神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.360 タケノヤマ

2024-12-11 07:36:18 | 先生
(1)昨日10日はふるさとの町・村を終日歩きました。ふるさとは昭和の40年代に比べて不便になりました。これはどういう変化なのかなとつくづく考えさせられました。
 昨今の地方は、もはや昔の田舎ではなく、道路網の一部です。どこも道路が整備されて、ひっきりなしに大型車や大型化した自家用車が行き交い、歩道はあっても歩いている人を見ません。いれば珍品、異邦人です。自転車もあまり見ません。見るのは、通学する中・高校生くらいのものです。
 すでに公共交通〔バス〕の便数は少なく、国際線の飛行機並みに待たないと利用できません。都会で頼りになる流しのタクシーなどは地方ではおよそ考えられません。ハイヤーもあまり見ません。いまや、地方へ行って当になるのは自分の足だけです。そう思って黙々と歩いていると、カラフルに装飾されたコミュニティー・バスが後ろから来て追い越していきました。

(2)スマホどころかケータイも持たない私は、せめて自分の所在だけでも家族に伝えておきたいと思って公衆電話を探しました。ところが、それがまた難儀です。郵便局や大きな病院の近くにあるかと思いきや皆無。コンビニ付近にはまだあるようですが、コンビニも車で来る人が多く、そういう人はスマホなどを持っていて、そもそも移動が容易ですから利用しないでしょう。ようやく見つけた最初のコンビニの電話機はコードがすでに切られていました。「芝居の電話機」です。え?どういうことかって? 「置いてあるだけ」ということです
 
(3)地図を見て、バス路線や鉄道の記載があっても安心できません。日に5~6便では旅行者には工夫が必要です。東京でも西多摩の方の市の「~町7丁目」となると、山間に家が10軒ほど見えるだけということがありますから、事態は変わりません。

(4)ほかのことはいま措いて、車社会になって地方は古い閉鎖社会から解き放たれ、その構成員の自立化や個〔孤〕立化が進みました。住人は行動範囲の拡張と共に飛び出して都会化し、個が村や地方の社会にしばられることから解き放たれてきたのかもしれません。
 昔は、ひとたび村を出るとなれば、その後は、立身したり一旗揚げて錦を飾って帰るなら胸を張れましたが、うまくいかずにひっそりと引き揚げて来るようだと、後ろ指を差されたり、「うまくいかなかった、また戻らせてくれ」と詫びを入れたりということでしたが、今はそういうこともないでしょう。村共同体の規範が希薄になってきているからですが、これには、行動範囲が村の範囲を超えたことが要因の大きなものとしてあるでしょう。
 一方、外から来た人は、昔は村社会に入り込むのが難しかったけれども、今は、車があれば、隣近所とつながりを持たずに生活ができますから、すぐに入り込めます。都会生活が地方へ移動したといってもいいかもしれません。その際大事なことは、村との紐帯は希薄になっても、車に暗示されるような経済社会の中での居場所〔紐帯〕には強く縛られるということです。村の人間関係から解き放たれて、都会といわれてきた経済社会の中での居場所に縛られる・・・。
 車を持たない歩くしかない時代の人間は人間相互の紐帯の中で生きざるを得ませんでしたが、歩かずに済むようになった人間は、今度は経済社会の紐帯にしばられて生きています。では、この紐帯が束縛となった時にどうしたら解放されるのか。ここに新しい課題があるでしょう。

 1.下り八高線の丹荘駅手前から見えた風景:
    
     右のいちばん高いところがタケノヤマ

 2.神流川〔かんながわ〕の鉄橋上から見たタケノヤマ
    
     祖母も見たふるさとの山

 3.藤岡市上大塚から見たタケノヤマ
    
     祖母が農作業の合間に見たはずの山
 今日はここまでです。
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No.243 学問ということ 

2024-07-27 00:45:00 | 先生
(1)きのうは、終日、宇佐美誠次郎先生のものを読み、楽しく過ごしました。その中で、寡黙な先生がめずらしく強調されているところがあるのに気が付きましたから、きょうはそれ最初に書いておくことにします。少々長いですが、読んでみてください。場所は『学問の人 宇佐美誠次郎』(青木書店、2000年)81㌻です。

「終わりに、私のほうで補足的にいっておきたいことがあります。私の国家独占資本主義論について学生にいつも聞かれることがありまして、なぜ『危機における日本資本主義の構造』は半封建性をあれほど強調するのか。戦後についても強調しているのはなぜか、先生のいまの考えはどうなんだということを聞かれるのです。あれは戦争直後の話だということがあるのですが、もう一つぜひ言っておきたいのは、あれを書いていたのは農地改革の真っ最中なわけですね。第一次農地改革が終わって、ちょうど農地改革をめぐって論争がたたかわされてたときなんです。ソ連の案が出たり、日本の革新正統の案が出たりして、政府の農地改革はあそこでおさえようとするわけです。それに対する意見を当時書いたのですけれども、真っ最中に書くときに、それはもう近代化されてるということは到底書けないわけで、半封建性をもっと脱却するような方向にもっていくためには政府の出している案は封建的な性格が強いのだということを強調するのが当然なわけで、あとから見て少し強調しすぎているといわれても、私は批判されるつもりはないと学生にはいっているわけです。学問というのはそういうものじゃないかというふうに学生にはいっているものですから、そのことをちょっと付け加えておきたいと思うのです。」

(2)学問とはなにか、ということがしばしばいわれますが、宇佐美先生の場合、「政治性を脱却した中立な学問」というのは学問の名に値しません。学問も、それを生み出す社会の中のある立場をかならず反映(代表)しています。自然科学でもそうですが、とくに社会科学の場合はそれがはっきりとしています。
 上の例では、「当時の農地改革」を、この辺で終わらせたいとする立場なのか、もっと徹底させる必要があるとする立場なのかということになります。

(3)社会科学者の中には、「政治性を脱却した学問」とか、「純粋な学問」とかいう人がいます。しかし、それはその人がそう思っているだけで、現実社会を問題にするかぎり、そこから完全に政治性を脱却させることは不可能です。かりに、できるといったとしても、それは程度の問題で、しばしばその人がそう思っているというだけで、あるいは、それがじつは政治性を見失わせるという意味で、政治的であったりします。実際には不可能です。

(4)「純粋な学問」というのは、これは、たとえていえば、地球上にいて引力とは関係ない生活を考えるようなものです。物体が落下するのも、水中で浮くのも・沈むのも、引力を無視しては考えることはおよそ不可能です。
 「自分は引力など考えたくない」というのは「勝手」ですが、それで「自由」とはいえません。そんな「現実離れした話し(学問)」はもう何百年も前から、否定されています。
 
(5)もうひこと。
 とくに、社会科学の場合は、それが取り扱う「現実社会そのものが利害のかたまり」ですから、したがって、おしゃれとか、モードとか、フィーリングでやってならないということも大事なことです。  

【コレクション 30】
 きょうは、『江戸商売図絵』のパンフレットです。
 これは、A5判大、4㌻です。これを広げるとA4判で、裏表2まいですから、これをマルマル掲載することができますから、きょうは余計な説明なしで済ませます。次のものです。
目いっぱい大きくしておきましたが、小さい方は、天眼鏡でもないと無理でしょうか。

 1㌻目                  4㌻目


  3㌻目                  2㌻目

【コレクション 31】
 もう一つ、行きましょう。『太政官沿革志』です。
 これも、上と同様の大きさです。A5判大で4㌻、広げるとA4判で裏表2まいです。これもマルマル掲載できますから、やはり説明なしです。次のものです。
 1㌻目                  4㌻目

 3㌻目                  2㌻目    

ひとことだけ。
1.【コレクション】と名付けて載せていますが、これは私がなにか意図して集めたとかいうものではありません。これはおもしろいとか、気に入ったとかいうことでもらってきたというだけのものです。しかし、タダだからなんでももらってくるというものでもありません。

2.たとえば、きょうの2点は、上は江戸期の商品経済のようすがわかります。
 商品があることが資本主義経済・社会が登場する前提です。そして、商品の売買の広がりや深まりは、社会がこれによって連鎖・つながりをどう形成しているかを特徴づけ、規程しています。
 実際、今日の社会では、売る方も買う方も、自立しているように見えながら、見えない糸で縛り付けられています。このうちの何かが欠ければ、依存関係の連鎖を崩し、社会の破綻が波及していきます。ですから、一つ一つの職業の実態を知ることは大事なことです。

3.さらに、この社会は、相互に依存していながら、実際にはバラバラの個人から成り立っています。たとえば、樽のようにです。
 樽を構成する一つ一つは、木を削ると、水を漏らさない入れ物(樽)となることを見越して作られました。人間は、木ではありませんから、樽とは違いますが、その生活と生産の過程で一つのまとまりを造って依存・協力しあって生活できるように発達してきました。
 つまり、ここで共通して大事なのは、樽も人間も、一つのまとまりをもって成り立っているということです。そのまとまりを造るものが、樽の場合には「タガ」、人間の場合は、現在までのところ「国家」=政治機構です。
 そして、政治機構はこの社会の経済的・政治的に有力な人たちの意見が通るように得てしてつくられるということがあります。たとえば、最低賃金が50円あがったという一方、役員報酬が1億年に及ぶ人が1100人以上いるというようなことがなぜ是正されないか、というのを見ればよくわかります。
 要するに、上の2つのコレクションはつながっているというのがオチです。
 ではここで。
    



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No.242 宇佐美誠次郎先生のこと

2024-07-26 03:12:20 | 先生
(1)きょうは、山形県鶴岡市や酒田市、秋田県由利本荘市など、東北で大きな被害に見舞われました。心配です。
 こういう災害ニュースを見ていると、被災者が「これまでに経験したことがない」と言うのや、溢水して道路が池や川になった所を車が水を跳ね上げながら進んでいく様子を見ますが、なんど見ても、あれは不思議です。
 平たくいうと、「起こっちゃったね」、「うん」と言っているように見えるからです。多分、怒っているけど、その怒りをもって行くところがないのかもしれません。
 しかし、よく考えれば、この社会は、町だけでなく、山も川も、すでに手つかずの自然のままということはありません。その社会が一丸となって構成しているのが自治体であり、国家であり、その中心が政府です。
 いったい、政府の防災対策が対症療法に終わっていないか、議員は住民の意見に対してどんな見識を発揮して活動し、行政を監視しているか、正しているか、住民は周囲にどんな注意を払っているか、ということをもっと考える必要があるように思います。
 最近の都知事選挙でいえば、選挙に行ったか、行ってどうしたか・・・でしょう。
 小池都知事は、選挙中は多忙でしたが、いまはヒマ。なのに疑惑解明の姿勢さえ示していません。

   

(2)きのうの最後に『学問の人 宇佐美誠次郎』のことを口走ましたが、きょうは、それがきっかけで、終日、読み入りました。
 大学院に入った時から、自分が「先生の、最後にして最初の不肖の弟子」であることは自認していましたが、あと20年あれば、自分が「見にくいアヒルの子」になれると勇気づけられました。きょうは、これまでの日々をほのぼのと振り返ることができました。
 それで、いくらかでも先生のことが伝わるように、文献を紹介することにしました。
 
(3)まず、『学問の人 宇佐美誠次郎』(青木書店 2000年1月刊 B5判 295㌻)です。
 この本は、末席に私の名前がありますが、ほかの人は力のある先生・先輩です。これには、宇佐美先生に関する手掛かりがたいがい出ています。もちろん、年譜も著作目録もついています。 
   

(4)次は、『学問の50年 ー経済学エッセイ集ー 』(新日本出版社 1985年9月刊 菊判 241㌻ 1600円)です。
 これには、「みとおしをもち、古典をすなおに学ぶこと」など、私が読んで心がけてきた代表的なものが入っています。運がよければ、古書店で出会うことができるかもしれませんが、もうかれこれ40年前のものなので、大きな図書館で調べてみてください。

 ここからは、非売品です。国会図書館ならあるはずです。
(5)三つめは、『宇佐美誠次郎小論集』(宇佐美誠次郎小論集刊行会 1976年3月 菊判 290㌻ 非売品)です。
 これは、内容としては、上の(4)と一部ダブります。しかし、友人のこと、留学中のこと、随想など、いろいろ興味深いものが含まれています。
 それから、この本は、先生の還暦祝いに配布されたもので、表紙は、先生の奥様が糸を取って織りあげられた布を使って装丁されています。紺地のたいへん上品な造りになっています。

(6)最後に、『宇佐美先生とゼミナリステン ー宇佐美誠次郎先生追悼集- 』(宇佐美先生とゼミナリステン刊行会 2000年4月 B5判 173㌻ 非売品)
 これには、私は「『学問の人 宇佐美誠次郎先生』外伝・抄」というタイトルで、先生にお会いした日のことから、没年に至るまでを約11ページわたって書きました。

 以上、宇佐美誠次郎先生の紹介に役立つと思われるものを上げましたから、機会を見て調べてみてください。ちなみに、(1)(3)(4)には先生のお写真があります。
 では、きょうはここで。

     

 
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No.142  これも思い出すこと

2024-04-17 03:48:58 | 先生
      朴:中空に

(1) 昨日の「か行変格活用(か変)」、なんだっけという人もあったことでしょう。
 自慢話になりますが、いまでも活用語の変化などはよく覚えています。
 たとえば、助動詞の種類は「き・けり・ぬ・つ・たり・けむ・たし・・・」、そして「き」の変化は「(せ)・〇・き・し・しか・○」などでした。
 これについては、誰でもそれなりに苦労して覚えるわけです。皆さんの中には、もう思い出すのイヤという人もあることでしょう。もちろん、私も苦労しました。でも、私の場合は、その最初はカルチャー・ショックみたいなことでした。

(2)というのは、富岡中学へ転校して最初の時間がいきなり英語のテストでしたが、国語の最初の時間が文法だったからです。
 転校生して最初は一人一人が新しい先生ですから、どんな先生かと待っていると、50代くらいの、眼鏡をかけて少し禿げ上がった学者風の先生でした。その先生がギッと睨んでから開口一番に言ったのが、
 「付属語で活用があるのは何ですか」
 でした。
 私はチンプンカンプン。キョトンとしてまわりの人を見ました。しかし、だれも手を上げるようすがありませんでした。それを見て先生が、
 「助動詞ですね」
 といって、授業に入りました。
 この件は、自分にとっても懐かしい思い出です。
 ついでに、ほかの例を紹介しましょう。


     来客あり

(3)高校の時に、これも国語の時間のことですが、突然、先生が
 「漢語で、水を形容したものにはどういうものがありますか」
 と問いかけました。
 「さらさら」とか、「ちょろちょろ」とか、こういうふだん使っている「和語」はすぐに思い浮かびますが、「漢語」となるとなかなかないものです。
 そこで私が「滔々」を上げると、一同感嘆の声をあげました。
 でも、この感嘆は、私がスゴイからではなく、当時はほとんど誰でも知っていたことなのに、気付く人がなかったからです。
 当時、「イムジン河」という歌がすでに流行っていてその中で
 「イムジン川水清く 滔々とながる・・・」
 と歌われて、たいがい知っていたはずだからです。
 この歌は、1957年に当時の北朝鮮で発表されましたが、それを1968年に日本のザ・フォーク・クルセダーズが歌ってヒットしたものです。
 なお、今日、検索してみたところ、ずいぶん詳しい経過も書かれていることがわかりましたから、興味がある人は検索してみてください。なつかしいですが、ここでは略します。
 しかし、私が感動したのは、先生が「うーん」と言ってちょっと考えてから「滔々」を黒板に書いて「こうでしたね」と言ったところです。この先生は「高橋?悦治」、通称「えっちゃん」と呼ばれていたかと思いますが、力のある先生で、伊東静雄門下とのことでした。

(4)もう一つ、これは高校の英語の時間のことです。どういう脈絡かは覚えていませんが、河野先生といったか?、先生が「偏見」は英語でなんと言いますか、聞きました。
 これは、すぐにわかりましたから、「prejudice」と即答しました。
 多分、映画にもなった、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見(pride and prejudice)』を読んでいるかと試されたのかもしれません。

   
    朴:葉もよし 

(5)最後に、悲しい思い出です。
 美術の先生、もう名前を忘れてしまいましたが、停年間近の高齢の先生でいつも校庭のバラの絵を描いていて、通称「とおるちゃん」と呼ばれていました。
 ちなみに、とおるちゃんの後任?となって赴任されたのが、富岡中学校でお世話になった井田淳一先生でした。先生は身長が190㎝先生はあろうかという長身で「韋駄天」と呼ばれてました。175㎝の私から見ても見上げるほどの先生が、群馬あたりの古民家をめぐって絵に残す活動をされて知られた人だということを、大学院生になって群馬県立文書館に閲覧に行ったときに展示会のポスタ―を見て知りました。
 話があらぬ方へ行きましたが、先生から見てどうも私は指しやすいようで、突然、「オオサワ、after allってどういう意味だ」と。
 これに即答できず、「結局」に冷や汗をかきました。
 では。
   
    夕照:中神駅
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No.123 レキシコン

2024-03-29 00:45:11 | 先生
 きのうは、雨の日のあとの晴れで、おまけに久しぶりのお出かけとあって、ずいぶんのんびりしました。
 まあ、米軍機が南方から飛来したり、基地から来て旋回したりで、五月蠅〔うるさ〕かった。「三月米軍機」も「うるさい」ものです。
  
 
 ところが、陽気の良さにうかれて、マスクを外したままでいたり、のんびりと弁当を食べていたものですから、夜からくしゃみ・鼻水が始まり、昨日のブログ作成にはかなり難儀しました。その余波は今日も続き、目は赤くなり、終日ウトウトの連続でした。
 というわけで、今日はパソコンの前にすわらず、『レキシコン 1 競争』をずっと読んでました。もっとも、居眠りの時間の方が長かったかもしれません。
  

 表紙が横文字なので、経済畑でない人にはびっくりされたかもしれません。
 No.119で『価値形態論と交換過程論』を紹介しましたが、その筆者の久留間鮫造先生がマルクスの著作から「競争」について書かれた箇所を抜粋して、独自に項目をたてて整理・編纂されたものです。日本語名は『原典対訳 マルクス経済学レキシコン 1 競争』、初版は1968。私のは1971年版です。
 中身は、左ページ独語原文、右ページ日本語訳です。
 ですから、左を読むと眠くなり、右を読んでも眠くなる・・・。オット!

 これをしばらく前から読み直しているのですが、内容は、たとえば次のようなことです。
「資本の数がふえれば、資本家間の競争がふえる。資本の規模が大きくなれば、いっそう巨大な武器をもついっそう強力な労働者群を産業の戦場に率いていく手段が選ばれる。」(95ページ)
 これは、資本は本来的に儲けようとする性質をもっているが、その資本が多数あって互いに競争しているという現実が、資本に「もっと儲けろ、さもないと負けて没落するぞ」と強制するということなどです。
 これ自体は誰でも知っていることですが、ここのところ、ヒマな折に、明治以降の御料地形成と確立の中での当局者の行動を考えるヒントを探せないかと思ったわけです。とくに昭和期に入ってからは確実にヒントがあるはずだというのがネライです。
 というのは、皇室財産の核心である御料地を管轄する御料局〔後の帝室林野局〕は、宮内省の一部局ですが、ほかの部局とは役割が異なります。単なる財産管理をこととする部局ではなく、実物資本としての御料地を管理する部局です。職員は、形態は役人ですが、実態は従業員です。
 
 ちょっと話が変わりますが、テレビで地方を探訪する番組があります。その中で、町や村の宿泊施設が立派なので事情を聴くと、実は元小学校だったものが廃校になったので、町おこしで利用しているということがあります。
 少子化が進んできて廃校になりそうなら、そんなに立派な設備をこしらえなくてもよかったのではないかと思われるのですが、当事者は違うのですね。少しでも環境を良くして、町内外から見直しを図ってもらい、これを機会として活性化させたい、との願望が働くのでしょう。
 
 実はこの意識というのは経済学的にも注目されるところです。
 企業が、とかく経営が左前になってくると、なんとかもう一旗揚げたいという願望が先に立ちます。そうすると、ノルカソルカの賭けに出ます。そして、広告・宣伝、設備投資、業務拡張、などなどをやるものの、うまくいかず、結局、それが引き金となって破産に追い込まれる。あるいは、恐慌の連鎖が始まる。
 線香花火も、少し似てます。
 最後の方になって、もう終わりかなと見ていると、ジュクジュクと音がして、それから、パチパチパチと火花を散らしだします。「まだあった」と思わせた瞬間に「ポトッ」と落ち、「アーッ!」といわせて暗くなる。
  

 私が経済学部のゼミに出席を許されたのは72年4月からでした。『資本論』全3巻を読破・通読したのは74年4月です。上記のレキシコンが刊行されたときは、まだイロハもわかってない時期でした。ですから、私が欲しいと思ったときはもう稀覯本でした。
 大学院に入ってからも、修士課程の頃は、奨学金は丸々アパート代、女房・子持ち、それも下の息子も生まれて、3人を養いながらの生活でしたから、博士課程進学で手いっぱい、理論的関心を深めるも広げるもありませんでした。
 レキシコンは全15巻からなるものです。終わりは1985年の刊行です。
 博士課程に入って、予備校などでそれまでよりいくらか割の良い仕事や、大学非常勤講師をやるようになってからは、月2~5万円くらいは書籍に使ってましたから、高価な本を買うことも増えましたが、それまではなかなか本を買うのも勇気が要りました。日給が1500円くらいのときにレキシコンも2000円はしていました。
 そういうことでしたから、恩師の宇佐美先生宅に伺ったとき(先生宅には、通常は毎週伺っていました)、レキシコンの前の方を持っていないことをお話ししたのだろうと思いますが、そのときに、先生が、
「いくらか書き込みがあるけど、それでも良ければあげるけど」と、遠慮がちに言われたので、
「え? むしろその方がいいです・・・」とお願いして、
その場でいただいたのだと記憶しています。
 上記の「競争」編ほか、いただいたものには先生の推敲・訂正のメモが、揺れるような文字で入っています。貴重なものなのです。
 
 では、今日はここまでにします。
  
  3月27日:多摩川
 








  

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