神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.215 「私は先生」のその後

2024-06-28 22:28:01 | 辞書

(1)きのうの「私は先生」から何年かして法政大学通信教育部の兼任講師となりました。これから後、20くらいの大学で教壇に立つ機会がありましたが、これだけは断られない限り続けることにして、停年まで35年間?務めました。
 法政通教は、恩師の宇佐美誠郎先生、その恩師の大内兵衛先生とずっとつながっていて、ここで担当できることを誇りに思っていました。

(2)しかし、35年もやっていると、最初の10年くらいと、あとの10年でははっきり雰囲気が違いました。
 最初の頃は、私がまだ若く、研究蓄積も少なかったので準備が大変でした。
 一方、学生は中高年の比率が圧倒的に高く、前の方から後ろへと、指定したわけでもないのに、年齢層順に座っている印象でした。実際、訊くと、最前列は元小中学校の先生とか、自分の祖父母くらいの人でした。
 しかし、私の場合、恩師がすでに高齢だったので、先生に話すつもりで接していたので気後れすることもなく、というよりも、「昔の小学校しか出ていない祖母でもわかるように」というのを念頭に話していましたから、マイクを使うときは、一番前の高齢学生と一番後ろの青年学生に「聞こえますか」と訊き、板書は、同じく、「見えますか」と、むしろ楽しくやってました。

(3)しかし、後半の10年くらいになると、高齢層よりも青年層が大きな比率を占めるようになりました。学び直しとか、かつて勉強する環境になかった人とか、遠隔地の人が勉強する機会としての通信教育から、学費や通学問題などの関係もあってか、普通の4年制大学の代わりとして選択されるようになりました。
 そして、2020年のコロナ蔓延以降、4年生大学での授業のオンライン化が進んでくると、それより前からオンライン化に取り込んできていた通信教育が見直され、最近はまた少し様相が違うようです。
 私は、55歳から10年間オンライン授業を1科目担当しました。そして、さらに10年(75歳まで、しかも今度は2科目の担当)を打診されましたが、オンラインの授業は便利で賛成ながら、自分の科目にとっては機動性に欠けるので適さないのと、どんどん機械化していく授業に対応するのは「この先は無理」と判断して、定年で辞めることにしました。

(4)ほかのところも含めて、今はもう「私は先生」ではなくなりました。

    

(5)思い出話を一つしましょう。
1.たとえば、通信教育の1週間のスクーリング授業の成績は試験判定です。
 その試験について、まず間違いなく学生が質問に来ます。
 「試験は、穴埋めですか、筆記ですか。」
 「筆記です。」
 「持ち込みは可ですか、不可ですか。」
 「可です。」
 「何でも可ですか。」
 「可です。」
 「ノートも教科書もですか。」
 「自分のものなら何でも可です。
  ただし、外と連絡が取れるパソコンなどの機器はほかの人の迷惑になるので不可です。」
 「・・・。」
 「自分のものだから、下書きを作ってきてもいいですよ。」
 「問題は1問ですか。」
 「1問です。」
 「・・・。」
 
2.こういう会話がメンドウなので、あるときから、履修要綱に「試験は持ち込み可」と書き、スクーリング開始の時にも、あらためてそれを言い、なおまた、
 「問題は1問、「この1週間にやったこと考えたこと」です。」
 と教え、そして、
 「自分のものは何でも持ちこんでいいです。でも、試験時間は60分しかありませんから、しっかりまとめておかないと、1週間分をまとめるのは大変です。授業の賛否は書いてもよいですが、むしろ要りません。聴いてわかったことをまとめてください。」

3.といって、どうなったと思いますか?
 「持ち込み可」とわかると安心して、のんびりという人が結構いますね。
 「この1週間にやったこと考えたこと」ですよと言っているのに、そのまま出すとは思わなかったということもあるかもしれませんが・・・。

4.ところが、中には「考えたこと」の方に注目して、
 「自分は自動車が好きで、1週間ずっとそれを考えていたので、それを書きます・・・」
 というのがありました。
 読むと実に詳しかったですが、私が自動車のことを話せるわけはありませんから、「テーマ〔設題〕に合っていない」と判断しました。

 まだまだ、ほかのところのこともあります。
 きょうも脱線しました。では。

   
   ギンリョウソウ:日ノ出山北尾根
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No.188 私的所有の否定

2024-06-01 23:04:50 | 辞書
    〽空の広さを~ 雲の行くヘを~ 知り~た~い~

(1)きのうまでの「2つの私的所有」の違いをわかっていただけましたか。
 「自分の労働に基づく私的所有」で成り立っている経済社会のままでは、近代資本主義経済社会は成り立たちません。ですから、開拓時代の、初期のアメリカでは、雇われる人を作り出すために、ヨーロッパから来た移住者をすぐには西部に行かせまいとする政策が唱えられたりしたわけです。
 もちろん、「自分の労働に基づく私的所有」=小経営(個人経営)は現在も存在していて、たとえば、町の商店などはいまも重要な役割を果たしていますし、農業なども、「農家」というように小規模経営で、アメリアのような大規模資本主義経営ほとんどありません。
 しかし、社会経済の主要部分からは淘汰されて無くなり、経済の中心には自動車・鉄鋼・金融などののように大経営=「他人の労働に基づく私的(資本主義的)所有」が座っています。

(2)繰り返すと、歴史的には「前者」の墳墓の上に「後者」が築かれました。
 ヨーロッパでは、15・6世紀から徐々に本源的蓄積のその動きが始まり、1800年頃の産業革命を経て本格的な大規模経営としての資本主義になりました。
 日本では、明治15年頃の松方財政でとられたデフレ財政政策からその動きが始まり、明治期を経て大規模経営の資本主義が出来上がりました。

   
    小さくてもシック  

(3)この場合、大事なことは、この転換が一度におこなわれたのではなく、資本主義(=大規模経営)への動きが、小規模経営を淘汰してきたということです。
 ちょっと、最近の例をあげますと、歴史的時期も条件も違いますが、似た例として、コンビニができたり、スーパーやデパートができると小さな商店が、お客を奪われてしまうために廃業に追い込まれるということがあります。
 なにが言いたいかというと、同じ私的所有でも、2つの私的所有は敵対していて、前者=「自分の労働にもとずく私的所有」は、後者=「他人の労働に基づく私的所有」によって否定される、後者は前者を否定して成り立ってくるということです。
 これは大事なことです。
 よく「社会主義が私的所有を否定する」という事が言われますが、それよりも前に、実は資本主義こそが私的所有を否定して成り立ってくるということです。「大規模経営である資本主義的私的所有」は、「小規模経営である私的所有」を否定して成り立ってきたということです。

(4)つまり、社会主義が私的所有を否定するよりも前に、資本主義が私的所有を否定して成り立ってくるということです。
 ところが、いまの日本や世界のように、資本主義自体が自らの存在を疑問視させるような事態を引き起こしてきています。自分で自分を否定する材料を作り出してしまっています。だから、改革とか変革とかが言われるようになるわけです。

   
    アジサイの上に見えるのは蝋梅の実

(5)前に、生は死を射程に入れる・・・といいました。
 これは、ここでは、資本主義の始まり(出生)は資本主義の終わり(死)を射程に入れる(入れている)・・・ということです。しかし、どう終わるかも、終わった後の社会も、なにか決まっているわけではありません。それを決めるのは現代に生きる我々だということです。

 最近は、意見を言う人が増えました。苦痛を苦痛とはっきり訴える人が増えました。いままで、そういう人が少なかったですね。だから、いまのような世界や社会になっているんですね。
 たぶん、生命体だって、出生・成長・老化そして死と、淡々と経過しているのではないのだと思います。わかってないだけだと思います。人間の社会のように、あっちに傾き、こっちに動揺し、そのうち、温暖化みたいににっちもさっちもいかなくなって終っていくことになっているのだろうと思います。

(6)違うのは、そして、大事なのは、生命体は死んで滅びますが、人間の社会は死んでなくなるわけではないということです。
 生命体の死は、それ一個の上に起こる不幸ということになります。しかし、社会や世界は行き詰っても死んで滅び去るわけではありません。
 いうまでもなく、「人間社会そのもの」を終わらせるわけにはいきません。終わらせるのは「行き詰った社会経済の仕組み」です。
 行き詰った人間社会をより良いものにする、それは、武器輸出して利潤を上げようとするような利潤一辺倒の資本にはできません。できるのは、勤労者・国民です。
 また、頑張りすぎました。では。

   
    ようやく今年も咲きました


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No.117 思い出すこと 2 

2024-03-22 04:12:12 | 辞書

      
        朴:夕日に映える

 きのう、岩波『ロシヤ語辞典』のことを書きました。
 これは正確には『岩波ロシヤ語辞典 増訂版』(八杉利貞著 1970年 第8刷 1600円)です。ちなみに、1970年の私のアルバイト代は、時給250円で、1日1500円でした。
 この辞書は、語彙数が多く持ち運びも便利なので、長く使いました。
 その記念事項を3点メモします。
 1.内表紙の「娘のじじ」の脇に「1978年夏」とメモが残っています。これは昨日書きました。
 2.79年3月の博士過程の入学試験の準備で使いました。
 実は、このころ先輩のKさんが『ソビエト大百科』のコピーを持ってきて、「意味が取れる程度でいいから、訳してくれ」というので、試験の準備として引き受けました。
 この作業の一部は、のちに「ブハーリン『帝国主義と金融資本主義』」(法政大学大学院『経済学年誌』第22号 1985年)として発表しました。読む人を期待しない、アリバイ作りの発表でしたが、ある先生から「読みました」と電話で慰労されるなど、往時を回顧させる大事な1点となっています。
 3.1980~81年のドイツ留学にも携帯しました。これについてはまたいずれとしましょう。

  

 さて、この辞書のほかに『博友社ロシア語辞典』(昭和50(1975)年 木村彰一・佐藤純一ほか 3500円)が発行されてました。学生向きで説明がていねい、例文が多く、文字もやや大きく見やすい。持ち運びの限界くらいの大きさで、良い辞書です。しかし、できれば語彙がもうちょっとほしい。
 ということで、いざというときには語彙が多い方が助かるので、持ち運び用には岩波版を使っていましたが、だんだんと視力が低下してきたのもあり、家では博友社版を使用し、それで見つからないときは、八杉さんの『岩波ロシヤ語辞典』を引きます。
 このほかに、めったに使いませんが、『岩波 ロシア語辞典』(和久井誓一・飯田規和・新田実編 1992年 7800円)があります。それから、オジェゴフの露露辞典・・・。
 最近はロシア語を使うことがほとんどなく、使ったのはロシア大使館への抗議くらい。もうさびついています。
 
 コロナ蔓延前の2020年ころ、神田の古書店を歩いていたところ、八杉さんの岩波版が、ほとんど未使用なのに、500円で店先に出ていました。それからまたしばらくして、高円寺の古書店で、こんどは300円で出ていました。アア!。

 懐かしさと愛おしさから、どちらも買ってきてしまい、棚に積んであります。ほしい人があれば差し上げます。・・・送料の方が高いかも・・・。 

 いや、ずいぶん自慢をしてしまいました。
 では、本論に入ることにしましょうか・・・。
 う~ん、いや、明日にしましょう。

 〽 あし~たがある~さ あすがある~

 来客がありました。
  

 

 
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