上の写真は私がお借りした時の日記の一部です。また、右の写真の右端の人が学生時代の勝浩氏です。ほかの方は不明。時期も不明ですが、学生時代の実習時のものです。
上條武『孤高の道しるべ』(銀河書房)の口絵に日記ほかの文書が掲載されています。それを見て私もぜひ読んでみたいと思い立ち、2004年7月、当時健在だった神足勝浩様にお願いしました。お会いすると、私よりやや小柄と見えましたが、弓道をやられたこともあり、がっちりとした体格の温厚な方でした。当時88歳でした。
今回、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く―』の刊行を関係者にお話しすると、やにわに「神足勝浩さんと関係あるの」と聴かれたので、「祖父。おじいさんですけど、事実上の育ての親です」と答えると、驚かれました。
今回は少しだけ勝記と勝浩(敬称略)の関係について書くことにしましょう。
勝浩は、大正5年9月26日、勝記の子の勝孝と母静子(旧姓草間)の第1子として生まれ、のち昭和16年6月東京帝国大学農学部林学科を卒業します。そして、同9月に帝室林野局旭川支局業務課計画掛に技手として採用され、戦後は農林省で林野業務に従事したのを手始めに林業界・海外技術協力で働き大きな功績を残し、現在でも当時の関係者が活躍されています。
勝孝は海軍で火薬研究をしていた研究職の軍人です。当時は呉に赴任していました。のちに海軍中将になり、終戦を迎えます。ちなみに、勝孝は昭和12年~42年・50・52・53年と日記を残しています。私はこれもパソコンに整理しながら読みましたが、日々の記述は少ないながら、戦前・戦後の軍人と元軍人の動向がわかる興味深いものと思われました。
一方、静子は草間時福の子です。時福はのちに錦鶏間祗候になり、『天葩詠草(てんぱえいそう)』(大正15年。未見、国会図書館にはあり)という歌集もある人です。寺崎修「福沢門下の自由民権運動家:草間時福小伝」によれば、自由民権家の顔を持つ人です。それかあらぬか、静子の兄時光は、戦前に京橋区長・日本橋区長・大森区長・大政翼賛会役員、戦後は鎌倉市長を務め、水原秋桜子に師事しているそうです。なお、「時福」に「ときよし」とルビが振られているのを見たので、勝浩氏にお会いした時に、念のために読み方を伺うと、怪訝そうに「じふく」と答えられました。この是非はわかりません。
さて、勝浩にはのちに妹由喜子さんができ、4人で呉で生活していました。ところが、大正8年1月になって静子さんの体調がすぐれなくなり、上京して勝記の同窓生の佐藤三吉博士の診断をうけ、手術してもらったところ、すでに末期の大腸がんと判定されてしまいました。(この辺りの詳細も元の『勝記日記』には書いてありますが、涙なしには読めないばかりか、苦しいばかりなので、今回の『日記』では伏せました。)
勝記の家族が近代医療を信じていなかったはずはないですが、勝記の日記に「勝孝より、熊本人、気合術にて病気を治癒せしむるあり、問い合わせたきと申し越す」とか、「タキ、目黒占考者に至り、静子病気占考す。凶占。」といったことまで出てきます。しかし、そうした家族の思いも虚しく4月16日に静子は亡くなります。
その後、勝孝が横須賀勤務になります。そして再婚してしばらくは一緒に生活していましたが、再び呉勤務なって移っていくことになると、勝浩は神足家の跡取りとして勝記・妻多喜・五女佐賀子のもとに残されました。そうなると、父親役は勝記、母親役は小回りの利く佐賀子になりました。(細かいことは略します。)
この時期の勝記の日記には「わが子の躾方叢書の内、未購入の『家庭復習の方法』・『説諭の仕方』・『愛児入学前の用意』・『入学後父兄の用意』・『愛児の学力を進むる工夫』を坂本商店より届く」などという記述がみられ、まさに親代わりの準備を図っていたことがうかがえます。勝記は、親が近くにいないことが孫勝浩に及ぼす影響を絶えず心配して接していました。
その後、勝浩が9歳になった大正14年11月に佐賀子が結婚し、13歳になった昭和5年2月に多喜が亡くなると、勝浩の子育ては一気に勝記の肩に掛かってきました。勝記は佐賀子さんにしばしば手紙を書いて相談し、勝浩の担任とも相談しながら乗り切っていきました。もちろん、親戚や知人のほか、お手伝いのイシさんなど面倒を見てくれる人もいましたが、勝浩は頼りたい時期に親がいないまま思春期を経ていったわけです。
そうして勝浩が成人式を迎えたとき、勝記は「顧みれば20年、殊に御許が慈母に離れしより以来、祖父は一心不乱御許の生長に没頭苦慮せし甲斐ありて、面あたり今日の盛儀を視るに至りしことは此の上なき欣幸の次第なり。尚、此の慶ひを同ふする佐賀叔母保育の恩恵も亦鮮からさるものあり。永く胸奥に記憶されんことを望む。歓喜の余り茲に一言す」と祝の言葉を呈しています。なお、勝記は佐賀子が結婚するとき、「甲路号5分利公債証書(5,000円)を勝浩扶育の報酬として給付す」といって与えてます。
佐賀子はのちに勝記からの手紙を勝浩は見せてます。それもあり、勝浩は勝記の思いをよく理解したはずです。だから、勝記に興味を持つ私が、毎年の日記を整理して送るたびに親しみをもって長い電話をくださったのだと思うのです。私にとって勝浩氏は父親のように思えました。