神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.216 メキシコ万歳(追記)

2024-06-29 22:12:29 | 好奇心
【コレクション 7】
   
    B5判、表紙を含め36ページ。1980年4月発行。定価300円。

 メキシコ万歳は、No.191で採り上げました。その時はこのパンフレットが出こなかったので、入場券だけを紹介しました。話の筋などは、検索で見てください。
 パンフレットの内容は、次のようになっています。
 1.随想 牛原虚彦 「失われたエイゼンシュテイン映画」
 2.映画解説 
 3.作家研究 
    山田和夫 「エイゼンシュテインと「メキシコ万歳」」
    利根山光彦 「エイゼンシュテインとメキシコの画家たち」
 4.対談;エイゼンシュテインの思い出 衣笠貞之助。〔聞き手〕岩崎昶
 5.セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の作品総目録
 6.グリゴリー・アレクサンドロフ監督作品総目録
 7.シナリオ メキシコ万歳

 この映画は1931年にセルゲイ・エイゼンシュテインによって撮影されましたが、事実上放置され、1979年に当初予定の一部が未撮影のまま、完成されました。
 この映画が岩波ホールで上映されたのは1980年です。いち早く上映されたことになります。その時の入場券は前に乗せました。チラシが残っていますからそれを紹介します。
    
      B5判
 
 エイゼンシュテインの作品は、池袋や飯田橋にあったの名画座で、戦艦ポチョムキンやイワン雷帝などを見ましたが、その中でも、メキシコ万歳は、大土地所有制・地主制からの解放運動の難しさをリアルに描いて、その印象は強烈でした。

(1)沖縄の事件、被害者には気の毒ですが、日本の政府の対応はなんとも屈辱的です。
 これまでにももう何度も同様の事件が繰り返されてきたのに日本の司法が十分に及びません。
 PFAS問題では、汚染源と疑われているにもかかわらず、立ち入り調査など難航しています。
 憲法違反の自衛隊が、米軍の指揮の下に入って軍事行動をする事態になっています。
 その他、私のところなどは、横田基地からの飛行機・戦闘機の飛来、立川基地とのヘリの往来などに伴う騒音がしばしばあり、落下も危惧されています。米軍や自衛隊に守られているというよりも、その存在自体が不安やキケンの原因になっています。
 防衛費もすでに年8兆円です。国民一人平均8万円の負担、4人家族なら32万円です。

(2)『御料局測量課長 神足勝記日記』(JーFIC)にも時々出てきますが、私はいま『進退録』を調べています。すると、どの人も途中で休職や退職(のちに復職)します。なぜかというと、「一年志願兵」とか「充員召集」とかいって、要するに軍人になるわけです。
 中には、昔のことなので、小学校を出てすぐには就職する人もいますが、その場合は、給仕くらいしか見つかりません。すでにその程度ではすぐには使い物にならないので、すぐには思い通りの就職先が見つからないため、とりあえず入隊ということもあります。つまり、就職先兼ハクをつける機会だったわけです。そして、そこで自分に付加価値を付け、新しい人間関係を作って、除隊後に次の就職先にありつくわけです。あるいは、軍隊経験も在職期間に換算されて昇給の材料とされました。
 これには、過酷な試練に耐えた証として社会的に認知されていくということもあったでしょう。たとえば、戦前も『職員録』というのが発行されていました。国家公務員や地方公務員の年々の職員名簿ですが、これを見ると、その人の軍隊での階級が必ず肩書きとして記されています。

(3)もっとも、同じく御料局(にちに帝室林野局)でも、大学出は将校(尉官)として、農林学校は現場の指揮官(軍曹など)、それ以下は上等兵なら良い方とでもいうように格差があります。
 指揮官としての訓練のために徴兵される人がいる一方、農林学校卒業後、一年ほど支局の出張所に赴任したくらいで徴兵されて、満州を転戦してから南方へ送られ、そのままレイテ島で「名誉の戦死」という人もいます。
 いま、戦争の米軍の指揮下に自衛隊が入りました。今後、アメリカの一翼となっての戦争の危険性が高まれば、自衛隊員の希望者が減るでしょう。その欠員はどうするのか。いないでは済まされないというこわもての主張が出て来るとすれば、あるのは徴兵です。怖いですねえ。

(5)だいぶ話が違うと思われるかもしれませんけど、私は、人手不足だからといって、やたらと実習生だとか、研修生だとかいって、ヒドイ条件で外国人(だいたいアジアの途上国(貧困国)の人)を入れる姿勢を見るとき、あれは体の良い徴兵ではないかと心配して見ています。
 どうして?
 「政府の無策を、社会的弱者を駆り出すことで穴埋め(切り抜けようと)する」からです。
 いま、それに疲れて犯罪に走る「外国人」が増えてませんか。
 太陽光の銅線を窃盗する・・・、あちこちの空き巣狙いをする・・・、「知恵を働かせて」サギをする・・・。「食えないから」、苦肉の策として犯罪に走る。深刻です。
 「ヤスモノ買い(安易な外国人導入)の、銭(日本国民の給与水準引き上げの機会)を失い」。

(6)きょうは、午後から陽が出たので、多摩川へ合歓の木の花を見に行きました。
 バッテリーがなくなるまで撮りました。では、1枚だけ。  
   

(7)帰りに多摩川べりによると、青年がバーべキューをしていました。
 すると、突然、ひとりが、「イッキ、イッキ」と言い出しました。
 これは大変と思い振り向くと、別の一人が、
 「ダメダメ・・・、アブナイ、アブナイ」と。
 安心してまわりの藪を見ていると、ケムリが漂う横の植え込みにテントウムシさんがいました。でも、テンは左右に大きく1個ずつでした。
   
 
 いい日でした。では。
   
   空に雲あれ 雲には乗れぬが 夢は託せる
 

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No.213 魯迅

2024-06-26 23:03:30 | 好奇心


(1)きょうは富士山で4人も遭難死とのこと。どんな装備をしていたのか、どのくらいの経験があったのか、・・・本当に残念です。
 
(2)都知事選挙があらぬことになっています。
 いま騒いでいる人たちは、都知事選を別の目的のために悪用しています。実際、党首がそうだと言明していますし、テレビで放送された候補者の演説を見てもそう言っています。公然とハラスメント(迷惑行為)をおこなっているのですから非常に悪質です。
 というよりも、都民が都知事選出という重大な政治判断をおこなおうとしているときに、その妨害も辞さないというのは意図的犯罪です。
 さらに、そうだからといってその関係者を脅迫するのは重ねての犯罪ですし、事態を悪化させるものです。
 都知事選挙に対する迷惑行為にも犯罪行為にも毅然と抗議してやめさせましょう。

(3)さて、きょうは魯迅を取り上げます。
 まず、『魯迅全集』のパンフレットです。
         
    
 精悍でいいですね。
 大きさはB5判大です。1枚の紙を観音開きになるように4つに折り、8ページで構成されています。
 学習研究社が創立40周年記念事業として出版したことが左上に小さく記されていますが、昭和59(1984)年11月に第1回4冊を刊行し、その後、60年と8月に各5冊、12月に6冊を刊行したようです。
 中には、内容紹介のほかに、次の3文があります。
 1.「魯迅全集」編集委員会 「文学と人間を愛する人に捧げる」
 2.井上靖 「出版界における久々の快挙」
 3.松枝茂夫「今日望みうる最も完全な全集」
 このうち、編集委員会は次のように書いています。
 「私たちは、日本の魯迅研究の力を結集することを目指した。・・・魯迅は、・・・近代中国の夜明け前を生き、中国の生みの苦しみを苦しんだ人である。・・・いま大きく変貌しようとしている中国、その変化を通じて貫いている中国の心を知りたいと考える人に、中国の文化が、社会が、これからどこへ行くのかを考えたい人に、日本と中国の明日を大切なことと思う人に、そして文学と人間を愛するすべての人びとに、この全集をささげる。」

(4)実は、これより少し前の1976年10月、魯迅没後40周年を期して、竹内好訳の『魯迅文集』が筑摩書房から刊行されました。次のパンフレットはその時のものです。
   

 これも大きさはB5判大で、パンフレットの仕立ては上の『全集』のパンフと同じです。
 この2つのパンフレットは甲乙付け難く、なおかつ相互補完的なので、この2つがあれば、魯迅の生涯や著作はだいたい見当がつくでしょう。
 1976年10月に第1回配本があり、以下、隔月巻数順に配本されたようです。
 中身は、内様紹介と竹内好の「訳者のことば」のほか、次の4人の推薦文があります。これも、推薦者と、タイトルのみ記します。
 1.大江健三郎 「われわれのアジア文学」
 2.埴谷雄高 「竹内の魯迅か、魯迅の竹内か」
 3.色川大吉 「私たちの存在を激しく打つもの」
 4.武田泰淳 「空頭の文学者となるなかれ」

(5)私には魯迅を語るほどの蓄積はありませんが、いくらか思い出があります。
 30代の頃に上海・蘇州・香港に行く機会がありました。
 今の上海を思い浮かべると隔世の感がありますが、逆に言えば、まだ古きよき中国が上海にも残っていました。そういう処をあちこち歩いて、紅口〔ホンキュ〕公園に憩い、魯迅記念館を訪問しました。その時買ったのが次の切り絵です。
   
  
(6)東京の日野市に「自由書房」という古本屋がありました。
 授業の後に偶然見つけて以来しょっちゅう通い、ずいぶん投資しました。
 親父は、気がよく話好きで、正面のレジのところに座ってタバコをくゆらせているばかり。仕入れた本はというと、ゴミの山同然に積み上げておいて、見たければ、動かしていいですから、崩れるのを気をつけて、とかいうばかりで自分では何もしません。
 ある時、下の方からひょっこり『魯迅全集』が出てきました。状態は、下の方にあったために、たいしてホコリもかぶらす、少しこすれた跡があるもののマッサラでした。しかし、やや違和感がありましたから、縛ってあるヒモをほどいて中を見ると、中国語版でした。
 中国語版にも2種類あるようですが、これは、1987年3刷の「人民文学出版社」版でした。
 そこで、親父に、「こんなのが出て来たよ、いくら」と訊くと、1冊500円で1万円ときちんと計算はするので、考えていると、「7000円でいいや」というので、「老後の備えにもらっていきます」と言って引き取りました。もちろん、いまもマッサラです。中は一応眺めはしましたけど・・・。

 では。長くなりました。

   

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No.212 『人生案内』

2024-06-25 23:56:15 | 好奇心
(1)【コレクション 5】
 きのうの吉野作造の写真、いいでしょう?
 それから、吉野の同郷人に三浦篤(明治21〔1888〕年1月3日生)がいます。この人は戦前に宮内事務官になった人ですから、関心があるという人もあるでしょう。追加しておきます。
 
(2)きょう紹介するのは、映画『人生案内』のパンフレットです。
 この映画は、ソ連最初のトーキー映画として製作され、1931年6月11日にモスクワで封切され、東京では神田にあった岩波ホールで1975年5月1日~31日まで1ヶ月間上映されました。

   

 タイトルの『人生案内』は、直訳すると、「人生への優待券」ないし「人生への無料入場券」
というような意味です。
 写真上がセルゲーエフ役のニコライ・バターロフ、下がムスターファ役のイワン・クィルラです。
(3)映画の内容は、1917年革命から6年した23年ころのロシアにいた浮浪児の救済と挫折を取り上げたものです。
 政府は、社会児童保護委員会を組織して浮浪児の一斉収容を図りますが、脱走を図る少年が後を絶ちません。そこで、セルゲーエフは修道院を改築して自治工場を設営し、ムスターファたちを働かせます。彼らは、靴やカバンの生産に喜びを感じ立ち直っていきますが、春期の川の氾濫のために鉄道輸送が泊まり、原料が届かなくなり、挫折させられます。
 そこでセルゲーエフはモスクワに飛んで、今度は原料輸送を可能にする鉄道建設工事の仕事を持ち帰ってきました。ムスターファらは再び活気づきますが、そのころ、自治工場に仲間を奪われたかつての仲間が工事現場に怪しい酒場を儲けて、巻き返しを図ります。
 ・・・・最後の場面は涙涙なので、機会がありましたら、逃さずぜひご覧ください。

(4)著作権のことが気になりますが、その労働に関わって主題歌が出てきます。簡単なメロディーですから、聴く機会があれば、一遍で覚えられます。力強い良い歌です。

   

(5)私この映画をドイツでも見たように記憶しています。
 また、どこでご覧になったのか訊きませんでしたが、恩師の宇佐美誠次郎先生もこの映画のことをよくご存じで、お宅へ伺った際に話題になって驚き、嬉しかったことを思い出します。
 
(6)このパンフレットの魅力は、多数の人が推薦の執筆をされていることです。お見せできなくて残念ですが、筆者とタイトルを書いておきます。
 1.ニコライ・えっク 人生案内・40周年!
 2.岩崎 昶 作品研究『人生案内』 ーПутевка в жизньー
  ー注.Путевка〔プチョーフカ〕=優待券、無料入場券
     в〔ブ〕=~への / жизнь〔ジーズニ〕=人生・生活
 3.新藤兼人 『人生案内』のシナリオについて ー無声映画には詩があったー
 4.淀川長治 わが感激の追憶…『人生案内』
 5.真下信一 ヒューマニズムの絶唱 ―「人生案内」のこと―
 6.丸木正臣 『人生案内観て観て
 7.古在由重 『人生案内』・・・人間への讃歌
 8. 矢川徳光 ほんものの人間になれ!・・・「人生案内」の意味 

 すごいですね。いい時代でした。
 調子がつかめるまで、しばらくこの調子でやってみます。

(7)きょう、公園で歓迎され、だいぶ話しました。ポーズも取ってくれました。

      

(8)散歩から帰ると、来訪者がありました。
 何語を話せばよいかと考えているうちに、帰ってしまいました。
 腹が透けて見えていましたから、怪しい人ではないようです。

   

(9)西の空

   

 あしたは弁当食べに出られそうかな?
 では。
   

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No.211 吉野作造

2024-06-24 23:44:42 | 好奇心
(1)【コレクション 4】
 コレクションといっても、基準を決めて整理しているわけではありません。その前に、収集といっても、本や映画のパンフレットからピンクチラシまでなんでも、いいとかおもしろいとか思ったものを持ち帰って順に箱に放り込んでおいて、気が向いた時に開けて眺める、という程度のものです。関心がなければガラクタ同然のものです。
 この紹介にあたっても、出てきた順に載せるだけで、とくに意図や目的はありません。説明も、いくらかの気が付いたことを記す程度です。「こんなのがあったのか」と思っていただければ、というまでのものです。

(2)きょうは、『吉野作蔵選集』出版のパンフレットです。

   
    B5判大

 刊行は、1995年5月10日に第1回配本(第12巻)があり、これ以後、毎月8日に順に刊行されたようです。中に、次の4氏の推薦文が寄せられています。
 武田清子(国際基督教大学名誉教授)
  「土着的デモクラシーの根を培う」
 鶴見俊輔(哲学者)
  「日本にむけるまなざし」
 宮崎 勇(大和総研理事長)
  「吉野を「読む」ことの意義」
 樋口洋一(東京大学教授)
  「吉野作造との出会い」
 
(3)吉野作造に関してはは思い出が2つあります。
 ひとつは著作です。高校3年の日本史の授業の時だったかと思いますが、吉野の代表作である「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」が出てきました。
 今日では上の『選集』がありますし、その前に昭和50(1975)年に7月1日に次の岩波文庫が刊行されていますが、当時はまだこういうものはまったくありませんでした。

   

 ほかにも、運が良ければ、古書が手に入ったようですが、私の高校時代は上の2点ともまだ出版されていなくて、図書館でもうまく見つかりませんでした。それでやむなく、最初に掲載された雑誌の『中央公論』社に手紙を書いて入手方法を問い合わせたところ、すでに絶版で如何ともしがたい旨の懇切な返事が届きました。その時の手紙はまだとってあるはずです。

(4)もう一つは、以前、「No.96 米山行」の前後で書きましたが、仙台の北にある旧御料地を調べに行った時のことです。(地図は前のものをご覧ください。)
 この地域へ東京方面から行く場合、東北新幹線の古川駅で下車して石巻線で行くのが便利です。そこで、古川に拠点を決めて、歩いたり、ミニサイクルで回ったりしました。
 その折の、2007年4月8日、古川の吉野作造記念館に行きました。場所は検索でお確かめください。すると、予期せぬことに、ちょうど企画展をやってました。次のチラシはこの時の企画展のものです。

   

 チラシの左上の人物は憲法史家の鈴木安蔵(1904-1983)です。
 そして、企画展のために小冊子「吉野作造と日本国憲法―施行から60年ー」(A4判大8ページ)が作成されていました。
 これは大変良くできていて、読んだところ、「Ⅱー2 最後の弟子・鈴木安蔵」というタイトルが現われきて、吉野作造と鈴木安蔵のつながりに驚かされました。
 これによると、鈴木の妻(俊子)の父(栗原基〔もとい〕)が吉野の旧制高校時代の友人であり、その仲介で「お茶の水文化アパートメントで会った」、「3日後に肺結核で入院することになっていたにもかかわらず、吉野は鈴木に親切に対応した」とありました。
 そして、その後、吉野は、面会謝絶にもかかわらず、伊藤博文の憲法調査や元老院が作成した憲法草案について鈴木に話し、必読文献を紹介し、「鈴木は吉野から示唆された方法に従って研究を進め」、著書『憲法の歴史的研究』(大畑書店、1933年)にまとめた、とありました。
 つまり、吉野の憲法論は鈴木安蔵を通じて戦後の日本国憲法につながっているというのです。本当に感動しました。   
 
(5)なお、鈴木安蔵については、次のものがあります。
 『鈴木安蔵先生から受け継ぐもの 鈴木安蔵先生生誕百年記念シンポジウムの記録
(発行日:2005年12月20日、発行者:金子勝、非売品)があります。

 パンフレットの紹介は前座のつもりだったのに、それで手いっぱいとなりました。
 前座が真打に昇格?
 きょうはここで止めます。
 
   
   きょうの西の空

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写真を撮るのは

2023-12-09 00:18:41 | 好奇心

 きのうは宮内公文書館に閲覧に出かけて、おまけに帰りに神田の古本屋街をうろうろしたので疲れてしまいました。そのためブログ休日とすることにしたのですが、写真ならすぐ取り出せると思いたって作業を始めたものの、あれも入れたい、これも入れたい、これは後で使いたい、となり、結局、ブログを書くより遅くなってしまいました。

 私が写真を撮るのは、写真そのものに関心があるというよりも、ふだんあちこち出かけて「オヤッ?」と思ったときに立ち止まる訓練のためです。ですから、対象は決まっていません。「オヤッ」と思えばなんでも撮ります。しかし、むやみに人を撮ることはしません。うっかりすると、ニュースになってしまいかねませんからねぇ。

 でも、いちどだけ?、若い娘さんの写真を撮ったことがあります。これはウソのようなホントの話です。

 熊谷の立正大学法学部で財政学・行政学演習(財政学)を担当していたころのことです。私は、授業が終わると図書館で7時か8時ころまで専門分野の雑誌類を一通り調べてコピーを撮って、帰りの東上線・武蔵野線・中央線の中で読みながら帰ってくるのを習慣としていました。のちには、よい飲み屋があり、その習慣も崩れましたが・・・。

 帰りの東上線は、森林公園駅を始発駅とする快適な電車でした。いつも同じように、ある車両の一番後ろの入り口から入り、すぐ左の席座ります。これは降りるときに便利だからです。座席を選ぶまでもなく、だいたいそのあたりに座れます。それどころか、その日は、ほかには誰も乗ってこず、ドアが締まると電車が動き出しました。

 丸々1両貸し切り状態で動き出したので、「珍しいな」と思い、「そうだ写真を撮っとこう」とカメラ取り出して4~5枚撮ったと思います。そして、うまく取れたかを確認していました。フィルムと違ってデジカメはその場で確認できるので便利です。

 カメラを見ていると、車両の前の方のドアが閉まる音がガチャッとしたので、目をやると、学生風の女性が一人入ってくるのが見えました。「車両移動だな」と思いながら再び画像を見ていると、その女性はこちらへ歩いてくるようでした。しかし、どこかにに座るでもないようなので、次の車両に行くのかなと思っていると、なんと私の真ん前の座席に座りました。ほかには誰もいない車両でです。

 私が、一瞬「えっ」と思ってその方を見直した時には、女性はもう下を向いて腕を組んでうずくまるように座り、髪の毛が下にたれさがって、いかにもずっとそこにいたかに見える風にじっとしていて、眠ったかのように見えました。

 私はなにがおこったのか戸惑っていましたが、しばらくして「次は東松山です」とアナウンスが流れたので我に返って、思い立って急ぎ女性の写真を1枚、そしてもう一枚、撮りました。その時、電車が駅に着き、乗客が入ってきてにぎやかになったので、そちらをちらっと見て、思い出して女性を見ると、もういませんでした。

 そうそう、そうでした。私が写真を撮るのは、最近では、資料収集で公文書館などに行った時、資料撮影の手ブレを防ぐためです。

 〽文字のみ~だれ~は、線路のきしみ~

という歌がありましたが、びっくりするような資料に出会うと、思わず手も心臓も震えます。情報公開法制定後は、昔だったら「大先生」でも見られなかったような超一級資料を、いまは誰でも手にすることができますから、見つかった瞬間は、本当にわが目を疑うことがあります。

 『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く-』(日本林業調査会(J-FIC))には、集めた資料をぶれないように入れましたから、ぜひ活用していただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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