神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.94 酒田行

2024-02-29 00:20:59 | 追憶
 鶴岡駅に13時に着いて、三矢宮松(元帝室林野局長官)とご子息篤先生の墓所にお参りをして、14時23分鶴岡発に乗り、15時に酒田駅に着きました。
 酒田へ行ったのは、高崎高校2・3年の担任だった大川純三郎先生(世界史)のことを思い出したからでした。
 前にも書いたことですが、69・70年と大学紛争が荒れ狂い、混乱のために私は本命の東京教育大学(露文)を受験できず、しかも露語のほかは眼中になかったために、ほかを受けてはみたものの、体調を崩したり気もそぞろでうまくいかず、まったくあらぬ方向に進んだため、十分な報告もできなかったからでした。
 今から考えるに、それなら76年秋に立教の大学院に入学が決まった時にでも思い立てばよかったですが、その頃はすでに就職して結婚もし、翌年7月には「子持ち」の院生になっていました。「女房持ち」は外にもいましたが、「子持ち」は珍しがられたものです。昼は大学、夕方からは生活費稼ぎ、夜は研究というように、日々に追われるようになっていましたから、余裕がありませんでした。(奨学金は名前ばかりで、全額がアパート代に消え、研究費としてまったく役に立たない少額で、結局、それは積み上がって300万円余の借金として現われ、その後の生活の障害となりました。)

 その後、いつだったか、机の中の下の方から「本人開封無効」と記された封筒が出てきました。入学願書に添えて提出する「調査書」でした。それは、当時の教育大と外語大の受験状況を見越して、早稲田の露文も受けなければならないかもしれないことを大川先生にお話しして、追加作成をお願いしたものでした。「・・・けど、もういいだろう」と開けてみてみました。
 すると、「教科・学習についての所見」として「第三学年になってから成績が上昇した。頭のきれは鋭い。成績に現われない将来性がみとめられる。」とあり、そして「所見欄」に「同情心厚く、明朗で積極性に富む。勤勉。親しみ易い性格の持主である。」とありました。
 立教の院生になって2年目の時に、三宅義夫先生の「金融論演習」に出席したときのこと、某先輩が「九州の方の大学に就職が決まった」といって、「推薦状」を三宅先生にお願いしたお礼を述べたところ、先生が
 「推薦状というのは、あれは、ウソは書かないけど、だいたいは良いように書く・・・」
 というように話されたので、一同で大笑いをしたことでしたが、
 「大川先生は、だいたいどころか、うんと良く書いてくれたんだ」と感謝でした。
 
 さて、大川純三郎先生が、かの有名な「大川周明の甥」であることはわれわれ皆知っていました。その件については、今ここではもう書ききれませんから、関心がある方は「大川純三郎」で検索してみてください。先生の友人という「齊藤勝郎」氏がブログに「追悼文」を掲載されています。

 ということで、「先生と酒田の関係」云々など気にせず、ミニサイクルでぐるぐると廻りました。「どうせ1回では何もわからない、見られるだけ見てまた来る」という無計画さを発揮しました。
 廻ったところを「落穂ひろい方式」で上げておきます。動き回るのに夢中であまり良い写真を撮れませんでした。一部のみあげてます。

(1)下日枝神社:光丘文庫
 ここには大川周明の記念碑と蔵書があります。
 
  境内からの酒田市  

(2)南洲神社
 西郷は幕末に庄内藩を遇したため人気があります。

(3)鐙屋
 酒田を代表する廻船問屋です。検索すると、キレイな案内が出てきます。

(4)本間家:千町歩地主
 鐙谷に時間を取られて間に合いませんでした。入り口と周辺のみ見てきました。
 日本で千町歩地主は3軒ほど。あとは百町歩どころかもっと小さい。一町歩の地主もいました。一方、ドイツでは一万町歩も十万町歩も小さい方です。ドイツの農地の大半が氷河の下にあった瘦せ地で、土地の豊かさが違います。
 
(5)山居倉庫
 
  これは有名ですね


 山居倉庫からみた市内

(6)三重塔:海曇寺
 
  ここは偶然に通りました

 大川純三郎先生の墓所は前橋市三河町1-17-1 隆興寺にあります。
 墓所はお寺でお聞きください。
 酒田にお住いのご遺族の方が、偶然にも昭島市にある病院とつながりがあるお務めで、こちらに来られる機会があるそうです。連絡をお取りになりたい方には、僭越ながら仲介いたします。お知らせください。
 では、ここまで。

 
  上の三重搭です


 

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No.93 鶴岡行

2024-02-27 23:31:15 | 余録
 この日は、5時に目がさめ、6時に市内散策に出ました。戻ると旅宿の主人があやめ祭りをやっているからと勧めてくれ、7時半あやめ園へ行きました。まだ咲き初めたばかりでしたが、それでも堪能できました。9時戻って清水園に入りました。これも予期せぬ美しさで、これだけでも新発田市を再訪したいと思いつつ10時過ぎに出て、鶴岡市に向かいました。


 あやめ園:ずっと向こうまで

 乗ったのは、新潟10時14分発酒田行の「きらきら羽越」という全席指定席の快速電車で、それがちょうど10時40分に新発田駅を発車するところでした。
 運が良ければ、こういう電車にも予約も追加料金もなく乗れるところが「大人の休日倶楽部」の良いところです。おまけに、駅のみどりの窓口の駅員が見つけてくれた座席が「1号車2C席」、つまり先頭車両の前から2列目右列の通路側でした。展望車で前がよく見え、願ってもなかなか得られない申し分のない座席でした。
 
 ところがよいことばかりではありませんでした。
 最前列の前にコップが置けるくらいの台がついています。見るとそこに、コップでなく、男の土足が乗っていました。
 こういう列車の最前列などは、マニアや子供がなんとか取ろうとしてもそう簡単に取れるものではないと思うのですが、この人は目出度く取れたわけです。それにしても、マニアにしては行儀悪いなとも思ったので上からのぞき込むと、60~70くらいのジイサンが、二人分の席を陣取ってなにかのパンフを見ながら、逆立ちするように寝そべっていました。
 あまりに異様なので、「靴ぐらい脱いではどうですか」というと、「すみません」といって靴を脱ぎました。ところが、なんとこんどは靴下になって同じことをやり続けました。
 さすがにこれでは足が当って痛かったのでしょう。台から足を降ろしたかとおもったら、今度は前の壁の方へ片足を上げ始めました。ところが、靴下ですから滑って安定しません。右へ左へと滑るものですから、足を交互に代えてなんとか安定させようともがき続けましたが、やがてあきらめ、今度は売店へなんども往復を繰り返し始めました。
 目障りなことこの上ないのと、こういう人は得てして気が小さく、恨みを持ちやすいので、村上駅の辺りで後方の席が空いたのを見て、そこに移りました。

 
  タイサンボク

 今日はここからなんです。
 13時、鶴岡に到着しました。
 さっそく、大東町にある本鏡寺へ向かいました。本鏡寺は、鶴岡公園の南側の道をそのまま南東に進み、鶴岡天満宮の先の信号を北に入るとありました。途中、ミニサイクルのバルブが破裂するという珍事がありましたが、自転車屋がすぐ近くで見つかり、まあ、無事に着きました。
 このお寺には、三矢宮松(元帝室林野局長官:明治13(1880)年10月23日ー昭和34(1959)年1月10日)の墓所があります。(墓所の写真の掲載を控えます。)
 三矢宮松は、内務省に入り、朝鮮総督府警務局長などを経て大正15(1926)年9月に帝室林野局長官に就任し、昭和15(1940)年12月退官します。

 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の「解題」の29~30ページ辺りで書いたように、御料地がほぼ確定してその後の見直しを経て新たな発展へ向かわんとして動き出したときの長官として具に研究されるべき人です。

 三矢についての細かいことはここでは略しますが、これより前、1978年の夏前、私が立教大学修士課程2年の時、もともと経済理論を勉強していた私は、理論や歴史の勉強は、専門とする予定でなくとも、継続しないといけないと思っていました。そのことを、院生のたまり場で某先輩に話したところ、「幅を広げるためには、耳学問もいいんだよ。先生にお願いしとくよ」といって仲介してくれ、アメリカ経済論の宇治田富造先生の演習に出席させていただけることになりました。
 そうして出席したところ、やがて研究テーマが話題になって、「天皇制の経済的基礎・・・」についての研究予定を話すと、宇治田先生が、突然「それなら、理学部の三矢さんは息子だよ」と話されました。そして、お名前が「篤(あつし)」であること、お会いする手立てなどをご教示くださいました。
 さっそく予約して理学部にお伺いすると、三矢先生はいろいろの思い出話をしてくださいました。しかし、結論は、「父は仕事を家に持ち帰ることはなかったから、何もないとおもう」でしたが、「物置に何かあるかなあ」とぼそっといわれたので、お伺いして探させていたくことにしました。
 結局、何もありませんでした。手帳が1冊出てきましたので、後日、電話で伺うと、仕事のことはなにもなく、ほかはお見せ出来ないというので、あきらめました。
 いま、本棚に旧版の『米欧回覧実記』がドンとあったことを思い出します。先生に「あれを下さい」といったらよかったとつくづく悔やまれます。
 なお、物置に、槙重博『林業実務叢書』がありました。槙は、帝室林野局旭川支局監理課長を勤め、戦後は上智大学法学部教授になった人です。その本の扉に槙の三矢宮松への献辞があったので、これはお願いして頂戴しました。いまも手元にあります。
 なお、槙先生にも同じ頃に研究室にお伺いしました。
 お会いして、テーマについて「天皇制の・・・」と説明をしだしたところ、「天皇制というのは日本の君主制のことですか・・・」と突っこまれ、ケンモホロロとはこのことかと思いながら帰ってきたのが忘れられません。いまなら展開できるでしょうけど、若いの頃の「良い思い出」です。

 だいぶ長くなりました。
 本鏡寺では、住職夫人に案内していただいて三矢氏の墓所を伺いました。広い墓所の正面右〔南〕に墓碑があり、その2行目に「宮松」の名がありました。そして、順に見ていって思わず驚きの声が出ました。そこには「篤」の名も刻まれていたのです。
 篤先生の没後、墓所は東京のどこかだろうと思いこんでいましたが、鶴岡にありました。当然といえば当然ですが、驚きでした。
 ここまでにします。

 
  高く
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No.92 新発田市

2024-02-26 23:35:05 | 旅行

       タイサンボク:長岡市の悠久山公園で(新発田市でも見ました)
         朴より花弁が丸く、葉が厚い
 私が旅行に出るのは、見たいものや行きたい場所ができたときです。ですから、お目当てははっきりしています。しかし、それだけです。あとは行き当たりばったりで、どうやって行くか、どこを通って行くか、宿はどこにするか・・・。行って困ってから決めます。
 何回か外国へ行ったことがあり、飛行機に乗りました。飛行機は予約が必要ですから予約しましたが、同時に万一のために前日は近くに宿も決めました。しかし、あとは基本的に臨機に対応、そのときしだいでした。
 なぜそうかというと、予定を決めていくと、それを意識したり、拘束されるためにほかが視界からはずれたり、散漫になったりするというのが理由です。
 ある時、旧御料農地を見に行って、次のバス時間まで2時間もあるので、座り込んでいたら、パトカーが巡回に来たということもありました・・・。まあ、そういうこともあるさ、です。あちらは、通報があれば巡回せざるをえない。当世、物騒になりましたから。やっぱり、あの戦争や「プー」・「トラ」などのせいでしょうか。 
 要するに無計画ですから、下調べの必要がありませんし、まずしません。代わりに、行った先々でパンフや資料などこれはと思うものが見つかれば、何でももらったり買ったりして帰り、あとからそれを見て再旅行します。それでしまったと思うこともありますが、見たければまた行けばいいと思っています。これは昔からそうで、要するにモノグサなんですね。
 ちなみに、学校の授業の予習などもまずしたことがありません。やってわかちゃったら、知っていることを聞くわけですから、授業がつまらない・・・。
都合のいいリクツですね。
 そういうことですから、ある有名な所へ行ってタクシーに乗った時、運転手と話していて、知らないことを話し出したので、「それは何ですか?」と訊いたところ、「これをご存じなくてきたのですか〔なにしにきたんです?〕」と怒り半分の口調であきれられたことがあります。
 まあ、人がやれることはやってもらうのがいい、自分がやらなければならないことがあるはずだから、その時は自分がやればいい、そう思っています。

 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の作業は、「そういう私の産物」です。
 当世の出版事情のもとで、「自分の存命のうちに陽の目を見ないかもしれないけど必要な作業だ」と思って続けられたのは「生来の気質」からです。そもそも楽しかった。
 わが道を行けばいいと思う人には「おすすめのやり方」と思っています。

 今日はここで止めてもいいくらいですね。でもここからです。

 長岡で悠久山公園を見て、泊まろうかと思って立ち寄った国民宿舎の管理人が留守でした。それで、長岡駅に戻ってみました。
 駅で、まだ実現していない「直江津ー佐渡」をやろうかと思い立ってミニサイクルを組み立ててしばらく漕ぎましたが、もう暑い。おまけに、かつての8段切り替えとは速度もまったく違う。これでは無理とあきらめ、まだ日が高いので、駅で時刻表を見ると「北越号新潟行」というのがあることがわかり、飛び乗って新潟へ出ました。

 新潟駅で、「新潟ー佐渡もアリだな」と考えていて、「大人の休日倶楽部」を利用してきたことを思い出しました。「行けないことはないが、券の有効期間が終わってしまうから駄目だ」と考えなおして時刻表を見ると、新発田行がありました。「よし、OK!」と決めて飛び乗ると、直に新発田駅に着きました。

 新発田はずいぶんあちこち歩きました。そのため説明が手間なので、ここは一番、順不同・「落穂ひろい方式」で行きます。

(1)蕗谷虹児記念館
   
   中もおしゃれ。。

 (2)大倉喜八郎生誕の地
 新発田市は大倉喜八郎の出身地でした。
 到着して街を歩いていて、「そうだった。一度は来たいと思ってた」と・・・。
   
    生誕地の碑
 それから、大きな胸像がありました。午後のため、かげってます。
 街の功労者としても顕彰されています。公園もありました。
   
    大倉喜八郎胸像
 (3)あやめ園
 ここから翌日です。
 宿のご主人が「あやめ園がちょうど開園しています。ちょっと遠いでけど、自転車ならいけます。時間があるならぜひ」と勧めてくれたので行って来ました。
 奥の方までずっと広がっていて見ごたえがあり、近くに池もあって、弁当を食べに行くに絶好と思いました。
 
 
        いずれがあやめかかきつばた・・・あやめ園の一角
 
 (4)新発田城
 まだ開場〔開城?〕前でした。ザンネン。
 

 (5)佐藤六石〔さとうりくせき〕の碑文
  不勉強でこの人のことを知りませんでした。

     
 
 (6)清水園
  駅前の観光案内所でもらったパンフを見て行ってみました。
  庭園に関心のある方は検索してみてください。素人ながら一見の価値があると思います。   
  これについては、ほかの写真があるので「落穂ひろい」の時に乗せる予定です。
 
       清水園:いいですねえ。、撮り方も・・・

  今日はここまで。

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No.91 渡辺廉吉

2024-02-25 23:57:11 | 勝記日記
  
 24回目(12月19日)に同じ場所で撮ったのを載せました

 コロナの前、新潟から日本海沿いに北上してみることにして、まず長岡市を尋ねました。
 この時、昨日書いた運送会社のことについて、記憶をたどってみましたが、半世紀以上がたっている町並みをみても手掛かりは何もなく、あきらめて直ちに渡辺廉吉の記念館を尋ねることにしました。

 渡辺については、『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の「人名録」に挙げておきました。また、没後の大正14年2月16日の項に神足の「感慨」も出ていますから、ぜひご覧ください。

 渡辺は、嘉永7(1854)年に長岡で生まれ、大学南校で神足らと出会い、ともにドイツ語の部で学びます。その後は分かれて、行政・法制・政治の方に進んで活躍し、貴族院議員もつとめますが、不幸にして事故で亡くなります。
 
 渡辺の記念館は、長岡市御山町の「長岡市郷土資料館」にあります。JR長岡駅から東南方向に直線距離2kmちょっとのところにある悠久山公園の中にあります。記念館はお城の形をしていたような記憶があります。近くに長岡大学とあるのが見えますが、正確には「Map悠久山」で検索してみてください。

 館内には渡辺の遺品が展示されていました。
 写真左の「記念碑の置物」が渡辺の記念碑の模型です。下にその碑文の写真を挙げておきましたからご覧ください。ほかは渡辺の著書や身の回り所持品です。

 私が注目したのは、次の日記です。
 神足が日記を書き始めるのは明治6年からですが、渡辺は上京する明治4年9月から日記をつけていて、それを神足が借りて読んだことが出て来ます。残念ながら、初期のことなので、上記の『神足日記』ではその部分は割愛しましたが、神足がなぜ書き始めたのかはどこにも書いてないので、それを考えるためにも、ぜひ渡辺のもの〔後の人の筆写〕を見たいというのが訪れた理由でした。
 もちろん、現在は『渡辺廉吉日記』(小林宏・島義高・原田一明編)で翻刻されていますから読むことができますが、原本の所在が分からず、「この日記〔下の写真〕はすべて後人が筆写したもの」(上記『日記』の「解題」456ページ)です。


 郷土資料館を出て、公園の北の方にある渡辺の碑を見ました。
 全体を写したものは判読が難しいので、部分ですがこれをご覧ください。


 渡辺廉吉の碑
 公園を出てあちこち周辺も歩きました。
 レストランの庭付近に見えたのが上の花です。ねむの木でしょうか、よくわかりません。おそらく、この時初めて実物を見たのだろうと思います。
 何とも言えず繊細な感じを受けました。
 それから近くの池の脇で休んでいると、オカリナを吹いているのが聞こえてきて、ゆったりとした気分を味わうことができました。

 最後になりましたが、神足は明治19年9月に長岡に巡回に訪れています。そして、東の奥只見に入り、「八十里越」から只見町に入り、桧枝岐に向かい、さらに会津駒ケ岳に上り、降りて尾瀬に入ります。そして、尾瀬を抜けて群馬・伊香保へと巡回を続けました。
 今日はここまでとします。
 




 
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No.90 周遊

2024-02-25 00:08:55 | 余録
  朴:まだ蕾 
 1966年夏、8月私は自転車で新潟・長野を周遊に出ました。
 周遊というと聞こえがよいですが、手持ち資金が1500円しかなくて2泊3日を過ごすという野宿の旅です(アルバイトの時給が200円前後の時代です)。宿泊を予定しない、ともかく行って帰ってくるというだけの夢中の旅行でした。
 実は、これより前、高校に進学して八高線で通学することになり、駅までのアシとして自転車を新調することになりました。その際、普通の自転車ではなく、8段切替〔前2段✕後4段〕でドロップハンドルの自転車を買ってもらっていました。
「え! 思い立った理由?」
「セイシュンですよ」。


 ろうばい
 細かいことはまたいつかにして、行程だけ書きます。
 1日目:
 藤岡―前橋ー渋川ー沼田ー月夜野ー赤谷湖ー三国トンネルー二居トンネルー湯沢ー小出ー小千谷ー長岡
 感想:
 赤谷湖あたりが苦しかった~。
 三国トンネルを潜ったら、異郷へ来たことを思い、腹がすわりました。
 湯沢の辺りの眺望がよかった~。
 長岡へは暗くなって着いて、夜中に居ても怪しまれないところを探しました。
 結局、どこか不明ですが、運送屋のトラックの荷台に寝ました。
 ところが、寝付いたころ「プ~ン・プ~ン」と攻撃が始まって、追っては眠り、やられては起きての繰り替えしの末、「無事に」夜が明けました。

 2日目:
 長岡ー柏崎ー姉崎ー上越(高田―新井〕ー妙高ー野尻湖ー信濃町ー豊野ー長野ー更埴―坂城―上田
 感想:
 長岡を出て、田中角栄で有名となった「河川敷はどこか」と思いながら柏崎を目指し、佐渡へ行くフェリーの発着場に着きました。
 時間はあるけど手持ち不如意。乗降改札扉前で「いつか又来る」と決意して方向転換しました。
 もちろん「糸魚川へ行っちゃおうか」とも思いましたが、「理性」に勝てませんでした。
 妙高高原の辺りではひどい雨。坂道を登りながら転倒し、指先を車が通過して行きました。
 ナウマンゾウ発掘の野尻湖脇を通過、長野に入っても何も見ることなく、上田に着。
 上田では、長岡の経験を生かして?蚊が来ないところを探し、結局、駅の待合所の端っこに居ることにしました。快適でした。
 「御恩、forever! いまも忘れてません。」

 ちなみに、先年「上田に戻りたい」と学生が相談に来たので、無事に送り込みました。
 「元気でやっている」旨の報告を得ています。
 苦労した分だけ、私の指導力はたいしたもんです。(自画自賛)

 3日目: 
 上田ー小諸ー御代田―軽井沢ー碓氷峠ー松井田ー安中―富岡―吉井―藤岡
 感想:
 上田を出て、御代田の登りが苦しかった~。
 軽井沢は通過しただけ。碓氷峠はいまの旧道で、例の信越線の橋梁などを見ながら、なおかつ落石とダンプの通行を気遣い、自転車のブレーキがバカになるのを注意しながら無事下りました。

 なにかをやるときに、カッコから入る人がいます。余裕があるからできることなので、うらやましいといえばうらやましいことですが、私はそういうことがまずありません。思いついたら、あり合わせでまずやってみる。ですから、ときどきエラク場違いな感じの時があります。
 自分でいうのもナンですが、このブログもそうではありませんか。
 
 この時の周遊は、その後の自分の行動様式を象徴しているように思います。
 つづきは明日に。


 孫譲りの元首




 
 
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