国道へ戻ると、右手の海岸の先に何かが見えています。
車で行けるところまで行って、徒歩で近づきますと、社が姿を現しました。
その後の崖の下には洞窟が口を開き、その中に祠が見えます。
解説板の概要は、
「国指定史跡 大境洞窟住居跡 大正11年3月8日指定
この洞窟は大正七年(1918)白山社改築のため洞窟内の土砂を取り除いた際に、人骨、土器、石器等が出てきた・・・ 洞窟は標高約4mにあり、約七千年前の縄文期に波の浸食によって形成され、高さ8m、幅16m、奥行き34mで、一番奥には湧水がありました。
日本で最初に発掘調査された洞窟遺跡です。」
と記載されていました。
遺物を含む地層は落盤によって六つの層に分かれ、調査の結果、縄文の文化層が弥生の文化層よりも下にあることから、両者の新旧関係を裏付けたそうです。
第2層からは、奈良時代から平安時代の須恵器などが出土したと記されていました。
奈良、平安時代といえば、修学旅行で訪ねた奈良や京都の荘厳な寺社のイメージがありますが、庶民の多くはこのような洞窟で生活していたのでしょうか。
万葉集が編纂された7世紀後半から8世紀後半、文字を使う人達と庶民の生活の格差に気付かされました。
洞窟を見学した後で、崖の上に上がってみました。
目の前に穏やかな富山湾が広がっていました。
そして、驚いたことに、海に面した坂道の途中でミカン畑を目にしたのです。
ミカンは、和歌山や静岡の温暖な地域でしか栽培できないと思い込んでいたので本当に目を疑いました。
丁度、農作業の手押し車を押して坂を上ってきた高齢のご婦人に、「この木はミカンですよね、この辺でミカンが採れるのですか」と尋ねてみました。
すると、「この辺の海岸沿いは温かくて、昔から甘いミカンが生るんですよ」との答えを頂きました。
そうだったんですか!
雪国とばかり思い込んでいた氷見ですが、照葉樹の椿古木が多い謎が瞬時に解けたような気がしました。
驚き、桃の木、山椒の木の旅を続けながら、
次に、氷見市姿の白山神社のツバキを訪ねました。
ここも場所が分からなかったので、通りすがりの小父さんに道を尋ねると、ご丁寧に神社まで案内をしてくれました。
社へと続く石段の脇に、見事な椿が枝を広げていました。
幾輪もの艶やかな花が、枝先で笑顔をほころばせていました。
この地方にはユキツバキとヤブツバキの交雑種であるユキバタツバキが咲くそうです。
そのような目で白山神社の花を見ると、もしかするとこの木にも多少はユキツバキの血が混じっているかな~と思えます。
美しい姿を保ったままに、朱の花が地を彩っています。
散り落ちた後も、姿勢を崩さない品格が、ツバキの大きな魅力の一つなのです。
道案内をしてくれた小父さんから「東京からわざわざ椿を見に来たの?」と聞かれたので、旅の経緯を説明していると、丁度そこへ、隣の民家から出てきた方に、
「おい〇〇さん、この人は、わざわざ東京からツバキを見に来たんだってよ」と小父さんが声を掛けました。
「へー 東京からわざわざかい、そりゃまたご苦労なこって。そんな価値があるんだ、邪魔くさいから切っちまおうと思っとったけど、切らなくてよかったな~」
「ほんとよ~」と、お互いに顔を見合わせながら頷きあっています。
「そうなんですよ、切るなんて言わずに、どうぞこれからも大切にしてあげて下さい」と、お願いして、
「いいものを見せてもらいました、ありがとうございました」とお二人にお礼を述べ、白山神社を後にしたのでした。
氷見海岸の道の駅を朝7時に出発してから約3時間、富山湾沿いの国道を北上し、氷見市北端の「脇」にやってきました。
畑の横の畦道の先の斜面にヤブツバキが繫みを作っていました。
どうやらこれが氷見市脇北島家の椿林のようです。
丸山さんの資料には「4幹の古木を中心に約千本近く群生するさまは見事である」と記載されています。
つい先ほど、大境の崖に育つミカンを見てきたので、紀伊半島先端の串本町大島の「つばき咲く道」を思わせる樹勢の椿林に、違和感を覚えることはありませんでした。
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