改めてよく見たところ、わかりました。
 この地図には、北の高崎、西の富岡、南の鬼石が記載されていますが、この地域の中心地になる藤岡が記載されていないのです。それから、信越線や上信電鉄線(高崎・下仁田間)があるのに八高線の記載がありません。左上に神津牧場まであるのに、中心地の記述が欠落しています。
 たしかに、神足は巡回事業の終了後に鬼石から児玉辺を通過して本庄に出て帰京しましたし、この著者も、本庄から鬼石までバスを利用したと書いていて、この道筋(ルート)が高崎線との関係で便利な面もなくはないですが、経済・行政の面からはこの一帯はもともと多野郡であり、藤岡町が藤岡市になってからも多野・藤岡と一体で呼ばれるのが通常でしたから、昭和30年ならばなおさらはずせないことです。
 そのうえでこの地域の交通をいえば、高崎線の新町駅ー藤岡市ー鬼石の道筋が重要ですが、上の地図にはその視点が全く欠落しているわけです。

  

 ちょっと辛く言い過ぎたでしょうか。
 でも、必ずしも、そうではないと思います。というのは、著者は「秘境」ということ強調したいためか、峠を克明に描いていますが、近世や明治・大正ならともかく、昭和30年代にこれらの峠を越えなければ生活や経済が成り立たないというようなことだったのかどうか、疑わしいです。著者は、このうちのどれかでも超えたでしょうか。カバの宣伝カーでさえ来たのですから、流通経路はすでに道路に移行しつつあったのではないでしょうか。
 実際、著者は、土地の人の話として、三波石や三波石もどきを東京に売りつけに行く話や、コンニャクの流通のことにも言及してます。
 また、そもそも、著者は東北大の経済学部出身で、横浜商大教授として観光学の構築に努めたそうですから、山行前か後にもっと調べてしかるべきだったのではないでしょうか。 

  

 オット、時間が無くなってしましました。
 内容は、みなさんがご自分で読んでみてください。
 そのうえで、一言だけ読後感を言えば、著者が目指したという「三国峠」へは、通過する人が少なくなってきていたとはいえ、もっと土地の人からの情報を得たならば、なんということもなかったのではないか、と思われました。
 というのは、掲載されている標柱は、写真を見る限りでも、小さいとはいえ、まだ古くはなさそうだし、文字もしっかり判読できます。
 つまり、「秘境」と煽っただけなのではないか、というのが私の感想です。
 日航機の墜落事故の頃まで、この地域の交通事情が今と比べて芳しくなかったことは確かですが、それにしても、多少なりとも知っているものからすると、チョット、と思いました。
 ここまでとします。
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