神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

青森へ行ったころ

2023-12-13 23:50:37 | 測量簿

 

       朴

 2012年6月、私は青森県へ出かけました。

 これより前、私は、2004頃にまでに主な御料地測量簿の収集を終え、パソコンに整理し終えていました。しかし、青森県では三沢市と八戸市南の鮫御料地の測量簿が見つかっていなかったのです。それでなにか手はないかと考えていましたが、このころ、健在だった神足勝浩様から神足勝記の『日記』や『回顧録』の借用することができ、大きく作業の重点を移してその整理に取りかかることになりました。

 このあたりのことは『御料局測量課長 神足勝記日記』日本林業調査会(J-FIC)解題に書きましたが、『日記』と『回顧録』が60年分ありましたから、1日に日記の12日分を入力し、1ヶ月(12ページ×30日)で1年分(360ページ)を終え、1年(12ヶ月)で日記の12年分を終えると、5年で日記の60年分の全作業を終えられる、というおよその見当つけて着手し、2009年にともかく一度読破することができました。

 その後、日記の見直しをしていると、2011年3月11日に東北大震災が起こりました。しかし、私がボランティアで行っても役には立たないので、代わりに自分で見てきてそれを授業で伝えることにしました。

 そこで、石巻の付近に住む知人に安否を問いながら相談すると、「来られるなら、ガレキが片付く前の方がよい。案内する」と申し出てくれ、石巻から南三陸町の辺りまでを車で回ってもらいました。ニュースで見るとは違うにあまりの惨状に驚き、ほかも直に見ておくべきと思わずにはいられませんでした。

 それで、さらに北の気仙沼、陸前高田・大船渡の辺りへ行くことにし、今度は自分でミニサイクルを持参して、登りは歩き、あとは自転車に乗って見て廻りました。しかし、それより北は、時間の都合がつかないまま冬が近づいてきたので、こんどは沼宮内からバスで久慈に入り、南下して田老・宮古・大槌・鵜住居・釜石とバスで縦断しました。

 鵜住居では、約5km西にある上栗林に足を延ばし、30年来の念願だった三浦命助の碑を訪ねました。久慈からずっと惨状の連続だったので、一揆の首謀者の碑前とは思えないほどゆったりとした農村風景に浸りました。ここは、さらに西へ5kmほど行くと遠野に入り、橋野御料地のあった山岳地となるところです。ぜひ見たいと思いましたが、山越えの準備をしてなかったので、バスを待って釜石に向かいました。

 翌日はバスで大船渡へ行く予定でしたが、目覚ましが作動せず、朝7時のバスに10分の差で乗り遅れてしまいました。次のバスは10時過ぎです。仕方ないので、花巻に出ることにして、遠野周辺の旧御料地の山並みを久しぶりに見て帰りました。

 翌年、震災も1周年が過ぎて、だいぶいろいろと片付いてきたことが言われていましたのでそれも見たいと考え、また、作業を少し戻す時期かとも考えて、三沢市と八戸の鮫の一帯の測量簿かそれに代わるものを探しに出たわけです。

 続きは明日としましょう。震災見聞記はデータを見直していずれ書くつもりです。

 

 

 

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