鶴岡駅に13時に着いて、三矢宮松(元帝室林野局長官)とご子息篤先生の墓所にお参りをして、14時23分鶴岡発に乗り、15時に酒田駅に着きました。
酒田へ行ったのは、高崎高校2・3年の担任だった大川純三郎先生(世界史)のことを思い出したからでした。
前にも書いたことですが、69・70年と大学紛争が荒れ狂い、混乱のために私は本命の東京教育大学(露文)を受験できず、しかも露語のほかは眼中になかったために、ほかを受けてはみたものの、体調を崩したり気もそぞろでうまくいかず、まったくあらぬ方向に進んだため、十分な報告もできなかったからでした。
今から考えるに、それなら76年秋に立教の大学院に入学が決まった時にでも思い立てばよかったですが、その頃はすでに就職して結婚もし、翌年7月には「子持ち」の院生になっていました。「女房持ち」は外にもいましたが、「子持ち」は珍しがられたものです。昼は大学、夕方からは生活費稼ぎ、夜は研究というように、日々に追われるようになっていましたから、余裕がありませんでした。(奨学金は名前ばかりで、全額がアパート代に消え、研究費としてまったく役に立たない少額で、結局、それは積み上がって300万円余の借金として現われ、その後の生活の障害となりました。)
その後、いつだったか、机の中の下の方から「本人開封無効」と記された封筒が出てきました。入学願書に添えて提出する「調査書」でした。それは、当時の教育大と外語大の受験状況を見越して、早稲田の露文も受けなければならないかもしれないことを大川先生にお話しして、追加作成をお願いしたものでした。「・・・けど、もういいだろう」と開けてみてみました。
すると、「教科・学習についての所見」として「第三学年になってから成績が上昇した。頭のきれは鋭い。成績に現われない将来性がみとめられる。」とあり、そして「所見欄」に「同情心厚く、明朗で積極性に富む。勤勉。親しみ易い性格の持主である。」とありました。
立教の院生になって2年目の時に、三宅義夫先生の「金融論演習」に出席したときのこと、某先輩が「九州の方の大学に就職が決まった」といって、「推薦状」を三宅先生にお願いしたお礼を述べたところ、先生が
「推薦状というのは、あれは、ウソは書かないけど、だいたいは良いように書く・・・」
というように話されたので、一同で大笑いをしたことでしたが、
「大川先生は、だいたいどころか、うんと良く書いてくれたんだ」と感謝でした。
さて、大川純三郎先生が、かの有名な「大川周明の甥」であることはわれわれ皆知っていました。その件については、今ここではもう書ききれませんから、関心がある方は「大川純三郎」で検索してみてください。先生の友人という「齊藤勝郎」氏がブログに「追悼文」を掲載されています。
ということで、「先生と酒田の関係」云々など気にせず、ミニサイクルでぐるぐると廻りました。「どうせ1回では何もわからない、見られるだけ見てまた来る」という無計画さを発揮しました。
廻ったところを「落穂ひろい方式」で上げておきます。動き回るのに夢中であまり良い写真を撮れませんでした。一部のみあげてます。
(1)下日枝神社:光丘文庫
ここには大川周明の記念碑と蔵書があります。
境内からの酒田市
(2)南洲神社
西郷は幕末に庄内藩を遇したため人気があります。
(3)鐙屋
酒田を代表する廻船問屋です。検索すると、キレイな案内が出てきます。
(4)本間家:千町歩地主
鐙谷に時間を取られて間に合いませんでした。入り口と周辺のみ見てきました。
日本で千町歩地主は3軒ほど。あとは百町歩どころかもっと小さい。一町歩の地主もいました。一方、ドイツでは一万町歩も十万町歩も小さい方です。ドイツの農地の大半が氷河の下にあった瘦せ地で、土地の豊かさが違います。
(5)山居倉庫
これは有名ですね
山居倉庫からみた市内
(6)三重塔:海曇寺
ここは偶然に通りました
大川純三郎先生の墓所は前橋市三河町1-17-1 隆興寺にあります。
墓所はお寺でお聞きください。
酒田にお住いのご遺族の方が、偶然にも昭島市にある病院とつながりがあるお務めで、こちらに来られる機会があるそうです。連絡をお取りになりたい方には、僭越ながら仲介いたします。お知らせください。
では、ここまで。
上の三重搭です