NPO法人 地域福祉協会

清掃事業  森林事業(植栽・剪定)

花咲く旅路プロジェクトの趣旨について。

2017-10-28 | 提案
花咲く旅路プロジェクトの戦略シナリオ展開について述べておきます。

事業目的:
富山県の自然植生及び潜在自然植生を明らかにし、それに準拠した植栽・緑化を普及する。


現状:
道路・河川・公園・海岸の植栽が、旧態依然たるアベリア・ツゲ・ツツジ等の植栽あるいは外来種・一年草の植花によってなされている。

問題の抽出:
アベリア等は剪定が難しい。旧態依然な刈り込み剪定によって花芽をカットしている。美的感覚が欠落した相変わらずな条植え(一列に直線的に植えるスタイル)の残存。 日本の風土に外来種の花の色彩や枝葉の姿形は合わない。一年草は毎年植え替えをせねばならない(過重な作業)。
原因は、日本の西洋かぶれと西洋への劣等感である。



タスク(合目的的な野望):
富山県の海岸部の植生を明らかにする。

富山県の海岸は、マツではなく広葉樹林であることを明らかにする。

浜黒崎、経田海岸公園、松田江浜等のマツは、遷移によっていずれ枯れていくことを明らかにする。

よって、海岸のマツを全伐し、先駆陽樹を植栽し長期的な極相林の形成を目指す。



結論的な仮説:
宮崎鹿島樹叢は、崖崩れ防止や防潮の用途を果たす防災林でもある。

富山県の海岸林は、宮崎鹿島樹叢、滑川海浜公園、氷見朝日社叢を模範とすべきであり
先般の全国植樹祭におけるクロマツやタブノキ等の植栽は
時間軸、遷移を無視した稚拙な森づくりである。


東北や各地の海岸林の形成は
相変わらず宮脇昭先生の私説に準じている。

その結果としての
YKKふるさとの森や富山市稲荷公園を
精緻に観察すれば
その誤謬が散見されるであろう。

長井真隆先生へのインタビューにおいても
宮脇理論を奉ずる様は何ら変わらなかったのである。



何れにせよ
本多静六先生の如き碩学の泰斗は
昨今の日本には見当たらない。

よって
我々がそうなるしかないのであります。


おわり



高橋(シナリオライター)





「禁断の幕末維新史」加治将一著 水王舎刊 を読んで。

2017-10-25 | 書評
富山県の本屋には
東京の書泉グランデ(昔神田にあったのですが今はどうなっているか知りません)のような
マニアックな本屋はないので寂しいものであります。

しかし
富山の中田書店で本作を発見しました。


いわゆる
明治天皇替え玉説(都市伝説とされますが妙にリアリティーがあります)や
坂本龍馬暗殺の真相などが
まとまって述べられており
驚愕の内容でした。

来年は
明治維新150年であり
ちょうどNHKの大河ドラマは西郷隆盛氏が主人公ですので

このような恐るべき著作が
今後
次々に出来(しゅったい)してくるような気がいたします。


出来れば
本郷和人氏のような
正統派な学者の皆様におかれましては

表層的歴史学界を
転覆し

リアルな歴史学を構築してほしいです。


おわり


高橋研究員

時によって露わにされる真実。

2017-10-23 | コラム
衆議院議員選挙が
何となくしょうもない感じで終了いたしました。

結局
私や他の識者の予言は
当たりました。

すなわち
小池知事が選挙に出馬すればよかった
ということです。

国政政党をつくった時点で
知事の業務を放擲したのと同じであり
その時
国民は小池総理を希望したのです。

したがって
素直にその風に乗るべきでしたが
何らかの疑いや頑なな心が出来(しゅったい)してしまったようです。


そもそも
あしゃあしゃした感じの人は
あしゃあしゃした感じでやるしかないのです。


何れにせよ
イベントは終了しましたので
目前の業務に立ち返るしかありません。


私のライフワークは
ユダヤ問題であり
宗教社会学であり多文化共生と世界平和

日本の皇室からの君主政の再建

同和問題とやくざ、人権問題
差別問題の解決であります。


しばし韜晦し
だらな感じでありましたが
もはや
日本も世界もだめになるという感じになりましたので
これからは少しずつ本性を露わにし
本質と原理原則に拘って
質実に人生を歩む所存であります。


おわり

高橋(尊敬する人:大原孫三郎)

聖なるものの被差別者への転落と解放の途。

2017-10-22 | コラム
聖なるものがなぜ差別される側に転落するのかという
人類学的テーマは
私のライフワークである。

聖なる民
ユダヤ人がなぜ
ディアスポラの民となり
誤解され
ポグロム、ゲットー、アウシュビッツの暗黒へ放擲されたのか。


宗教、芸能に関わる浮遊する知識人が
畏敬や賞賛の対象から
偏見と差別の対象に堕ちたのはなぜか。


巫女や予言者的体質を有する常に異なる人々
まれびとが
近代社会では病人や障害の範疇に括られ
被差別の対象となったのはなぜか。

女性や障害を持って出生した人々は
むしろ聖なる人々として尊敬を受けていたが
なぜ
近代社会では差別されるようになったのか。



では
差別の理論分析はどうだろうか。


日本の近代社会において
士農工商穢多非人という身分社会が解消されたということは
実定法や行政においては
被差別の差別の実体、本質は解消されたことを意味する。


マルクス主義での問題の分析と解消の理論でも
経済的土台、階級的基盤が根底から消失した以上は
明治以降の近代資本主義社会において
封建遺制、身分制度の残滓としての問題は
存在しえないこととなる。


つまり
共産党系の解放理論では
問題はそもそも解消された事なのである。

かえって
解同系理論では
観念としての差別の残存というテーゼが唱道され続けたのである。

その意味では
共産党系のほうがマルクス主義に忠実であり
答えもシンプルである。

マルクス主義では
日本に同和問題は存在しないという結論になる。

経済と階級の土台から遊離した
観念の普遍性というテーゼは
まさに観念論だからだ。


では
マルクス主義ではない
形而上学や観念論、神学的世界観から
差別という感情や社会倫理は
如何に分析されるか。

同和問題の本質は
住居以前に
職業差別や民族差別(身体的、文化的、宗教的差異)を複合的に含んだものであり
共通理解が困難な人々への
畏怖や恐れといった感情の
差別、蔑視感情への転換である。


しかし
差別という名辞は
偶有性であり実体を伴わない。

それは相対的で表層的な差異でしかなく
人間の本質は霊魂の普遍性と身体性における相対性を特徴とするものであるために
職業差別や民族差別の本質や実体は存在しないという結論に至る。


すなわち
マルクス主義でも
神学的な形而上学でも
被差別という問題の本質は

何らの実体もない(存在論)
認識論の誤謬
認識主観における偏見、イドラの存在
鏡が曇っているという事実があるだけなのである。

私の今の仕事は
清掃でありごみ拾いである。

それは
き、人に非ずの身分の仕事である(昔ならば被差別民である)。


だからどうしたである。


私は私の仕事とミッションに矜持を持っているし
なんら自らを卑下しない。

その仕事は
聖なる仕事であると自負し
常に自信満々である。

かって
ゲットーに住んでいたとか
被差別に住んでいたとかは
どうでもよい過去だ。

卑しい仕事
低い身分などはない。

職業に貴賎なしとは
本会の経営理念である。

被差別問題の
解決の方策は
その地域に住んでいた人々が
自らの出自を露わにして
出世する以外に見当たらない。


それは
昔の貧乏話に過ぎない。


おわり


高橋記(日本の下層社会)

日本の近現代史を再考する。

2017-10-21 | コラム
いま
私は貧困なため
大局的な論考を述べ
社会貢献したいと考えております。


私の不断の研究と思索
そして天来の閃きによって
日本の近現代史の大まかな流れについて
幾つかの仮説を提示したいと思います。


まず
近代史を研究する視点として

孝明天皇とその最期

明治、大正、昭和天皇の始源、天皇家の始源

長州の専横とそこから戦後、現代に至る閨閥

欧米列強なかんずくフリーメーソンやユダヤの財力と人脈と秘儀

薩長と幕府・会津藩、豊臣と徳川の相克

等が挙げられます。


そして
一次資料と論者の説を渉猟し
フィールドワーク(現地取材・聞き込み)を行うことになります。


結局
警察の捜査のような
仮説立案力と直観力が必要であります。


また
価値判断の根源たる論客の世界観も重要となります。



仮説1 孝明天皇と明治天皇に血統の連続性はない

明治憲法で萬世一系を強調した血統の連続性は、王統の権威を担保するものではなく
孝明天皇と血族が何らかの非合法な手段で暗殺されたことを糊塗隠蔽するための方便ではないのか。


理由:幕末維新期の日本だけがフランスやロシアのように野蛮ではない無血革命を成し遂げたという旧来の説は、最近の研究、論客によって覆されつつある。はっきり言えば、幕末維新期の日本は、フランスやロシアの革命と同様の野蛮で残酷な振る舞いが横行しており、日本だけが聖なる国家国民であるといった稚拙なナショナリズムは破綻する。

伊藤博文氏を暗殺した安重根は、その理由について閔妃(李氏朝鮮)暗殺と孝明天皇暗殺の首魁が伊藤であると述べた(安は、実定法と道徳的に罪人だが、日本と朝鮮の王権を尊敬していたキリシタンでもあった)。

そのメタファーは、ジャコバンやボリシェビキと同様な長州である。



仮説1の検証

もし、孝明天皇とその子が長州人脈によって闇に放擲されたとしても、何ら不思議ではない。基本的に野蛮な武士であり現代人の感覚とは齟齬がある。奇兵隊の伊藤の臣下が仮に傀儡として明治天皇に祭り上げられたとしても、殊更驚嘆すべきことでもない。何となれば、日本は満州において愛新覚羅溥儀を擁立することを臆面もなく断行した。明治憲法において神聖にして侵すべからずな万世一系な天皇を強調した理由も判然とする。


仮説1から導かれる近代史、王権への視点


仮に明治天皇が孝明天皇の子でなかったとしても、美智子皇后さまの威光と崇高は褪せることなく、むしろ高貴な光を照射する。

王座を担保するものは、血統ではなく人徳であり聖権の塗油だからだ。ダビデ・ソロモン、堯・舜に血統の連続はない。

柳田国男氏が指摘した通り、王座を担保するのは血統ではなく天皇霊がおふすまにて継承される新嘗、大嘗祭である。


明治維新は、長州閥ひいては秀吉側の毛利家のルサンチマンであって、それを利用したのはフリーメーソンリーのイマージュである。

東アジアは、本来友好的なアジア主義(大東亜秩序)であったが、そこに分裂と戦争を投げ込んだのは、現代の東アジアを戦乱に陥れようとする組織と人脈と秘儀である。


日本と朝鮮と中国は、共通の敵を見間違えることなく、本来の大東亜共栄圏に回帰すべきである。




といった一つの仮説が提示されます。

これは一つの論考ですが、極めて重大なる視点を含んでおり
諸兄の研究の一助になることを期待します。


おわり


高橋研究員(歴史学)

ムーの愛読者的な言説の再検討について。

2017-10-20 | コラム
かって
私は中学校時代に

五島勉氏の
ノストラダムスの大予言シリーズによって
陰鬱な人生観と
悲観的な人格が形成された。

その後
1999年は大過なく過ぎて
世界は滅ばず

五島勉氏の著作や言説は等閑に付され
とんでも本
オカルト本として辺境に追いやられ

人口に膾炙されなくなった。


しかし

世界は五島勉氏の描写していた破滅的な世界に堕落した。


つまり
時間軸がずれたとしても
時代を先駆する慧眼の知恵は
社会の本質を看破しているやも知れぬ。


先駆者の慧眼があまりにも鋭すぎて
世に認められていない可能性があるのだ。


ユダヤ人の失われた十支族や日ユ同祖論

明治維新の真実(明治天皇の血統や薩長の真実)

南北朝時代と天皇家の真実

正統な一時資料以外の竹内文書なども

今一度精緻に研究し
その真贋を明らかにせねばならない。


言うまでもなく
問題研究所等が不断に研究されてきた
同和問題の本質や
柳田国男氏の文化人類学的な研究も
今一度深化せねばならない。


そこには
一部のマニアックなムー愛読者や歴史愛好者だけに知られているには
もったいない重大な視点と
人間の本質的な諸相が
皮相なる歴史文学以上に展開されているのだ。


落合莞爾氏の
明治維新の極秘計画
の如くの著作も
等閑に付することなく
研究の俎上に載せるべきである。


そして
各説が
結果的にどのような結論を導き
政策的処方箋に繋がるのかを看破し
説と論客の道徳的な価値を明らかにすべきであります。



おわり


高橋研究員(歴史学)