神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.247 大久保利謙

2024-07-31 23:10:09 | 文書・文献
 ロシアのウクライナ侵略はまだ終わりが見えません。一方、イスラエルはガザへの爆撃をやめないだけでなく、ハマスの指導者を殺害するに至りました。
 いま世界はオリンピックで沸いていますが、私は今が危険な状況だと思います。
 というのは、プーチンは窮地に立っているはずなのに譲りませんし、ネタニヤフもまだ停戦する気などありません。
 一方、英国は政権交代し、EUは各国ともちょっと前と様相が変わってきています。
 そして、アメリカは、大統領選の帰趨がはっきりするまでに虚を突かれかねません。もちろん、トランプよりハリスの方が「よりまし」と思いますが、バイデンとははっきり雰囲気が違っいます。アメリカの選挙の仕方を見ていると、後世から、「バイデンの引退が分かれ道だった」といわれる事態にならなければよいと危惧しています。
 また、日本の首相はその無能さを見透かされていますし、与党は腐敗の極みです。おまけに自衛隊は、シビリアン・コントロールが怪しい腐敗した実態であることが暴露されるとともに、事実上、米軍の指揮下に入りました。何かあれば、アメリカの判断でいっぺんで日本も巻き込まれます。
 もちろん、アセアンなどのアジア・アフリカの諸国の外交が活発化していて、その方向を支持したいと思いますが、本当に難しい。
 ロシアに「窮鼠猫を噛む」という事態が迫っていないか、心配です。
 
【コレクション 35】
(1)きょうは、大久保利謙〔としあき〕歴史著作集です。
 もう、名実ともに雲の上の人なので、大久保さんと呼ぶことにしますが、大久保さんは、下に年譜を載せましたが、1900年1月に生まれ、1995年12月に亡くなりました。大久保利通の孫です。
もちろん、この人の業績を見るにおいて、それは関係ないといってよいでしょう。 


 このパンフレットは、B5判大、8㌻で構成されています。
 横長の用紙を4等分し、最初に左右から4分の1ずつを谷折りし、できたものをさらに二つ折りするとできます。
 全体は、1㌻は上掲。
 次に広げると、見開きで2㌻目と7㌻目になります。
 この、上3分の1に 
   遠山茂樹 編集委員代表 刊行にあたって (下に掲載。後半4分の1は割愛)
  
 下3分の2に、次の4氏の推薦文
  伊藤 隆 東京大学教授 学界の共有財産
  小西四郎 前東京大学教授 手堅い実証史学
  奈良元辰也 歴史家 有難いことである。
  松本清張 作家 大久保史学の凝集

 次に、これをもう一度開くと、3㌻~6㌻見開きとなり、
  『大久保利謙歴史著作集 全8巻』の内容紹介(主要内容)
  大久保利謙略年譜(下掲)
  大久保利謙主要著作目録(下掲)
  関連写真7枚


 最後に8㌻は装丁見本と刊行案内。
   A5判 平均450㌻ 予価平均5800円 1986年1月第1回発売 吉川弘文館

(2)さて、大久保利謙先生は、私が立教大学の修士課程にいた頃にはご健在で、文学部の友人との話に出たり、国学院大学の梧陰文庫研究会に参加をさせていただいた折に噂を伺ったことがあります。立教のキャンパスでお姿を拝見したことがあるようにも思うのですが、自信がありません。お話しする機会はありませんでした。著作は、『岩倉使節の研究』のほか、華族制度に関するもの探してコピーを作って読みました。
 こういうパンフレットは、持っていて見るだけで身が引き締まる、よいものです。

 では、この辺で。

   
    覚円峰:山梨昇仙峡
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No.247 酒に申しわけない

2024-07-31 00:04:33 | 余録
(1)このブログは『御料局測量課長 神足勝記日記』日本林業調査会(J-FIC)の宣伝のために始めたものです。宣伝といっても、もともと、こういう学術的な刊行物は、ごくごく限られた範囲の関係者・研究者・研究機関・図書館・資料館などに行き渡ればよいので、ベスト・セラーズのように最大限を狙って発行しているわけではありませんから、質素なものです。
 広告らしいものといえば、出版元が刊行している『林政ニュース』のほか、『山林』(大日本山林会),『測量』(日本測量協会)、『森林組合』(全国森林組合連合会)、『藝林』(藝林会)、『GSJ地質ニュース』(産業技術総合研究所 地質調査総合センター)などに「新刊紹介」を掲載していただきました。関係者にはお礼を申し上げる次第です。(未確認ですが、このほかにもいくらか紹介していただいています。)
 もしまだ皆さんの関係する所で気が付いていないようでした知らせてあげてください。とくに、郷土史などではこれまでほとんど御料地との関係が研究されていません。その理由にはいくらか理由がありますが、皇室財産問題が、規模の大きさをいって終わりというような、興味本位に扱われてきていること、図書館の人が、本の扱いを知っていても、御料地を知らないとか、関心をもっていないなどがあります。これから必要となるものですから、もうそろそろ難しくなる旨を話してあげてください。

(2)・・・ということを言うために始めたブログなのに、どんな見られ方をしているかというと、たとえば、きのうは次のような調子です。


 こういうふうに、昼も夜も、ある一定の時間帯に増えるのです。
 でもこれは、真夜中の1~2時のことです。どんな皆さんでしょうか。

(3)以前はもっと少なかったですが、このごろは、1日に100人前後、2日で150~250人、1週間で600~700人、といった多くの皆さんが開いてくれています。
 これだけの人がいると、ポイントがずいぶんもらえるらしいですが、私は、副産物や余録は無関心で、開いた人に写真だけでも見てもらえれば良いので、とんと無関心です。
 そういうことなので、いまだに機械操作などに戸惑うことが多いです。ときどき、思うように動かず、難儀します。

(4)もう一つ上げましょう。  


 これは、2週間ちょっと前のことですが、19時から20時半ころに集中しています。おそらく、親睦会か何かの席で、どなたかが話題にされて、冷やかしで「話のタネ」になったのでしょう。
 私はすでに今どきの酒席とは縁遠くなりましたから、会のようすを想像することもできませんが、かれこれ2時間近くも持ちきりになっていたわけですから、「さぞマズイ酒になったことが偲ばれ」、本当に〔酒に〕申し訳ない気がします。それにしても、どこに関心を持ったのでしょうねぇ。

(5)ブログには、「コメント」を書く欄があります。
 私もほかの人のブログに書いて送ったことが何回もありますが、自分のブログに対しては、これまでもう250回近く書いているのに、一度も届いたことがありません。
 このブログの目的が、『神足日記』を必要とする人に刊行を知らせたいということが主眼ですから、とくに ”I love you ! " といってほしいわけでないので、とくに求めているわけでないですが、無批判というのも変なものです。いとゼイタク。

(6)でもね、ある時、ふと見ると、「いいね」欄が「0」から「1」になってました。
 「おッ、やっときた!」と感激して見たところ、誤操作とがわかり、
 「そうか。手が自然に押したんだな・・・」。
 〽じっと 手を見る

    

 きょうは、あらぬ方へ行ってしまいました。
 また、明日に。
 〽あし~たがある~さ あすがある~
 
 付け文したあの子はを元気かな~?
 えッ? 
 付け文って何かって?
 「古典乙2」を勉強してください・・・。

 
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No.246 江戸時代の紙幣

2024-07-29 22:52:39 | 文書・文献
 なんともまあアツイ。オリンピックも、戦争・紛争も、政権への執念も。
 ああいう人が市長をやってたのか、ああいう人がまだ知事をやってるのか、ああいう人がまた知事になったのか・・・なんか苦しくなります。

 「ウソも100ペンいえば真実になる、とかいってうそぶいた人がいたねぇ。
  ホントのことがホントになるには、どうすりゃあいいんだろうねぇ。」
 「そりゃかんたんだよ。
  ホントのことが好きな人を増やすことだょ。」
 「ウ~ム!」

 しかし、その一方で、ウクライナやガザの犠牲は拡大するばかり、身近の日本は完全に災害列島になりました。いまは、酒田・秋田。ちょっと前は石川・富山。その前は・・・。
 いや、もうそろそろ東京の番になるのでは? いやですねぇ。

 進むのは軍事ばかり。増えるのは無能な政治家ばかり・・・。
 減るのは、国民の実質チンギンとネンキン・・・。

【コレクション 33】
(1) きょうは、『江戸時代の貨幣』です。  


 このパンフレットは、A4判大(A3の用紙を二つ折り)で、全体4㌻です。このパンフレットでは、上の1㌻目に、刊行案内・刊行予定・内容紹介・特色など、すべてのことが書かれています。なお、この本の出版年は記載されていませんが、1993年のようです。
 最大限の大きさにしておきましたから、お読みください。 
 一応、構成を説明しておきます。
 1㌻ 上掲
 2㌻ 下に掲載。原寸大の紙幣図〔内容見本〕です。

 3㌻ 2㌻と同様の紙幣図なので【略】します。
 4㌻ 畿内で発行されていた紙幣の一覧表
 以上です。

(2)No.243で『江戸商売図絵』をとりあげましたが、商品の売買が存在するとことが資本主義経済が行われる前提です。上の1㌻目に説明があるように、江戸時代には、幕府による金・銀・銭の「正貨」のほか、各藩による「藩札」、寺社や富商による「私札」が売買や貸借の仲立ちをしていました。
 これには、自然発生的な商品・貨幣経済の発展の面と、豊臣秀吉から徳川幕府のかけての封建制後の確立に伴う武士層の都市生活者(サラリーマン)化、参勤交代、藩の普請事業、特産物の専売事業化など、幕府や藩自体が促進した商品・貨幣経済化の面とがない交ぜになって起こってきたことが背景にあります。
 少し先走りますが、封建社会の確立・発展自体が商品経済を促進する役目を果たし、その結果、各藩はどこも財政状態が悪化し、それをまかなうために自前で藩債を発行してしのごうとしますが、うまくいきません。それだけでなく、藩債の乱発が幕末・維新期にインフレを引き起こす要因の一つになり、そのインフレを鎮めるために明治政府がとった財政引き締め策〔松方デフレ〕によって経済が不景気となった結果、無産となった人々が都市に吐き出され、資本主義経済に本格的に向かっていくことになります。 

【コレクション 34】
(1)もう一つは、「府県概則」です。

 このパンフレットは、B5判大(B4の用紙を二つ折り)で、全体4㌻です。
 全体は、
 1㌻ 上掲
 2㌻ 上段 石井良助 監修者 東京大学名誉教授 魅了する画期的的史料
    下段 刊行によせて 
 3㌻ 内容構成 組見本
 4㌻ 推薦文
     林修三(元内閣法制局長官) 「府県概則」を推賞する
     小西四郎(元東京大学教授) 地方を如実に反映する
 以上です。

(2)上に書いたことで大事なことは、封建社会の発展・確立そのものが、封建社会を突き崩す商品・貨幣経済を発展させるということです。
 そうして生み出されてきた近代社会の政府は、こんどは自分の足元の状態を知り確認することから始めるわけです。上の石井良助さんが次のように書いています。
「「府県資料」が国史編集の一環として編集されたのに対して、「府県概則」は政務処理の必要上、各府県の現行の規則を提出させ、編集したものである。庶務、聴訟、租税、出納の4門に大別し、さらに34の綱目に分けて、地方政治の要領を記載するもので、各府県の現行の規則〔明治3年より6年まで〕が集められている。」
 このころの地方認識や欧米認識がその後の日本を形成していったわけですから、需要文書です。
 今日はここで。

    
 
 
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No.245 多摩川汗顔

2024-07-28 23:35:52 | あそび
(1)「きょうもぜったい出るぞ!」と決めて、3時まで頑張って3時半に出ました。
 この時期、外に出かけて涼しい処は、1.図書館、2.デパート、3.スーパー・・・となりますが、結局また多摩川に行くことにしました。

(2)着いて、いつもと違う河川敷を歩いていると、ガマの穂が群生してました。あまりに多いので、いちばん端の1本を撮ってきました。
     

(3)それからだんだんと遡って行くと、実をたくさんつけた灌木がありました。
 木のようすから、「クコ」だろうと思いましたが、葉のようすからすると自信がありません。これは、秋の到来を待つことにしましょう。
 〽あ~きよこい あ~きよこい たまがわべ~りのくこのみの~
     

(4)それからまたしばらく歩いて、藪をのぞきこむと、『カムイ伝』の世界みたいな生存競争が見えました。いや、じつに素晴らしい。いいものを見ました。
 「えっ、どこがいいかって?」
 「ガンガンやってるところですよ。おまけに陽に照らされて・・・。」
 〽ナ負けるな 一茶これにあり
     

(5)それから、またしばらく歩いて八高線の脇につくと、コモド〔子供〕ドラゴンに連れられてきたお父さんお母さんがくつろいでいる上を、上りの八高線がガタゴトと通過しました。
 いつもと違った雰囲気を味わえて、出かけただけのことがありました。
 平和が大事。ロシアも、イスラエルも、早く目覚めよ!
     

(6)それから、八高線をくぐって上流に回ると、東南アジア系のワカラン人が、ラップのような、ゴチョゴチョしゃべるだけの音楽を聴きながら、ビールをうまそうに飲んでました。
 その人達かどうかわかりませんが、独特のメンの残りを川に流して帰りました。
 これは儒教の影響なのか、仏教の影響なのか・・・。やはり、「水に流す」んですね?
 えっ、関係ない?
 と思っていると、下りの八高線が通りました。向こうに多摩大橋が見えます。
     

(7)ヒトが楽しんでいるところを邪魔しては申し訳ないので、水の中を少し上流へ移動して立っていると、突然、ウグイスが「あっちへ行け、あっちへ行け」と言い出しました。
 「五月蠅いな、いまはもう七月なんだぞ」
 と、ウグイス語で言ってやりましたが、ラチが明かないので、また少し上流へ移動して水際に立っていると、こんどは歓迎されました。

(8)トリさんが向こうの草陰に降り、こっちをみて挨拶しました。
    

(9)ハ~イと挨拶すると、こっちへ歩いてきて、姿を水に映してみせました。
     

(10)それを見て「きれい、キレイ」と喜ぶと、さらにこっちへ来ました。しかも、水に全身を写しながらです。
 首をかしげていますねぇ。わたしの機嫌を伺っているんですねぇ。
     

(11)それからこっちへ歩いてきて、姿見をしてモジモジしてました。
     

(12)私は、トリさんがあまりの速さで迫ってきたので、何語を話せばよいか戸惑っていました。
 でも、この時、バイデン大統領が、後継に指名したハリスさんに ”I love you ! "ッて言っていたの思い出しました。そして、
 「そうだアレを使ってみよう、使うなら今だ。」
 とばかりに真似してたところ、
 「ふん」
 と、横を向かれてしまいました。
     

(13)トリ返しのつかない、アツイ日となりました。 
     
 
 今日は、ここで。
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No.244 ペスタロッチ

2024-07-28 00:07:15 | 追憶
(1)きょう、夕食時に7時のニュースを見ようとテレビをつけると、オリンピックの柔道をやってました。見ると、男子60kg級の準々決勝でした。
 私も、中学の頃は柔道を少しやりましたから、一応のルールはわかります。
 観ていると、寝技に入り込んで、外国人選手が日本人選手を絞めはじめました。しかし、日本人選手が相手の足をしっかりとらえていて、膠着状態になっていました。
 こういう場合、審判は「待て」と宣告して立ち技からやり直しをさせるものですが、なかなか中断させません。状況をどう判定するかは審判次第です。ようやく「待て」と宣告しました。
 ところが、どうしたことか、外人選手は止めずに攻め続けました。その間3~5秒ありました。そうして二人の体が離れましたが、その時、日本人の選手は、一瞬畳の上にあおむけになりました。すると、審判は、「待て」の後も攻め続けた外国人選手を責めるのでなく、あおむけになった日本人選手をみて、「絞め技で落ちた」と判定したようで、相手選手の勝ちを宣告しました。
 これには当の日本人選手は納得がいかず、協議後の握手もしませんでしたし、長いこと畳の上を往復して抗議の意思を示していました。しかし、なすすべなく、受け入れざるを得ませんでした。
 見ていたかぎりでは、誤審と思いました。ただし、選手は、試合中は一瞬たりとも畳の上であおむけになるべきではありません。これは心構えの問題としてです。

(2)というわけで、昔から私が応援するとその選手はだいたい失敗するか負けるので、いまはもうほとんど見ません。見るのはニュースでくらいのものです。たまたまみても、それでも今日のようなことが起こりますから、後味が悪い・・・。

    

【コレクション 32】
(1)きょうはペスタロッチです。
 「No.236 アンナ」で『ペスタロッチにふさわしき妻アンナ』(ザイファルト著 長田新訳 玉川大学出版部 1957年)の記憶のことを書きました。
 ペスタロッチについては、いつのことであったか、古書店で『隠者の夕暮 シュタンツだより』(ペスタロッチー著 長田新訳 岩波文庫 1996年)に気が付いたので買って読んだくらいで、このほかには、ペスタロッチについても、教育についても語るだけのものは持っていません。しかし、確かパンフレットを持っていたはずだと気が付いて探したところ出てきました。次のものです。
 なお、私が記憶していた書名では「ペスタロッチ」でしたが、下のパンフレットも上の文庫版も「ペスタロッチー」です。
    

(2)このパンフレットは、B4判用紙を二つ折りしたものでB5判大で、表紙とも4㌻です。体裁は、
 1㌻ 上掲
 2㌻ 上段 岩波書店 復刻にあたって
    下段 長田新 ペスタロッチー傳を送り出して 〔下に掲載〕
 
 
 3㌻ 組方見本
 4㌻ 刊行案内 1985年1月刊 平均566㌻ 全5巻33000円 信山社
    装丁見本
 以上です。

(3)父は、小原国芳の「全人教育」という考え方に共鳴して、私を玉川学園の小学校に入学させたいと考えていたと話したことがありました。しかし、小学生に一人で親元を離れて、寮なり寄宿舎で生活させるなど、そもそも経済的にできるはずがありませんでしたから、次善の策として、少しでも町に近い母方の実家から藤岡市立藤岡小学校へ入学させる途を選んだのだと思われます。

(4)3年生からは一緒に住むようになりますが、1・2年は祖母のもとから通学したわけです。しかし、私の幼少時は野山を駆けずり廻るばかりの生活で、勉強する習慣がありませんでしたから、父はがっかりしたと思います。
 「父兄会」といわれた当時のこと、母が学校に面談に行くと、担任が「家でどのくらい勉強させているか」と聞いたそうで、これに対して「勉強などしたことがないです。帰るなりカバンを放り投げて遊びにいってしまいます」と答えたところ、「家で何もやらずに、学校の勉強だけであれだけ出来ればたいしたものだ」、「やればもっとできるようになる」と言ったとか・・・。

(5)そればかりか、小学校高学年になるとますますそれが進んで、日々に化石・石器・土器などを探しにうろついているばかりか、おまけに、悪意はなかったものの、ひと騒ぎもふた騒ぎも起こしてしまうので、「自分の子はほかのことは違う」と自慢して育てようとしていた父も、辟易していたかもしれません。
 これは、自分が子育てをしてみてわかるようになったことです。同時に、『隠者の夕暮 シュタンツだより』を拾い読みして気が付いたことでもあります。
 子は親から様々な影響を受けますが、親も子から多くを学びます。ものごと、何か一方的に作用するということはありません。必ず相互作用の中にあります。そう考えると、父には気の毒なほど不出来な子であったかも知れないと思われ、この年になって申し訳なく思うことがあります。
 過ぎてしまったことではありますが、年の功で見えてくるものもありますねぇ。
 では、ここで。
 
    
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