姚莉 - 春的夢 (1952) 〔支那の夜〕
先般の県事業において
はるばる滋賀県彦根市から
内村博士をお迎えしました。
感謝であります。
そして
いろいろなお話をお聞きした結果
重大なる知見を得ました。
すなわち
モウソウチクは5世紀頃既に日本に生えており
江戸期に島津家が持ち込んだ有害な外来生物であるという
一般的な説を
批判的に語られました。
これは
本会事業の内容と戦略の変更を迫る重大な知見であり
有害外来生物指定を喧伝していた私説をもひっくりかえすものです。
確かに
東アジアや東南アジアにはどこでも竹が生えております。
そして
先生曰く
竹取物語の竹は
真竹か孟宗竹かは
判然としないそうであります。
やはり
孟宗は
中国で孝行息子であったにも拘らず
この国で
不良少年に誤解されていたようです。
高橋研究員(尊敬する先生:本多静六・大田弘)
はるばる滋賀県彦根市から
内村博士をお迎えしました。
感謝であります。
そして
いろいろなお話をお聞きした結果
重大なる知見を得ました。
すなわち
モウソウチクは5世紀頃既に日本に生えており
江戸期に島津家が持ち込んだ有害な外来生物であるという
一般的な説を
批判的に語られました。
これは
本会事業の内容と戦略の変更を迫る重大な知見であり
有害外来生物指定を喧伝していた私説をもひっくりかえすものです。
確かに
東アジアや東南アジアにはどこでも竹が生えております。
そして
先生曰く
竹取物語の竹は
真竹か孟宗竹かは
判然としないそうであります。
やはり
孟宗は
中国で孝行息子であったにも拘らず
この国で
不良少年に誤解されていたようです。
高橋研究員(尊敬する先生:本多静六・大田弘)
最近卒業したものは
過度の思い煩いであります。
花咲く旅路プロジェクトも
諸般の事情により
実施困難な状況から
奇跡的に実現できそうです。
いうまでもなく
参加者は増えそうにありませんが
もう泰然自若としているしかありません。
やはり本会は地味で小規模な感じで良いと悟りました。
さまざまな活動や事業をなされている人へ
最も伝えたいことは
ぼくのような
だらおんじゃでも
あるいは
しょぼくれNPOでも
何らかの社会貢献が出来るということであります。
どちらかと言えば
社会貢献より
社会に迷惑を掛けてきた私の
渾身の思いを
ここに発表致しました。
おわり
高橋記(ペルソナ・ノングラータ)
過度の思い煩いであります。
花咲く旅路プロジェクトも
諸般の事情により
実施困難な状況から
奇跡的に実現できそうです。
いうまでもなく
参加者は増えそうにありませんが
もう泰然自若としているしかありません。
やはり本会は地味で小規模な感じで良いと悟りました。
さまざまな活動や事業をなされている人へ
最も伝えたいことは
ぼくのような
だらおんじゃでも
あるいは
しょぼくれNPOでも
何らかの社会貢献が出来るということであります。
どちらかと言えば
社会貢献より
社会に迷惑を掛けてきた私の
渾身の思いを
ここに発表致しました。
おわり
高橋記(ペルソナ・ノングラータ)
世界的に
右翼的な思潮が勃興している。
言うまでもなく
謬説であり
稚拙な近代思想の諸相に過ぎない。
わたくしの
個人的な政治説は
反動保守や超保守であるとされるが
それは当らない。
むしろ近代を否む
普遍主義であり
歴史主義の貧困と
抑圧の体系から解放されている。
近代の国民国家と絶対君主を
神と聖権の上位に据えるあらゆる営為は
過ちである。
したがって
日本なる漠然たる概念や民族なる相対的な属性
あるいは国粋主義
アーリア人の優位や日本人の優秀性などは
まったく無意味な妄想の類である。
あるのは
個人の努力と認識主観の客観性の確保である。
何れにせよ
国家主義なる全体主義や
あらゆる形態の社会主義が
人類に福祉をもたらすことはなかったし
今後もないことを
明言しておく。
高橋(普遍主義)
右翼的な思潮が勃興している。
言うまでもなく
謬説であり
稚拙な近代思想の諸相に過ぎない。
わたくしの
個人的な政治説は
反動保守や超保守であるとされるが
それは当らない。
むしろ近代を否む
普遍主義であり
歴史主義の貧困と
抑圧の体系から解放されている。
近代の国民国家と絶対君主を
神と聖権の上位に据えるあらゆる営為は
過ちである。
したがって
日本なる漠然たる概念や民族なる相対的な属性
あるいは国粋主義
アーリア人の優位や日本人の優秀性などは
まったく無意味な妄想の類である。
あるのは
個人の努力と認識主観の客観性の確保である。
何れにせよ
国家主義なる全体主義や
あらゆる形態の社会主義が
人類に福祉をもたらすことはなかったし
今後もないことを
明言しておく。
高橋(普遍主義)