神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.209 市内巡回

2024-06-22 23:38:01 | 近況
(1)【コレクション 2】
 次のような木を見たことがありますか。「境界木〔けいかいぼく〕」です。
(なお、「境界」は「協会」や「教会」と区別するために、関係者は「けいかい」と呼んでいます。帝室林野局でもそうだったようで、文書を閲覧していると「経界」と表記しているものが出て来ることがあります。)
    

 この写真は、2006年10月に群馬県富岡市の南方にある稲含山〔いなふくみさん〕に上ったときの帰りに、林道脇で見つけたものです。 
 民有林の所有者が、自分の山の境界を明らかにするために、幼木を折っておくことでできるのだそうです。
 測量関係の本で、石標の建設やペンキの塗布のほかに、簡易の方法として便宜このような方法が取られることを読んだ記憶がありますが、実物を見たのはこれが初めてでした。どこにでもあるものかもしれませんが、その後は、奥多摩の高水3山に御嶽駅から上がったときに、総岳山の手前で見ました。見たのはこの2回だけです。
 なお、稲含山の東に「甘楽御料地」がありました。この境界踏査については、次の標題で発表しましたからご検索して覧ください。
 「御料地形成過程の一断章(2)ー高橋惣太の甘楽御料地の踏査ー」
  (『嘉悦大学研究論集』第49巻第2号)

    
     初めて気が付きました。    

(2)きょうは、きのう話題となった都知事選の候補者ポスターのことが気になったので、夕方の散歩のときに少し足を延ばして、市内の中神駅と東中神駅の周辺を10ヶ所ほど見て廻りました。
 梅雨に入って、明日から雨の予報だったので、自転車を使わず、ぐるっと1時間半ほど歩きましたから、よい運動になりました。
 
(3)廻ってみて、掲示板はどこも9名が貼ってあるだけとわかりました。

    
    5羽のツバメさん:東中神駅前クジラロードで
     うっかりフラッシュを炊いたら、「5羽がこわごわ」と・・・。

(4)広津和雄の「散文精神」を知ってますか。
 広津については、もう、作品でというよりも、松川裁判での方が知られているような感じがします。柳浪の子といっても、まず参考にもならないでしょう。
 しかし、広津の下記の本は、上京時に持ってきた大事なものです。
 『日本現代文学全集 58 廣津和郎・宇野浩二集』(講談社、昭和39年4月)
 なぜこれを買ったのか、いま思いますに、宇野浩二が「芥川龍之介―追悼―」を書いていたからかもしれません。そして、二人の全部作品を国語の勉強のつもりで一応は読みましたが、ちっとも面白くありませんでした。内容などまったく記憶にありません。それなのに、その後、ずっと広津の「散文精神」だけは忘れることがありませんでした。
 これはいまもそうで、きょうも歩きながら思い出していました。

(5)脈絡がないとわかりにくいかもしれませんが、広津が「散文精神」を説明したところを2ヶ所引用しましょう。
 なお、これは、昭和13,4(1938,39)年頃、「人民文庫」主催の講演会での講演したものです。

 1.「それはどんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、生き通していく精神」

 2.「ぢッと我慢して冷静に、見なければならないものは決して見逃さずに、そして見なければならないものに慴〔おび〕えたり、戦慄したり、目を蔽うたりしないで、何処までもそれを見つめながら堪へ〔こらえ〕堪へて生きていかふといふ精神であります」

   
    わからんばい・・・。

(6)広津がこれを唱えたときは、すでに日中戦争が始まり、太平洋戦争に入る時期でした。
 これに対して、いまの日本は、失われた30年といわれる所へ多くの震災が続き、全国いたるところで苦しめられています。
 戦争前夜かもしれないという危惧がささやかれるとき、与党の腐敗が表面化しても自浄作用もなく、政治倫理の欠如に国民がそっぽを向き始めています。
 政権党の総理の足の引っ張り合いが始まっています。
 国民生活の格差が広がり、大企業の内部留保は積み上がる一方、円安・インフレで国民生活は不安定さを増すばかりです。
 世界には止めようもない戦争が続き、泥沼化しています。
 そこへ、都知事選をめぐる椿事・・・。

(7)いまは、従来なら泣き寝入りさせられてしまっていた多くの国民が意見を言うようになっています。鵺〔ぬえ〕のような政党や、いつまでもツッカイボウを党是とする政党もありますが、憲法を守ろうとする動きは強い。「多くの広津」がいます。
 大事なことは、必要な時に必要な態度を示すこと。
 「言葉の力で」つまり「散文精神」で、倦まず努力すること、そして負けないこと。

 そうそう、政治はモードやフィーリングではだめですね。
 プーチン、ネタニヤフ、トランプ、キム・ジョンウン、
 きちっと説教しないとだめです。
 
 そうでありたい。では、

   
     郷土資料館で
 
 
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No.203 三浦宗次郎   

2024-06-17 00:15:08 | 近況

   きょうの夕空

(1)きのうの地質調査所の写真の撮影日がいつなのか検討してみました。
 写真を見ると、コートを着ている人が何人も見えます(それも厳冬という感じ)から、時期は10月~3月の冬場であるだろうことはわかりますが、全体としてずいぶん老けた印象です。とくに、私の関心である、神足勝記と鈴井民作の何歳の時なのか、にわかにはわかりません。
 
(2)写真は、最初『懐古録』で掲載され、それを『地質調査所百年史』が引用したという関係でした。この両者の違いは、『前書』になかった三浦宗次郎の名前が『後書』に記されていることです。なお、記載のない人の名前は不明です。

(3)どちらの写真も、かなり前から手元にありましたが、きのう、「三浦宗次郎」の名があることに気づいて、それならいくらか範囲が絞れるかもしれないと思いました。
 というのは、三浦は1862年生まれですが、『御料局測量課長 神足勝記日記』(日本林業調査会J-FIC)の明治26(1893)年6月7日の項にも紹介したように、よく知られた福島県の吾妻山の爆裂があって、その調査の際に噴石のために29歳ほどで亡くなります。
 次の写真は『地学雑誌』第5集第55巻(明治26年7月25日刊)に掲載された三浦の肖像です。(なお、雑誌同号は三浦の追悼号になっています。)
 
    
     
 きのうの写真と比べると、集合写真の方が少し年が行って、額もやや広くなった感があります。いっぽう、こちらは年齢が若く、体型もなで肩で華奢な感じがあります。しかし、ヒゲを蓄えているところなどは、よく似ています。同一人物とみてよいと思われます。

(4)そうすると、あの集合写真は、地質調査所が設立された明治15年から26年までの間となります。しかし、10年もあると幅が大きすぎます。
 そこで、もう一つ注目しました。
 中列左から5人目に和田維四郎がいますが、その後ろに巨智部忠承〔こちべただつぐ〕がいます。
 この両者の関係は、和田が初代所長を務め、巨智部は明治26年からその後を継ぐ関係です。そうすると、和田が中央に座っている理由が所長だからだとして、それがただ一般的な行事の記念撮影だからか、それとも、誰かの特別な祝い事があっての記念撮影だからか、となります。

(5)そこで、この間の『神足日記』を調べてみました。時期は冬場です。
 すると、可能性があるのは、17年1月4日(半晴)の新年会の日となりました。
 ただし、当日は40人が参加したと記載されていますが、写真に写ってぃるのは29人だけです。あとの10人ほどは、下っ端だから入れなかったのか・・・、ちょっとわかりません。
 それから、もう一件、2月5日に和田維四郎の欧州出張送別宴を向島八尾松で行ったことが出てきますが、しかし、この日の天候は雪でしたから、寒そうにしているとはいえ、写真に雪が全く写っていないので、これは該当しないと思われます。

(6)仮にこの時だとすると、三浦宗次郎が22~3歳、神足は29~30歳ということになります。そうすると、共にずいぶん老けた感じになります。
 神足は、出張の経路などは克明に記録するものの、出張前後などは業務の整頓で多忙のためか、書かなかったり、書いてもメモ程度だったりするので、これで確定とはいかないかもしれませんが、いま考えられる年齢です。

(7)なお、20年10月に阿曽沼次郎が北海道に赴任します。阿曽沼が在京ならば出席したかもしれないのに写っていません。ですから、撮影はこのあとかもしれませんが、しかし、24年に神足は宮内省御料局に入り忙しくなりますから、その前となります。
 とまあ、きょうは暑い一日でした。

   


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No.202 スタンドパイプ消化訓練   

2024-06-16 00:01:05 | 近況
  

(1)きょうは、「スタンドパイプ消火訓練」に参加しました。
 どういう訓練かというと、正月の石川・能登地震などのように、災害に伴って火災が発生した場合に、倒壊した家屋などが障害となってり消防車がすぐ駆けつけることができないことを想定して、その地域住民が自力で消火活動をおこなう訓練です。
 具体的には、マンホールを開けて消化栓にスタンドパイプという取水口をつけ、ホースとつないで放水活動に入るというものです。
 写真を撮れませんでしたから、代わりに「実施要領」の写真を利用させていただきます。私も、ヘルメットを着用して、概ねこのような訓練をしました。
 


 昭島市の南側の多摩川べりは、水害の危険性がないとは言い切れませんが、私の住む地域や主な市街地は高台にあるので、心配は水害よりも家屋倒壊と火災です。とくに、高齢化が進んでいることもあり、火災が最も心配されています。
 きょうの訓練は有意義でした。とりあえずは合格と思います。しかし、気合を入れてやったせいか、午後からぐったり、なにもできず・・・。
 
(2)ということで、棚の本を見て過ごしました。すると、その中に1冊、
 『懐古録』(地質調査所80周年記念出版物編集委員会編、昭和37年、非売品)
 というのが出てきました。

 地質調査所が設立されたのは明治15(1882)年ですから、それから80年後の昭和37年、1962年に非売品として発行されたとあります。
 この時点で「懐古」といえば、半世紀(50年)前からとして、明治末期以降となります。したがって、私の関心のある神足勝記が在職していた創設期や、宮内省に入省した明治24(1891)年ころの同時代人のことなどはもう出てこないようですが、末尾につけられた「名簿」には神足の名前も記されていますし、なによりも、次の写真があります。



 写真のおもな人について紹介します。
 前列左端が神足勝記。4人目が山上万太郎。6人目が鈴木敏。7人目が遠藤隆吉。
 中列7人のうち、左から3人目が高山甚太郎。5人目が和田維四郎。
 後列左から1人目が中島謙造。3人目が太田健吉郎。5人目が鈴木民作。6人目が恒藤規隆。8人目が巨智部忠承〔こちべただつぐ〕。9人目がマックス・フェスカ。
 なお、この写真は『地質調査所百年史』(昭和57(1982)年)27ページ下段にも出てきますが、これによると、後列右から2人目が三浦宗次郎です。

(3)私がこの写真で注目するのは、やはり、まず神足ですが、次は鈴木民作です。
 鈴木民作については、『孤高の道しるべ』(銀河書房、昭和58年)で上條武氏が詳しく紹介していますが、『御料局測量課長 神足勝記日記』昭和6年7月11日の項に、雑誌『御料林』から引用した「我国山林測量法の先覚者神足勝記君」と、昭和11年1月11日の項に同じく『御料林』から引用した窪田唖雷「親分乾分の涙」をぜひ読んでほしいと思います。
 
 詳しいことはまた別の機会にしますが、ここにいる神足と鈴木の二人は、このあと終生親しく行き来します。『神足勝記日記』にそれがあちこちに出てきてうらやましいほどです。この写真は、その最初の頃を知る唯一のものなのです。
 ほかの人についてはまたいずれ。では。

   
    きのこ???
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No.144 これを好機に

2024-04-19 04:02:20 | 近況
(1)例の化石発見以降、ふだんやりつけない探索と収集に4日も連続で通っているうちに、ついに生活が朝方に変わりました。生活習慣を変えることはなかなかできないことなので、これを好機に生活を変えてようかと思ってます。今日はこれが結論です。

   
    新緑:葉が照り輝く夏が好きです

(2)家から多摩川までは、自転車で花見をしながら行っても20分程度です。行きは下り、帰りは多少の登り坂になるとはいえ、たいしたことはありません。電動自転車でなくとも、まったく気になりません。
 それよりも、笹をかき分け、草を削り、土を少しずつ削っていくという発掘作業は、ふだんボールペン・万年筆を握るとか、せいぜいキーボードをたたく程度の「重労働」しかしていないものにとって、思いのほかキツイ労働です。ハンマーとスコップを交互に持ちかえて作業を続け、汗をかいてそれが眼鏡に落ちて見えなくなるなどということは、まずないことです。おかげで、左右の手は握ると少し腫れぼったい感じがしますし、右手の親指の付け根は、疲労のために骨折したのではないかと思うほど痛みます。

   
    かわいい かわいい

(3)でも、この作業、きついというのは終わってみてのことです。やっているときは、実は楽しく、無心になってやってました。実際どこに何が埋まっているかわからないわけですから当然です。
 前にも書きましたが、小学5年の時には、石器・埴輪・石器探しで朝から晩まで飛び回っていました。
 石器は南の山の上の一帯、埴輪はチョット奥の一帯、化石は三名湖という貯水池の東のはげ山、というようにどこにでも「遊び場」がありました。
 見つけた石器や埴輪などは、たいしたものはなかったですが、だいぶ前に藤岡市の郷土資料館に寄贈して、いまはもう手許にありません。化石は、たいがい小さな巻貝や木の葉ばかりでしたからほとんど持ち帰ることはしませんでしたが、手のひら大の虫か貝の化石が見つかって、それは地元の美九里西小学校へ寄贈しました。
 そういうことを経験しましたから、しかも今度は7~8㎏もある大きなものが見つかったのですから、久しぶりに童心にかえり夢中になりました。

   
     朴:夕闇近く
(4)ところが、ついつい夢中になってふだんやりつけないことをやったために疲労困憊してしまい、夕食後はいくらもしないで眠りこんでしまうようになりました。おまけにそれが4日も連続しましたから、ついに早寝早起きの生活に変わってしまいました。まあ、健康生活に戻ったわけです。
 ちなみに、自分が早起きをしだしてわかったことがあります。それは、それまでうちのカミさんはずいぶん早起きだと思っていましたが、実はそれは誤りで、じつに朝寝坊をしている、ということです。夫唱婦随ですかなあ。じつに良妻。
 これまで長らく、帰宅して夕食を済ませ、ニュースを見て、それからが自分の時間、そして、なにかを調べたりまとめる作業をしていると、手が離れないために夜遅くまで起きているということになりがちでした。そしてそれはそれで結構楽しいものでした。
 これまでは、山へ行くとか、調査に出る時だけムリして朝型になるということでしたが、しかし、この際、年のこともあるし、早起きすると山などへ出るにも都合がよいので、しばらくはこの生活を続けようかと思っているところです。
 さてまあ、何時まで続くかはわかりませんが・・・。
 
   
    朴蕾:仰いで
 

 


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No.126 春の難事

2024-04-01 01:36:36 | 近況
 
         よしやるぞー!

 きょうはもうシャツ1枚で過ごせるくらいの暑さで、一気に夏でした。
 上の写真、じつに熱い。沸き立ってきます。
 私は、ビンボー人ですから、寒い冬よりも暑い夏の方が好きです。とはいえ、季節の変わり目、これが毎年悩みです。
 花粉や黄砂は工夫次第でなんとかなりますが、この時期の睡気は、毎年のこととはいえ,本当につらい・・・。寝不足だから眠いのでなく、十分寝てても眠い。
 きょうは夕方まで、パソコンの前でひれ伏していました。

  
   釈迦堂遺跡博物館

 それでも、(山へ行くときは、時間調整して朝早く起きるようにしますが)、日ごろ夜型の生活をしていて慣れているからか、夕方からはシャッキリして、おまけに見たいテレビ番組もないので、中岡哲郎『日本近代技術の形成』(朝日選書 2006年11月)の第4章「過渡期の在来産業」を読みました。
 といっても、4章は78~173ページまでの約100ページあるうちの、10ページほどです。だいぶ前に一度読んでいますが、それでも、かなり細密な研究で、通常の『選書』のイメージでありません。文体が「です・ます調」で読みやすく、写真や図解が多いので取り付きやすい印象ですが、しかし、内容はかなり専門的です。これを読みこなせる人は、よほどの専門的な関心を持つ人(学生は一人では根気が続かないでしょう。院生は?)でしょう。
 そう感じたので「はじめに」を読み返したところ、
「第1章から第3章までは・・・メキシコの学生に向かって・・・語る形で書かれている」(4ページ)が、読者は
「そこで適された問題を念頭に、第4章以下に書かれた二つの流れのダイナミックな相互作用と発展をたどっていただくことをお願いしたい」、
「従来なじまれてきたのとは異なる「日本近代技術」像が現われてくることを約束する」
とありました。そうすると、もうこれは「通史」ではなく、最先端の学術研究書を読むイメージです。
 
 誤解されては困るのであえて書きますが、私はこの本の内容のことを言っているのではありません。
 とかくハード・カバーにして立派そうに見せて売る本が多い中で、ペーパー・バックの『選書』ではもったいないと思うのです。手にする方は『選書』として見ます。もっとも、そういうことを言ったら、あの『資本論』だって文庫化も新書化もしているわけですから、きりない・・・。
 買う側が、選ぶ前にいくらか拾い読みしてみればわかることですが、むかしはどこにでもあった普通の道具などのことですけど、でもいまは難しい。そう思います。
 私などの子供の頃には、在来の農機具や機織り機はまだ現役で使われていましたから、一見なんでもないことですが、それでもそれを技術史として克明に説明されると、なかなか取り付きにくい。それを知らない世代に克明に説明したら、それはもうかなり難事。(実際、今日読んだところでない、もっとうしろの方で、機械の説明などがありますが、本当に厄介です)。そうすると、『選書』とはなにかとなりかねない・・・。
 私も、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)の刊行では、そういうことに直面しました。
 本を書くことよりも、それを理想的な形で残す〔売り物にする〕ことに苦労する。この著者もそうだったのではないか。いったいどのくらい読まれた『選書』なのだろうか。専門書は、読み捨てや読み飛ばしでなく、じっくり読むことを優先して、判の大きさなども工夫して出せることが必要ではないか。
 一番の理由は資金問題だろうと思われますが、どうも補助金の出し方なども、こういうところに配慮・目配りが足りないのではないかと思います。そういうことを思ってしまいました。春先の難事、簡単にはいかないことに首を突っ込んだかもしれません。

  

  きょうはここまでにします。

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