神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.332 教会のこと

2024-11-13 00:09:11 | 追憶
(1)今日の新聞にどこかに石破茂首相がクリスチャンの4代目だということが出ていました。
 それがいまの日本の局面でどういう意味を持つかはわかりませんが、生い立ちや人格形成でどんな影響があったのか少し興味を持ちました。特に、これは、現生利益や現代社会の抱える問題が原因となって新たに入信する人の多い創価学会やそのほかの新興宗教とは意味が違うと思われるからです。
 クリスチャンといっても、カトリックとプロテスタントがあります。石破さんがどちらかは書いてなかったと思います。

(2)クリスチャンということでは、2つ思い出があります。
 一つは、高崎高校の入学式の日に、近くにあるプロテスタント系の教会の牧師が、校門近くで英語・日本語対訳の『新約聖書』を配布していました。
 地方のことで、そんなふうに配付するのを見たことがなかったからだと思いますが、牧師の「いつでも来てください」という誘いもあったので行ってみました。
 次の項で書きますが、私はプロテスタント系の教会のような、入ってなにもない空間が好きです。それで行きましたが、何回か通ううちに、牧師さんが入信を誘うようになりました。そして、やり取りがありました。
 牧師:「赤い花があるでしょう?あれは神の手が働いているから・・・」
 私 :「神様は見えないから信じられない・・・」
 牧師:「でも、原子も見えないでしょ?見えないけど信じてるでしょ?」
 私 :「見えないけど、科学的に証明されています。」
 牧師:「花が赤いのも神の証明です・・・」
 結局、このような会話があって決裂となりました。

(3)もう一つは、富岡中学校でのことです。
 中3の年の1965年12月頃、英語の授業に、英語担任の野中喜代松先生の仲介で、安中教会のベーケン宣教師が一度教えに来られました。野中先生との関係はわかりませんが、ベーケン宣教師は1954年に着任、のち一時帰られて1956年8月帰任、それから1967年5月まで在任されたことが『安中教会史ー創立から100年まで』の年表に書かれています。
 実は、富岡中学校のすぐ東隣りに甘楽富岡教会があって、ベーケンさんはここで行われていた金曜日の聖書勉強会に教えに来られていました。
 当日の授業内容についてはもう覚えていませんが、新鮮さを感じたのでしょう。私は、聖書研究会のようすを知りたいと考えて、親しかった小倉君を誘っての参加の仲介をお願いしました。
 許可をいただいて、出席することになりました。その前に、小倉君は宗教上のことがからんで取りやめることになり、一人で出席しました。
 出てみると、出席者はみな高校2・3年生のお姉さんでした。初日はお客さんですからハッピーでした。しかし、それからは、中3と高2・3の力の差は歴然、何もかもチンプンカンプンに耐えられず、高校に入ってから来ますといって中断しました。それも転居したために終わりました。

(4)甘楽教会は、住谷悦治先生の弟の住谷天来〔てんらい〕さんが第3代牧師を務められた教会です。住谷悦治先生のご子息は元立教大学経済学部教授の住谷一彦先生です。立教大学の大学院のころ、一彦先生とお話しした時などに、天来牧師のことが話題になると、先生は「天来叔父さん」と呼ばれていました。
 それから、甘楽教会に入ると、入ってすぐ右にフルベッキ宣教師が書いた「God is Love!〔神は愛!〕」の額が目に入ります。『甘楽教会百年史』にもそのことが出ています。
 また、フルベッキとその子のことが『神足勝記日記』の学生時代に出てきます。しかし、残念ながら、そこを『御料局測量課長 神足勝記日記』(J-FIC)の編纂では入れることができませんでした。

   
    唐辛子(とんがらし)

【コレクション 109 滑稽新聞】
 風刺とか笑いは、「威張っている者をやっつける」ところにその真骨頂があります。
 ダジャレやくすぐって笑わせているだけというのは、あれは芸がない証拠です。

 
 この大きさはB5判で、表紙ともで12㌻です。B4判の用紙3枚を重ねて二つ折りするとできます。
 全体は、
 1㌻ 上掲 *上部に「自殺号」と朱書されています。
 2㌻ 宮武外骨の絵と経歴紹介 滑稽新聞の説明
 3㌻ 推薦文 赤瀬川源平 外骨の面白さは現物を見るしかない
        吉野孝雄 多くの読者にこの魅力を伝えたい
    外骨の写真
 4~5㌻ 内容見本
      推薦文 加藤秀俊 外骨復活をよろこぶ
 6~7㌻ 内容見本
      推薦文 前田 愛 叛骨の言論人の真骨頂
     *7㌻を下に載せました。お読みください。



 8~9㌻ 内容見本
      推薦文 筑紫哲也 マジメ・アソビの一体化
 10~11㌻ 内容見本 
      推薦文 糸井重里 ついで、に、うれしい。
 12㌻ 刊行案内 定価:全6冊 各冊3500円 B5判 平均387㌻
     1985年 筑摩書房刊 
 以上です。
 
 昨日も書きましたが、あの玉木さんはもうアウトです。
  大きさを 失って知る 玉木さん
 気の毒ですが・・・。政治家は、表に出るばかりが仕事ではありません。庶民のためなら、その気になれば、御用聞きのようなことだっていくらもあります。やりたいなら、地を這ってでも庶民のために働いてください。それができれば本物です。

1.今朝の庭で。
    

2.これも今朝  
    

3.葉の先を見てください。
   

4.壁に1cmもない小さな虫さんがいました。
   

5.18時の月
    

 では、ここで。

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No.318 昭和の子らは敬老席に

2024-10-30 00:10:35 | 追憶
(1)今朝のわが家の収穫物です。今年はアケビがたくさんなりました。歴史的なことなので、歴史的選挙結果を報じた新聞上で一緒に撮りました。

   

(2)アケビは、近所の家の垣根に実が成り下がっているのを見ていいなと思い、種を西の垣根沿いに播いておいたところ、ようやく食べられるまでに育ちました。
 このブログのNo.28~31〔去年の12月23日頃〕で書きましたが、コロナ蔓延の前に山梨県の鶯宿〔おうしゅく〕に神足勝記の足跡を訪ねました。(神足がここを巡回していることは『御料局測量課長 神足勝記日記』(J-FIC)の13~15㌻に紹介しておきましたからご覧ください。)
その時、明神峠や、市川大門に近い方のバス停のすぐ上にアケビがたわわに成っていましたから、その場で2~3個を食べ、5~6個を持って帰り、ツルが伸びたら西日の日除けになってくれるだけでもいいからと播いておいたものです。

    
    10月初頭のアケビ:10個くらい見えます

(3)去年初めて実をつけました。それで、毎日一つ一つ確かめるように成長を楽しみにしていましたが、10個くらいあった実がポロポロと落ちていってしまい、とうとう一つも育ちませんでした。
 今年はどうかなと待っていると、数えられないくらいあちこちに実をつけているのがわかりました。しかし、トラウマというほどではありませんが、昨年だいぶがっかりさせられましたから、今年はどうなるかな、虫に食われたり、台風で落ちなければいいなと思って見ていると、その被害はまったくなく、都合60個ほど取れました。
 ご近所に3~5個ずつ配って、自分でも10個くらいは食べたでしょうか。あとまだ5個くらいはついているようです。
 
(4)ちなみに、柿も豊作でした。これはNo.303で写真を載せましたが、一枝に10~20個くらいの実が鈴なりに成って、木全体が枝垂れ状態に成り下がりました。
 しかし、これは渋柿なので、カミさんが「甘くなれ、甘くなれ」と呪文を唱えながら皮を剥いて干し柿に仕立てています。ご近所からもいただくので、300~400個くらいにはなるでしょうか。手間はかかりますが、出来上がると、まあなんとも言えないおいしさです。

    
     赤い袋はムカゴ:このほかに2袋取れました

【コレクション 101 昭和の時代】
1.今日は一日選挙結果を考えていました。
 まず、自公・維新は票を減らしました。これは当然です。
 それから、日本共産党は、裏金問題のスクープで今回の選挙のキッカケを作り、非公認候補への2000万円振込スクープで自公にとどめを刺し、振り役とも思えたのに票も議席も減りました。これはなぜか。
 といって、議席を増やした立憲民主党が票を伸ばしたかというと、ほとんど横ばいです。
 結局、国民民主党・れいわ・保守党が躍進しましたが、その理由は、既成政党でないところに、若者層の票が動いた?ように見えます。
 キャスティングボードを握ったとも見えるこれらの党がどう動くか、そこで各党の性格がより鮮明になってくるでしょう。しかし、すでに国民民主党は比例の3議席のうち2議席を自公に、1議席を立憲民主党に渡しました。すでに天秤は自公に傾いているようです。

2.前置きが長くなりました。少し昭和のものを紹介します。
 60年ほど前の昭和の時代は、まだこの写真のような生活が普通でした。今われわれの生活にふつうにある電化製品でこのころあったものは・・・なにもない?・・・でしょう。



 このパンフレットの大きさは、A4判6㌻です。A4判3枚分の横長の用紙を、最初に左から3分の1を折り込み、次に右から3分の1を折り込むとできます。
 全体は、
 1㌻ 上掲
 2~5㌻ 内容見本
   *5㌻を下に載せました。
   ここに映っている子どもたちは現在の70~80代くらい。
   左上の写真の人たちは80代くらい、右の家族のお父さんお母さんは90~100代。



 6㌻ 本書の特色 主な内容 装丁見本
    刊行案内 A4判288㌻ 定価:4410円 
         2005年7月刊 小学館  ()

 以上です。
 きょうはここで。

     

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No.285 佐藤多持

2024-09-06 23:56:03 | 追憶
(1)2024年ももう3分の2が終わり、残り4ヶ月、9月に入りました。
 残り4か月はどんなことになるでしょうか。
 今年は、正月から地震が多発し、先日の台風とそれに伴う大雨まで、引っ切り無しにあちこちでいろいろな災害がありましたし、連日「猛暑アラート」が続きましたから、本当に先が思いやられます。

(2)では、いまの日本で起こってないのはなんでしょうか。
 原発事故は3・11地震の時にありました。竜巻も最近はよく見ます。堤防の決壊や溢水は、「降ればどしゃ降り」というのが普通ですから、どこで発生するかという違いだけで、日常茶飯事?です。今年は飛行機事故もありました。
 そうすると、今の日本で起こってないのは「戦争」ですか???

(3)でもね、あの朝鮮戦争でも実は日本人が死んでますし、最近ではイラク派兵でも、帰還してから自殺した隊員が何人もいますから、無関係というわけではないんですね。
 おまけに、北方領土でプーチンがちょっと不穏ですし、尖閣諸島周辺でもイヤな感じです。

(4)ウクライナやガザなどの砲撃を見れば、あの建物一つ一つをこれから復興していくわけですから、どれだけ手間のかかる悲惨なことを、ロシアやイスラエルが金をかけてやっているか、それをアメリカなどが軍事支援しているかがわかると思います。

    

【コレクション 80】
 きょうは、佐藤多持『戦時下の絵日記 ーある美術教師の青春ー』です。
 大きさはB5判、4㌻です。
 私は、この本を市民図書館で見たように記憶していますが、きょう検索したところ見当たりませんでした。しかし、ちょっと足を延ばせば見られることがわかりましたから、久しぶりに見に行きたいと思います。
 検索したところ、遠いところでは宮崎県立図書館の所蔵が確認できましたが、あまり知られていないかもしれません。それもあって、4㌻分を下に載せることにしました。
 なお、この画家の作品は『多摩のあゆみ』(多摩信用金庫)の表紙を飾ったこともありますから、そちらでご覧になったという方もあるかもしれません。 
       1㌻

 
 収集日・場所が「1985年7月8日 立川」とあります。この本の出版が昭和60〔1985〕年6月ですから、刊行直後の、今から39年前となります。
 
          左2㌻ 
 花壇の推薦文は、縦書きですから、3㌻から始めて2㌻に続きます。                     

          3㌻

     4㌻ 
 略歴が読めるように、少し大きくなるように加工しましたから、読んでみてください。


 一言。
 立川は、駅も周辺も、今とはガラッと違います。
 それはまたいずれかの機会に。

 きょうはここで。

   
     二筋の雲 穏やかに :きのうの西の空
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No.278 マツノ書店

2024-08-31 00:09:31 | 追憶
(1)いま台風の中心は中国四国地方にあるようですが、ずっと離れた関東でも被害が出ていて、広域的に警戒が呼びかけられています。なんとか注意して頑張っていただきたいと思います。

(2)昼ごろ、テレビ番組を見ていたところ、台風が愛媛県付近にあるとを報じていました。
 地図が出て来ると、「神足勝記が歩いたか」、「自分は行ったか」、ということを思い浮かべながら見ることが普通ですが、私は中国・四国地方に行ったことがありませんし、また、神足は、宮島・厳島神社に参詣したのちは、島根県の方に山越えして、日本海側に沿ってぐるりと回り、赤間関〔あかまがせき:下関〕・小倉の方に巡回していて、瀬戸内海はもっぱら船で移動していましたから、私は漠然と位置確認をしているだけでしたが、しばらくして周南市のマツノ書店のことを思い出しました。

(3)マツノ書店は周南市銀座2ー13にある古書店です。もし自宅の近くに在れば、出かけた帰りには必ず立ち寄るであろうような魅力的なお店です。もちろん、行ったことはありませんが、いただいたパンフで見る限りではそういう雰囲気のお店です。古書の売買だけでなく、「維新史料の復刻・出版」にも長年取り組んでこられた有名店です。

(4)私がマツノ書店から「目録・刊行案内・お知らせ」をいただくようになったのは、1995年末か96年初めにお電話を差し上げてからです。そして(途中はまた別の機会にしますが)、2018年8月に店主の松村久氏が逝去されるまで約20年間の長きにわたりました。
 この間、マツノさんからいただいたものはすべて専用の箱に取ってありますが、今日見たところ、その最初と最後のものが見つかりましたから、下に紹介しましょう。
 左が松村健様よりの「ご挨拶」、右が私の電話への「ご返事」です。
 


 また、マツノさんはミニコミのパンフを何種類か発行されていました。送っていただいたものすべてが手元に残っていますので、その中から、最初に送っていただいた「防長 火車日誌 ’95/12」(170×110mm 4㌻)を裏表とも載せておきます。時間がある方はどうぞお読みください。
  1㌻                    4㌻ 
   3㌻                   2㌻ 

 私は、マツノさんが復刻刊行されるのに合わせて、すでに入手困難になっていた稀覯本を順々に揃えることができました。いま棚を見ると、優に3段分を越える量に及んでいます。そしてその最初のものが、高杉晋作の『奇兵隊日記』だったようです。

 きょうは、台風の余波・・・です。
 みなさん、お気をつけてお過ごしください。では。

   
     日傘?
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No.276 水害・恩賜林 

2024-08-28 23:59:12 | 追憶
(1)現在、九州地方南部に、これまでで最強といわれる台風が到来しています。みなさん、対応に追われていることでしょう。
 台風の中心は現在のところ九州の島しょ部ですが、今後西から東へと向きを変えて日本列島を縦断するかもしれないと推定されていて、どんな被害に見舞われるか余談を許しません。
 みなさん気をつけて下さい。我が家では、先日に続いて今回も庇を全部外しました。

(2)先日も山形・秋田両県で水害があったばかりですが、ここ10年ほどでも、温暖化の影響で、全国で無数の水害に見舞われました。記録画像を見ると、たいがいどれも記憶が蘇ってきます。ところが、私は、幸いにもまだ辺り一面が海になるというような水害に見舞われたことがありません。ですから、原体験としての水害とでも言いましょうか、水害といって頭に浮かぶのは、およそ次の3つです。

(3)一つは、群馬県藤岡市の水害です。
 藤岡市では、西の富岡市の方から流下してくる鏑川〔かぶらかわ〕に、南西の山地から流下してくる鮎川〔あゆがわ〕が市の北西で合流します。このあと、鏑川はすぐに烏川〔からすがわ〕に合流し、烏川は利根川に合流していきます。
 いつのことかもう忘れてしまいましたが、母から聞いた話なので、昭和初期か大正でしょうか。このころはまだ多野郡藤岡町といっていた時代です。
 この鮎川の堤防が、奥の山地に降った雨のために決壊したそうです。そのためにあたりが水浸しになったと。

(4)もう一つは、70年頃に読んだプロレタリア作家の谷口善太郎という人の作品を読んだときのことです。うまい作品とは思いませんでしたが、その中に京都の宇治川が、これも上流の山地に降った雨のために氾濫をおこしたことが書いてありました。
 町が一面の海と化して、上流から家が流されてきたので見ると、生き物も必死にしがみついていたなどということがリアルに描かれていたことです。
 残念ながら、本が見つからないので記憶だけです。

(5)3つ目は、山梨県の御料地に関してです。
 これは、研究も進んでいて、検索するといろいろなものを読むこともできます。
 たとえば、下に載せた、書名の『明治40年大水害実記』や、副題の「武田千代三郎」で検索しみてください。
    

 この本は、同名の本の現代語訳なども含めた復刻版です。A5判87㌻、編集者丸山太一・熊谷喜孝、発行者長田組土木㏍、平成13〔2001〕年発行、非売品です。

(6)「山梨県には国有地がない」というのはウソですが、山梨県の山林は現在ではほとんどが県有林です。これは、明治20年代の初めにそれまでの官有林・官有地〔現在の国有地・国有林〕がほとんどすべて御料地に編入されました。すると、それまでの入会地などの山林利用に制限が加えられたため、県民の反発・抵抗がはじまり、山が荒れる原因となりました。その結果、山の保水力が低下することなり、明治30年代末~40年に、笛吹川など大河川が氾濫するようになりました。その結果、山梨県の御料地・御料林は、甲府市北側の一帯を残して、ほぼ全部が山梨県に下賜されることとなりました。これが、現在は恩賜県有林と呼ばれて県によって管理されている林です。そして、残された御料林が戦後になって国有林に移管されました。
 なお、この「下賜」についての私の評価は、本ブログのNo.42にあたる「恩賜林:御料林の下賜」で書きました。ここでは略します。

(7)甲府市へ行くと、駅南にある城跡に次の写真の記念碑があるのがわかります。写真の出典は『上記書』の口絵です。
 左が「謝恩碑」、右は水害の際に「住民96人が3日間難を逃れたという柿の木」です。説明が読めると思いますのでどうぞ。



きょうはここまでです。 

     
     こんな天気で・・・でも元気です
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