神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

勝記の母とその日記

2023-11-28 23:02:23 | 清寿院日記

勝記の母と日記

神足勝記の母伊喜             伊喜の日記

 『御料局測量課長 神足勝記日記-林野地籍の礎を築くー』(日本林業調査会 J-FIC)の昭和6年11月24日の項に、勝記の『回顧録』から「先妣五十年回忌に際して」という題した長文の感懐を引用しました。*「妣(ひ)」は「亡き母」です。

 そこには、78歳に達した勝記が、自らの生涯を振り返ってみて、いかに母と姉(久尾)の恩が大きかったかを述べた貴重な証言があります。勝記の日記をずっと読んできたものとして、身につまされる思いで読みました。本書を手にされた皆様にもぜひお読みいただきたいと思います。ここは本書の前史としても役に立つものと思われます。

 そこで今日は「勝記の母伊喜」と「伊喜の日記」の写真を紹介することにしました。

 左の写真の人が勝記の母伊喜です。伊喜は文化9(1812)年6月1日に生まれ、明治15(1882)年11月24日、71歳で亡くなりました。この写真の撮影日は明治15年8月20日が有力です。これは、次にあげる日記に「阿たこ(愛宕)下町に而(て)しゃしん」とあるからです。つまり、亡くなる3か月前の写真ということになります。なお、姉久尾の写真はこれまでのところ発見できていません。

 写真右は伊喜の日記です。表紙は、中に「日記」とだけ書かれた元々の表紙があるのですが、「五十年回忌」に集まった家族に紹介するために、見栄えが良くなるように勝記が付けたものです。左端にそのことが書かれています。また、中央の『清寿院殿御日記』とあるのは、勝記がつけた日記名で、「清寿院」は伊喜の仏名(戒名)です。つまり「伊喜殿御日記」ということになります。それから、右側に「明治十年役後十五年十月まで」とありますが、これは日記が書かれた期間です。

 伊喜は、西南戦争に見舞われ、熊本市内にあった家や家財道具一切を失いますが、明治10年2月15日から日記を書き起こし、19日には「大ほふ三はつ、城一へんニ焼け・・・誠ニきふさく」、21日には「熊本城下一も(なんとも)無残やけ(焼け)・・・」などと、短いながら見聞を綴っています。そして、それは上京して亡くなる15年10月11日まで続けられました。

 この最後のあたりは、『勝記日記』64ページに『回顧録』から引用しておきましたが、8月28日に姉久尾が急逝します。その悲報を福井県・富山県への調査巡回中に知らされた勝記は、母の心痛を思うものの、業務途中で帰京するわけにもいかず、奮闘して業務を完成させ、急ぎ帰京しますが、勝記が戻れたのはようやく11月23日で、母はその翌日24日に亡くなります。

 『清寿院殿御日記』からは、西南戦争下の熊本でつましくたくましく生き抜く伊喜や久尾らの生活人の姿、勝記からの手紙を心待ちにし、こまめに返事を送る母の姿、世情や神仏へ崇敬の念などまでよく知ることができます。また上京後は、手仕事をしながら勝記を支え、都会のあわただしい生活に順応してく様子がうかがえる重要な記録となっています。下級武士の妻・女性の教養の高さをうかがい知ることもできる貴重な記録でもあります。

 なお、この日記は反古・裏紙を使って書かれていて、判読に非常に苦労しましたが、すでにほぼ読み解き終わり、注記も終えています。そして、某図書館に寄託申請中でもあります。いずれお目にかけることができる日が来ることと思います。乞うご期待。

 

 

 

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