神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.142  これも思い出すこと

2024-04-17 03:48:58 | 先生
      朴:中空に

(1) 昨日の「か行変格活用(か変)」、なんだっけという人もあったことでしょう。
 自慢話になりますが、いまでも活用語の変化などはよく覚えています。
 たとえば、助動詞の種類は「き・けり・ぬ・つ・たり・けむ・たし・・・」、そして「き」の変化は「(せ)・〇・き・し・しか・○」などでした。
 これについては、誰でもそれなりに苦労して覚えるわけです。皆さんの中には、もう思い出すのイヤという人もあることでしょう。もちろん、私も苦労しました。でも、私の場合は、その最初はカルチャー・ショックみたいなことでした。

(2)というのは、富岡中学へ転校して最初の時間がいきなり英語のテストでしたが、国語の最初の時間が文法だったからです。
 転校生して最初は一人一人が新しい先生ですから、どんな先生かと待っていると、50代くらいの、眼鏡をかけて少し禿げ上がった学者風の先生でした。その先生がギッと睨んでから開口一番に言ったのが、
 「付属語で活用があるのは何ですか」
 でした。
 私はチンプンカンプン。キョトンとしてまわりの人を見ました。しかし、だれも手を上げるようすがありませんでした。それを見て先生が、
 「助動詞ですね」
 といって、授業に入りました。
 この件は、自分にとっても懐かしい思い出です。
 ついでに、ほかの例を紹介しましょう。


     来客あり

(3)高校の時に、これも国語の時間のことですが、突然、先生が
 「漢語で、水を形容したものにはどういうものがありますか」
 と問いかけました。
 「さらさら」とか、「ちょろちょろ」とか、こういうふだん使っている「和語」はすぐに思い浮かびますが、「漢語」となるとなかなかないものです。
 そこで私が「滔々」を上げると、一同感嘆の声をあげました。
 でも、この感嘆は、私がスゴイからではなく、当時はほとんど誰でも知っていたことなのに、気付く人がなかったからです。
 当時、「イムジン河」という歌がすでに流行っていてその中で
 「イムジン川水清く 滔々とながる・・・」
 と歌われて、たいがい知っていたはずだからです。
 この歌は、1957年に当時の北朝鮮で発表されましたが、それを1968年に日本のザ・フォーク・クルセダーズが歌ってヒットしたものです。
 なお、今日、検索してみたところ、ずいぶん詳しい経過も書かれていることがわかりましたから、興味がある人は検索してみてください。なつかしいですが、ここでは略します。
 しかし、私が感動したのは、先生が「うーん」と言ってちょっと考えてから「滔々」を黒板に書いて「こうでしたね」と言ったところです。この先生は「高橋?悦治」、通称「えっちゃん」と呼ばれていたかと思いますが、力のある先生で、伊東静雄門下とのことでした。

(4)もう一つ、これは高校の英語の時間のことです。どういう脈絡かは覚えていませんが、河野先生といったか?、先生が「偏見」は英語でなんと言いますか、聞きました。
 これは、すぐにわかりましたから、「prejudice」と即答しました。
 多分、映画にもなった、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見(pride and prejudice)』を読んでいるかと試されたのかもしれません。

   
    朴:葉もよし 

(5)最後に、悲しい思い出です。
 美術の先生、もう名前を忘れてしまいましたが、停年間近の高齢の先生でいつも校庭のバラの絵を描いていて、通称「とおるちゃん」と呼ばれていました。
 ちなみに、とおるちゃんの後任?となって赴任されたのが、富岡中学校でお世話になった井田淳一先生でした。先生は身長が190㎝先生はあろうかという長身で「韋駄天」と呼ばれてました。175㎝の私から見ても見上げるほどの先生が、群馬あたりの古民家をめぐって絵に残す活動をされて知られた人だということを、大学院生になって群馬県立文書館に閲覧に行ったときに展示会のポスタ―を見て知りました。
 話があらぬ方へ行きましたが、先生から見てどうも私は指しやすいようで、突然、「オオサワ、after allってどういう意味だ」と。
 これに即答できず、「結局」に冷や汗をかきました。
 では。
   
    夕照:中神駅
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No.123 レキシコン

2024-03-29 00:45:11 | 先生
 きのうは、雨の日のあとの晴れで、おまけに久しぶりのお出かけとあって、ずいぶんのんびりしました。
 まあ、米軍機が南方から飛来したり、基地から来て旋回したりで、五月蠅〔うるさ〕かった。「三月米軍機」も「うるさい」ものです。
  
 
 ところが、陽気の良さにうかれて、マスクを外したままでいたり、のんびりと弁当を食べていたものですから、夜からくしゃみ・鼻水が始まり、昨日のブログ作成にはかなり難儀しました。その余波は今日も続き、目は赤くなり、終日ウトウトの連続でした。
 というわけで、今日はパソコンの前にすわらず、『レキシコン 1 競争』をずっと読んでました。もっとも、居眠りの時間の方が長かったかもしれません。
  

 表紙が横文字なので、経済畑でない人にはびっくりされたかもしれません。
 No.119で『価値形態論と交換過程論』を紹介しましたが、その筆者の久留間鮫造先生がマルクスの著作から「競争」について書かれた箇所を抜粋して、独自に項目をたてて整理・編纂されたものです。日本語名は『原典対訳 マルクス経済学レキシコン 1 競争』、初版は1968。私のは1971年版です。
 中身は、左ページ独語原文、右ページ日本語訳です。
 ですから、左を読むと眠くなり、右を読んでも眠くなる・・・。オット!

 これをしばらく前から読み直しているのですが、内容は、たとえば次のようなことです。
「資本の数がふえれば、資本家間の競争がふえる。資本の規模が大きくなれば、いっそう巨大な武器をもついっそう強力な労働者群を産業の戦場に率いていく手段が選ばれる。」(95ページ)
 これは、資本は本来的に儲けようとする性質をもっているが、その資本が多数あって互いに競争しているという現実が、資本に「もっと儲けろ、さもないと負けて没落するぞ」と強制するということなどです。
 これ自体は誰でも知っていることですが、ここのところ、ヒマな折に、明治以降の御料地形成と確立の中での当局者の行動を考えるヒントを探せないかと思ったわけです。とくに昭和期に入ってからは確実にヒントがあるはずだというのがネライです。
 というのは、皇室財産の核心である御料地を管轄する御料局〔後の帝室林野局〕は、宮内省の一部局ですが、ほかの部局とは役割が異なります。単なる財産管理をこととする部局ではなく、実物資本としての御料地を管理する部局です。職員は、形態は役人ですが、実態は従業員です。
 
 ちょっと話が変わりますが、テレビで地方を探訪する番組があります。その中で、町や村の宿泊施設が立派なので事情を聴くと、実は元小学校だったものが廃校になったので、町おこしで利用しているということがあります。
 少子化が進んできて廃校になりそうなら、そんなに立派な設備をこしらえなくてもよかったのではないかと思われるのですが、当事者は違うのですね。少しでも環境を良くして、町内外から見直しを図ってもらい、これを機会として活性化させたい、との願望が働くのでしょう。
 
 実はこの意識というのは経済学的にも注目されるところです。
 企業が、とかく経営が左前になってくると、なんとかもう一旗揚げたいという願望が先に立ちます。そうすると、ノルカソルカの賭けに出ます。そして、広告・宣伝、設備投資、業務拡張、などなどをやるものの、うまくいかず、結局、それが引き金となって破産に追い込まれる。あるいは、恐慌の連鎖が始まる。
 線香花火も、少し似てます。
 最後の方になって、もう終わりかなと見ていると、ジュクジュクと音がして、それから、パチパチパチと火花を散らしだします。「まだあった」と思わせた瞬間に「ポトッ」と落ち、「アーッ!」といわせて暗くなる。
  

 私が経済学部のゼミに出席を許されたのは72年4月からでした。『資本論』全3巻を読破・通読したのは74年4月です。上記のレキシコンが刊行されたときは、まだイロハもわかってない時期でした。ですから、私が欲しいと思ったときはもう稀覯本でした。
 大学院に入ってからも、修士課程の頃は、奨学金は丸々アパート代、女房・子持ち、それも下の息子も生まれて、3人を養いながらの生活でしたから、博士課程進学で手いっぱい、理論的関心を深めるも広げるもありませんでした。
 レキシコンは全15巻からなるものです。終わりは1985年の刊行です。
 博士課程に入って、予備校などでそれまでよりいくらか割の良い仕事や、大学非常勤講師をやるようになってからは、月2~5万円くらいは書籍に使ってましたから、高価な本を買うことも増えましたが、それまではなかなか本を買うのも勇気が要りました。日給が1500円くらいのときにレキシコンも2000円はしていました。
 そういうことでしたから、恩師の宇佐美先生宅に伺ったとき(先生宅には、通常は毎週伺っていました)、レキシコンの前の方を持っていないことをお話ししたのだろうと思いますが、そのときに、先生が、
「いくらか書き込みがあるけど、それでも良ければあげるけど」と、遠慮がちに言われたので、
「え? むしろその方がいいです・・・」とお願いして、
その場でいただいたのだと記憶しています。
 上記の「競争」編ほか、いただいたものには先生の推敲・訂正のメモが、揺れるような文字で入っています。貴重なものなのです。
 
 では、今日はここまでにします。
  
  3月27日:多摩川
 








  

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