神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

勝記と勝浩

2023-11-30 16:47:48 | 勝記日記

 

 

 上の写真は私がお借りした時の日記の一部です。また、右の写真の右端の人が学生時代の勝浩氏です。ほかの方は不明。時期も不明ですが、学生時代の実習時のものです。

 上條武『孤高の道しるべ』(銀河書房)の口絵に日記ほかの文書が掲載されています。それを見て私もぜひ読んでみたいと思い立ち、2004年7月、当時健在だった神足勝浩様にお願いしました。お会いすると、私よりやや小柄と見えましたが、弓道をやられたこともあり、がっちりとした体格の温厚な方でした。当時88歳でした。

 今回、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く―』の刊行を関係者にお話しすると、やにわに「神足勝浩さんと関係あるの」と聴かれたので、「祖父。おじいさんですけど、事実上の育ての親です」と答えると、驚かれました。

 今回は少しだけ勝記と勝浩(敬称略)の関係について書くことにしましょう。

 勝浩は、大正5年9月26日、勝記の子の勝孝と母静子(旧姓草間)の第1子として生まれ、のち昭和16年6月東京帝国大学農学部林学科を卒業します。そして、同9月に帝室林野局旭川支局業務課計画掛に技手として採用され、戦後は農林省で林野業務に従事したのを手始めに林業界・海外技術協力で働き大きな功績を残し、現在でも当時の関係者が活躍されています。

 勝孝は海軍で火薬研究をしていた研究職の軍人です。当時は呉に赴任していました。のちに海軍中将になり、終戦を迎えます。ちなみに、勝孝は昭和12年~42年・50・52・53年と日記を残しています。私はこれもパソコンに整理しながら読みましたが、日々の記述は少ないながら、戦前・戦後の軍人と元軍人の動向がわかる興味深いものと思われました。

 一方、静子は草間時福の子です。時福はのちに錦鶏間祗候になり、『天葩詠草(てんぱえいそう)』(大正15年。未見、国会図書館にはあり)という歌集もある人です。寺崎修「福沢門下の自由民権運動家:草間時福小伝」によれば、自由民権家の顔を持つ人です。それかあらぬか、静子の兄時光は、戦前に京橋区長・日本橋区長・大森区長・大政翼賛会役員、戦後は鎌倉市長を務め、水原秋桜子に師事しているそうです。なお、「時福」に「ときよし」とルビが振られているのを見たので、勝浩氏にお会いした時に、念のために読み方を伺うと、怪訝そうに「じふく」と答えられました。この是非はわかりません。

 さて、勝浩にはのちに妹由喜子さんができ、4人で呉で生活していました。ところが、大正8年1月になって静子さんの体調がすぐれなくなり、上京して勝記の同窓生の佐藤三吉博士の診断をうけ、手術してもらったところ、すでに末期の大腸がんと判定されてしまいました。(この辺りの詳細も元の『勝記日記』には書いてありますが、涙なしには読めないばかりか、苦しいばかりなので、今回の『日記』では伏せました。)

 勝記の家族が近代医療を信じていなかったはずはないですが、勝記の日記に「勝孝より、熊本人、気合術にて病気を治癒せしむるあり、問い合わせたきと申し越す」とか、「タキ、目黒占考者に至り、静子病気占考す。凶占。」といったことまで出てきます。しかし、そうした家族の思いも虚しく4月16日に静子は亡くなります。

 その後、勝孝が横須賀勤務になります。そして再婚してしばらくは一緒に生活していましたが、再び呉勤務なって移っていくことになると、勝浩は神足家の跡取りとして勝記・妻多喜・五女佐賀子のもとに残されました。そうなると、父親役は勝記、母親役は小回りの利く佐賀子になりました。(細かいことは略します。)

 この時期の勝記の日記には「わが子の躾方叢書の内、未購入の『家庭復習の方法』・『説諭の仕方』・『愛児入学前の用意』・『入学後父兄の用意』・『愛児の学力を進むる工夫』を坂本商店より届く」などという記述がみられ、まさに親代わりの準備を図っていたことがうかがえます。勝記は、親が近くにいないことが孫勝浩に及ぼす影響を絶えず心配して接していました。

 その後、勝浩が9歳になった大正14年11月に佐賀子が結婚し、13歳になった昭和5年2月に多喜が亡くなると、勝浩の子育ては一気に勝記の肩に掛かってきました。勝記は佐賀子さんにしばしば手紙を書いて相談し、勝浩の担任とも相談しながら乗り切っていきました。もちろん、親戚や知人のほか、お手伝いのイシさんなど面倒を見てくれる人もいましたが、勝浩は頼りたい時期に親がいないまま思春期を経ていったわけです。

 そうして勝浩が成人式を迎えたとき、勝記は「顧みれば20年、殊に御許が慈母に離れしより以来、祖父は一心不乱御許の生長に没頭苦慮せし甲斐ありて、面あたり今日の盛儀を視るに至りしことは此の上なき欣幸の次第なり。尚、此の慶ひを同ふする佐賀叔母保育の恩恵も亦鮮からさるものあり。永く胸奥に記憶されんことを望む。歓喜の余り茲に一言す」と祝の言葉を呈しています。なお、勝記は佐賀子が結婚するとき、「甲路号5分利公債証書(5,000円)を勝浩扶育の報酬として給付す」といって与えてます。

 佐賀子はのちに勝記からの手紙を勝浩は見せてます。それもあり、勝浩は勝記の思いをよく理解したはずです。だから、勝記に興味を持つ私が、毎年の日記を整理して送るたびに親しみをもって長い電話をくださったのだと思うのです。私にとって勝浩氏は父親のように思えました。

 

 

 

 

 

 

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神足勘十郎と勝記の写真

2023-11-29 19:41:41 | 勝記日記

 神足勝記は熊本藩の貢進生として上京した人としても知られています。

 勝記が藩よりその内命を受けたとき、母は「進んて奉命の意あり」でしたが、しかし「親戚一同か異議を唱へし為め、やや躊躇の色ありしも、神足勘十郎氏の懇切なる賛奨に因り、先妣は意を決し、衆議を排して敢然命を奉し、勝記を上京せしめたり」(『回顧録』)と書いています。

 のちの勝記を知れば、母の決意は勝記にとって感謝してもしきれなかったことがよく理解できます。そして、その母の決意を促した勘十郎の存在も大きかったと言わなければならないでしょう。

 上の写真は、昨日の母伊喜の写真と同様、神足勝文様より借用した文書類の中の封筒に小分けして入っていたものです。封筒には「神足勘十郎」とあるのみですが、左の人が「神足勘十郎」です。右は誰かというと、封筒に「神足勘十郎」の写真が入っていることがわかればよい人、あえて名前を記すまでもない人、つまり所持者「勝記」です。

 神足勘十郎は、西南戦争で熊本城に籠城して戦死した「神足大警部」として知られた人で、西南戦争に関するたいがいの本に書かれる有名人です。勝記は、定年後の昭和4年に、自分の日記から「神足勘十郎氏に関する自分日記抜粋」をおこない、また「明治十年役警視隊熊本籠城日注抜記」などを作って勘十郎の事歴を書き残す作業をしています。ここではこれを略しますが、勝記は勘十郎を評して「父の如し」(『勝記日記』6年9月1日)と言い、「剛毅実直の士にして実学派米田監物・横井平四郎・津田山三郎等と交り、常に勤王開国を主唱し、維新の際、夙に洋式軍隊の修練に努め、因循姑息の群議を排して坪井党の士気鼓舞に努力せり」(『神足家系録関係(家族親族事歴)』と書き残しています。

 上の写真の撮影時期は不明です。封筒に記載がなく、勝記日記にも見つからないからです。服装を見ると、勘十郎は正装にも見えますが、勝記は平服ですから、勘十郎が思い立って撮影を言い出したということでしょうか。

 勘十郎が上京するのが明治6年。その後何回か熊本へ帰省していますが、大きな別れとなるのは、明治9年の熊本神風連の乱と10年の西南戦争の2回です。しかし、どちらもゆっくりと別れを惜しんだ気配がありません。いま、とくに根拠はありませんが、10年とすれば、勝記は1854年生まれですから、23・4歳ころとなります。それでも、私が知る限り、これが勝記の最も若い時期の写真となります。

 この写真は、勝記の写真としても、勘十郎の写真としても、貴重なものです。なお、劣化対策として撮られたとみられる勘十郎の顔部分だけのコピー写真も入っていました。これも機会がありましたら紹介することにしましょう。

 

 

 

 

 

 

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勝記の母とその日記

2023-11-28 23:02:23 | 清寿院日記

勝記の母と日記

神足勝記の母伊喜             伊喜の日記

 『御料局測量課長 神足勝記日記-林野地籍の礎を築くー』(日本林業調査会 J-FIC)の昭和6年11月24日の項に、勝記の『回顧録』から「先妣五十年回忌に際して」という題した長文の感懐を引用しました。*「妣(ひ)」は「亡き母」です。

 そこには、78歳に達した勝記が、自らの生涯を振り返ってみて、いかに母と姉(久尾)の恩が大きかったかを述べた貴重な証言があります。勝記の日記をずっと読んできたものとして、身につまされる思いで読みました。本書を手にされた皆様にもぜひお読みいただきたいと思います。ここは本書の前史としても役に立つものと思われます。

 そこで今日は「勝記の母伊喜」と「伊喜の日記」の写真を紹介することにしました。

 左の写真の人が勝記の母伊喜です。伊喜は文化9(1812)年6月1日に生まれ、明治15(1882)年11月24日、71歳で亡くなりました。この写真の撮影日は明治15年8月20日が有力です。これは、次にあげる日記に「阿たこ(愛宕)下町に而(て)しゃしん」とあるからです。つまり、亡くなる3か月前の写真ということになります。なお、姉久尾の写真はこれまでのところ発見できていません。

 写真右は伊喜の日記です。表紙は、中に「日記」とだけ書かれた元々の表紙があるのですが、「五十年回忌」に集まった家族に紹介するために、見栄えが良くなるように勝記が付けたものです。左端にそのことが書かれています。また、中央の『清寿院殿御日記』とあるのは、勝記がつけた日記名で、「清寿院」は伊喜の仏名(戒名)です。つまり「伊喜殿御日記」ということになります。それから、右側に「明治十年役後十五年十月まで」とありますが、これは日記が書かれた期間です。

 伊喜は、西南戦争に見舞われ、熊本市内にあった家や家財道具一切を失いますが、明治10年2月15日から日記を書き起こし、19日には「大ほふ三はつ、城一へんニ焼け・・・誠ニきふさく」、21日には「熊本城下一も(なんとも)無残やけ(焼け)・・・」などと、短いながら見聞を綴っています。そして、それは上京して亡くなる15年10月11日まで続けられました。

 この最後のあたりは、『勝記日記』64ページに『回顧録』から引用しておきましたが、8月28日に姉久尾が急逝します。その悲報を福井県・富山県への調査巡回中に知らされた勝記は、母の心痛を思うものの、業務途中で帰京するわけにもいかず、奮闘して業務を完成させ、急ぎ帰京しますが、勝記が戻れたのはようやく11月23日で、母はその翌日24日に亡くなります。

 『清寿院殿御日記』からは、西南戦争下の熊本でつましくたくましく生き抜く伊喜や久尾らの生活人の姿、勝記からの手紙を心待ちにし、こまめに返事を送る母の姿、世情や神仏へ崇敬の念などまでよく知ることができます。また上京後は、手仕事をしながら勝記を支え、都会のあわただしい生活に順応してく様子がうかがえる重要な記録となっています。下級武士の妻・女性の教養の高さをうかがい知ることもできる貴重な記録でもあります。

 なお、この日記は反古・裏紙を使って書かれていて、判読に非常に苦労しましたが、すでにほぼ読み解き終わり、注記も終えています。そして、某図書館に寄託申請中でもあります。いずれお目にかけることができる日が来ることと思います。乞うご期待。

 

 

 

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日記の編纂

2023-11-27 03:24:47 | 勝記日記

 神足勝記は明治6年から日記を書き始め、晩年の昭和12年まで(この間の明治24・27年を除いて)ずっと日記を書いてました。もちろん、何も書いてない日や天気しか書いてない日もあります。それから『回顧録』も残しています。

 60年分もありますから、本箱の2段分を軽く超えます。しかし、残念ながら『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く―』にその全部を載せることはできませんでした。

 私は、一時期、『日記』の量は膨大だが『回顧録』ならコンパクト(手頃)な1冊となるとみて、この刊行を考えたことがありました。しかし、『日記』の内容を知っているだけに、『回顧録』だけではもったいないと思わざるを得ず、考えを変えました。もちろん、両方は諸事情が許しません。そこで、日記をいくらか圧縮したものを本体とし、これを「回顧録」で補う方法をとることにしました。

 たとえば、『日記』の明治6年から24年の御料局入局までを全部削りました。というのは、ここだけでも優に1冊になるくらいの量があり、もし入れるとすると1000ページを軽く超える大著になってしまうことがわかったからです。

 ここには西南戦争・母姉の上京・熊本人の交友のほか、のちに各界のトップになる錚々たる人々の若き姿が記されていますから貴重なのですが、残すには量が多く、かといって『回顧録』には「何年入学」というような履歴しか書いてありません。そこで、勝記が折々に回顧する場面が『日記』にも『回顧録』にも出てきますから、そこを残すことにしました。

 一方、御料局入局前の地質調査所時代に勝記自身が全国を跋渉・踏破したことを記したところがありますが、ここは歴史的事実としても重要なところなので、『日記』は後日を期して削る代わりに、幸い『回顧録』に簡潔にまとめられているので、これでまとめることにしました。まあ、いろいろと「改竄(かいざん)」したわけです。

 それだけでなく、御料局の測量事業解明のために、この日記によりそって関連事項を注記し、関連資料を掲載しました。その多くは専門研究者でもめったに見られないものです。読者に媚びることはしませんでしたから、煩瑣をいとわずお読みくださるようにお願いいたします。

 今日は「ブログ練習その2」です。

 ところで、写真の鳥、長いこと何かをじっと見てました。

 

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はじめに

2023-11-26 04:13:37 | 勝記日記

 神足勝記を追ってかれこれ20年。このたび『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』(日本林業調査会)から刊行することになりました。

 神足勝記については、上条武『孤高の道しるべ』(銀河書房、昭和58年)で取り上げられていますから、ご存じという人も多いと思われます。私もずいぶん読みました。言うまでもなくこの本は労作で、今日では得難い聞き取りなども含まれていて貴重ですが、残念ながら、神足の業績や生涯についていえば、ごく一部が書かれているにすぎません。ぜひ日記から直に全容を知っていただきたい、そう願っています。

 このブログでは、『神足勝記日記』をまとめるにあたって知ったこと、考えたことを「落穂拾い」として1つずつ紹介します。内容は思いつくままに(順不同)とします。いくらかは雑談や私の趣味も入れることにしましょう。

 まだブログの取り扱い方法に慣れていませんから、今日は「練習その1」です。

 ところで、この写真の花どうですか。じつに堂々として、「どこでも咲けるよ」と、そう言っているように見えました。

 

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