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氷見市余川のツバキ

2017-09-11 18:30:25 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 北八代の松沢家を訪ねました。




 個人のお宅の墓所ですから、玄関の呼び鈴を押して訪問理由を伝え、ツバキを見せて頂きたい旨をお願いしました。


 すぐにご了承を頂き、ご自宅裏手の墓所へとご案内を頂きました。

 

 目通し140㎝の単幹の巨樹で、端正な樹形は墓守りにふさわしい風格を漂わせていました。


 幾世代にも亘る、松沢家の安寧な暮らしを代弁するかのような、見事なツバキでした。

 

 


 
 次に訪ねた余川の興聖寺は臨済宗の禅寺で、開山の念仏仏であったとされる聖観音菩薩坐像が氷見市の文化財に指定されています。


 お寺のご自宅を兼ねる庭に木が見えたので、玄関で声を掛け、ご住職の許可の下、ツバキを拝見させて頂きました。


 3本の株立ちツバキは県下最大級の富樫白(ユキツバキ系品種)です。


 白色中輪の八重咲き割しべで、花弁の基部は黄色みを帯びます。


 花糸も白くなく、ヤブツバキと全く異なる表情を見せていました。

 

 


 
 ご住職から、庭のサルスベリは幹回りが1mを超える巨樹なので、是非見ていって下さいと言われました。


 確かに見事なサルスベリで、今でも季節になると花を咲かせるそうです。


 サルスベリは中国南部原産で、300年程前に日本に入ってきたとされますが、江戸時代から日本海側を往来していた北前船が、当時としては珍しい花木を氷見にもたらしたのかもしれません。

 



 ご住職にお礼を述べて興聖寺を後にし、次に余川杉谷家のツバキを目指しました。


 丸山さんの資料には、「余川杉谷家のツバキは屋敷跡に佇む」と記されていますので、ナビの入力場所に着いたとしても分かり難いだろうと考え、探す作業の前に、道行く人に尋ねてみました。


 杉谷家の屋敷跡は、市道脇のネギ畑奥の、木立の中に埋もれていました。

 



 畑の先へ進んでゆくと、竹や雑木が覆いかぶさる藪の中に、僅かに紅色の花を付けたツバキを確認することができました。


 丸山さんが調査されたのは平成19年ですから、その時からすでに10年の歳月が流れています。


 ツバキは目通し128㎝の巨木ですが、あと10年も経てば、周囲の殆どを竹などに覆われてしまうかもしれません。

 

 


 
 杉谷家の屋敷跡のツバキを見終えて時計を確認すると、17時に近づいていました。


 今夕は、丸山さんを紹介してくれた、氷見ツバキ愛好会会長の川本さんにご挨拶に伺う心積りをしていましたから、今日の氷見のツバキ巡りをこの場所で終わらせることにしました。


 氷見市街に戻り、川本さん宅にご挨拶に伺うと、氷見ツバキ愛好会が世話をする、氷見ふれあいの森のつばき園にご案内を頂きました。



 川本さんは新幹線が通じるまで、金沢駅の駅長を務められたそうですが、定年退職された今でも、夏につばき園で潅水や下草刈りに汗を流されるそうです。


 楽しそうにツバキのお話をされるときの、満面の笑顔にお人柄が窺えました。


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中山家熊野権現のツバキ

2017-09-11 14:28:28 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 胡桃地区に来たのは、中山家熊野権現のツバキが目的ですが、ナビを頼りにはしって来たものの、周囲にそれらしきものが見当たりません。


 火神社の道路を挟んだ向かい側の、農作業用の建物で働いていた方に、丸山さんの資料を見せながら、中山家熊野権現の場所を尋ねました。


 年長者の方が、それなら、道を少し戻った、リンゴ畑の脇道を入った場所と教えて頂きましたが、


 「え・・! 東京からわざわざツバキを見に来たの? 」と非常に訝しげな表情で見られてしまいました。


 そうですよね、氷見市街からも結構な距離の山ですから、こんな所にツバキを見る為だけに東京から人が来るなんて、俄かに信じがたいのかもしれません。


 教えられた通りに、リンゴ畑の横の畦道を進み、2mほどの高さの崖下を回り込むと突然、目の前にツバキの森に包まれた小塚が現れました。


 足に絡まる葛の蔓と、ススキの枯葉の中を、塚に向かって近づいて行きます。




 斜度の緩い東側の斜面に回り込むと、塚の頂きに小さな祠が見えてきました。


 祠を包み守る、幾本ものツバキの巨木が塚の頂きで枝葉を広げていました。


 椿の花が、斜面の至る所に紅を射し、幾年もの間、朱色の花弁で染められた続けた塚の斜面は、赤味を帯びています。

 



 一歩ずつ祠へと近づゆきますと、株立ちとなって枝を広げたツバキの梢の狭間から、根が走り広がる祠の周囲へ、西日がちらちらと光のリズムを奏でていました。

 



 一人では抱えきれぬ程の太さの、株立ちツバキの枝々が祠の周りに柔らかな曲線を描いています。


 ツバキの根が、地を這う大蛇の装いで、邪悪な物から祠を守っていました。




 祠の周囲の、鈍色の枯葉や小枝が作る褥の上へ、5弁の椿が散り落ちています。


 傷み始めた朱色の花弁に包まれ、最後まで品性を失わない健気さで、目に刺さるほどの白さを保った花糸が鬱金色の葯を掲げていました。

 



 幻想の椿の中で、どれほどの時を過していたのでしょうか。


 去りがたい想いで、塚を下り振り返ると、熊野権現のツバキの杜が、西に傾く斜陽を受けて、現世とは異なる世界を垣間見せていました。



 

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地すべりと共生する里山

2017-09-11 11:27:55 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 白川地区で八幡社、高嶋家の大椿を確認し


 

八幡社                高嶋家


 五十谷(いかだに)地区へ向かいました。


 県道70号線をはしり、なだらかな丘陵地帯を上ってゆくと、緑に包まれた菖池家墓地が見えてきました。


 この辺りは昭和52年(1977年)3月に大地すべりが発生したことで知られています。


 警戒と対策協議のために集まった70余名の人々を乗せたまま、幅200~250m、長さ1200m、面積34haの規模の大地すべりが発生したそうです。


 丸山さんの資料には、そのような地区にあっても菖池家墓地は被害を免れたと記載されていました。

 



 車を路肩に停めて近づきますと、ツバキの古木群が杜をなしていました。


 石面が崩れて字が読み取れない墓標もありましたから、百年以上の歴史を数える墓地なのかもしれません。


 それにしても、鬱蒼とした緑に包まれた墓地は、たまに大地すべりなどが起きたとしても、安泰な暮らしが続いてきたことを示すように思えます。


 何とも、見事な樹幹のツバキではありませんか。

 

 


 
 前方に石川県との境をなす宝達丘陵の峰々が横たわります。


 車は標高200m程と思える、尾根と谷が入り組む道を縫い進んでゆきました。

 


 磯部の永徳寺のツバキは桃色一重椀咲の中大輪で目通し175㎝。


 10月から4月にかけて花を咲かせ、地区を代表するツバキと評されています。

 

 


 
 磯部神社の社叢は氷見市指定の天然記念物に指定され、


 掲示板には「標高約100m。高木層はウラジロガシが優占し、参道にはスギが並び、低木層はヤブツバキ、ヒメアオキ、シロダモがみられ、社叢西向きの正面には大きなフジが高木にからみ、花期には紫色の長い花序を垂れたフジの花が見られる」と記載されていました。

 

磯部神社

 

磯部神社のツバキ等


 

磯部神社の鳥居        磯部神社のフジ



 磯部から針木へ回り、長家の白ツバキを訪ねた後で、

 

 


  
 胡桃地区に向かいました。


 胡桃地区は宝達丘陵の南東に位置しますが、この場所でも昭和39年(1964年)に大きな地すべりが発生し、わずか3時間ほどの間に、87戸の胡桃集落を一挙に壊滅させたそうです。

 

 地すべりは7月16日の正午頃に発生し、東西約500m、南北約1500m、面積70haの広大な山地斜面が崩壊・移動したようです。


 日中だったこともあり、幸いにも村人は難を免れ、死傷者は全く出なかったそうです。

 



「地すべりと共生する里山の地域づくり」の標示を目にした場所に、火神社がありました。

 



 社殿の周囲を壮齢のツバキが覆い、

 

 


 
 杜の周囲に、白いキクザキイチゲの花が揺れていました。



 

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長寿を迎える椿の条件

2017-09-09 20:59:09 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 石動山を下りて棚田まで戻り、中田山口家の椿を訪ねました。


 ナビが「目的地に到着しました」と告げた場所の周囲にそれらしきものが見当たりません。


 付近の家を訪ね、お尋ねしたところ、防火水槽脇の路地を入った奥、とのことでした。

 



 教えられた細い道を進んでゆくと、民家の裏山の斜面に見事な椿の古木が8本、瞑想の時を過ごす表情を見せ佇んでいました。

 

 


 
 杉の葉に包まれて座る端正な姿の椿花は、仄かにユキツバキの血を感じさせます。


 ミヤマカタバミの幼き白さを嬰児に例えるなら、齢を重ねてなお赤い5弁の椿は、何に例えればよいのでしょうか。

 

 
 

 中田山口家の椿を訪ねた後、再び長坂に戻り、長坂の大つばき跡を訪ねました。


 そうです、悲しいかな「つばき跡」なのです。


 私は今から7年前の2010年3月にこの地を訪ね、長坂の大つばきをフィルムカメラで撮影しています。


 その時に写した一枚が下の写真です。




 その頃は漠然と、定年後に花を眺め過ごしたいと考えていました。


 暇を見つけては、何時何処に行けば花に出会えるかを調べ、調べた内容は誰かの役に立つだろうとも考え、お裾分けのような気持ちで、花の名所に関するホームページを立ち上げました。


 ツバキに関して調べた内容をまとめたページが「椿の名所」です。


 しかし、花の名所をインターネットで公開したことで、内容に誤りがあれば申し訳ないので、自分の目で確認すべきだと思い、定年を待たずに、全国に花を訪ね歩く旅をスタートさせたのです。


 そんな旅の一つが、2010年3月の氷見の椿を訪ねる旅でした。


 そのときは、長坂の大つばきを含め、氷見で5か所の椿を訪ね、それが氷見の椿のほぼ全てと思っていました。


 ところが今年の2月頃、氷見ツバキ愛好会の丸山志郎さんの資料を見て、居ても立っても居られない思いにかられた経緯は以前のページに記した通りです。


 久しぶりに訪ねた氷見長坂の風景は大きく変化していました。


 砂利道が丘の斜面を縫いながら通じていた場所は、丘自体が掘削されて、車が走りやすそうな舗装道路が貫いていました。




 そして、その舗装道路のすぐ脇で、「長坂の大つばき」の切り株が無残な姿を晒していました。


 右下の写真が、7年前に同じ場所から撮影した「長坂の大つばき」です。


 数百年かけて育んできた命でさえも、舗装道路の利便性と引き換えに、一瞬の出来事だったようです。


 

 

 
 長坂の「つばき跡」を確認した後、次に、戸津宮大石の大椿を訪ねました。


 丸山さんの資料には「目通し240㎝ 3幹 第一級の老樹として保護すべき」と記されています。


 民家の横の、畑へと続くだろうコンクリートを打った畦道の横に、3幹の椿が見えましたが、とても第一級の老樹のようには見えません。

 

 


 
 目当てのツバキはどれだろうかと周囲をうろうろしていると、民家からご婦人が出てこられたので、大石の大椿を探していることを伝えると、「この木がそうです」と指さしてくれました。


 「だいぶ弱ってきたけど、近寄れば大きさが分かりますよ」と言われ、裏庭に通じる道を近づくと、貫禄ある姿が見えてきました。


 「数年前にツバキ協会の人が来て、貴重なツバキだから大事にして下さいと言ってた」と誇らしげな顔をほころばせておられました。

 

 


 
 氷見市白川共同墓地にはツバキの巨樹が立ち並んでいました。

 



 この場所も含め、ここに来るまでに見てきたツバキの巨木は、どれもが、人の気配のある場所に育ちます。


 しかも、かなりの大きさであっても、生活の邪魔にならないスペースが確保されていました。


 氷見にツバキ古木が数多く残されているのは、生育に適した気象条件と、開発され過ぎなかった居住環境等が数百年単位で保たれてきたからに違いありません。


 それと、何と言っても、ツバキ古木の周囲に陰を落とす雑木が少ないことは、人々が愛着をもってツバキを見守ってきた証であり、そのことも、ツバキ長寿の大きな要素の一つのはずです。


 ツバキ古木は殆どの場合、開発され過ぎていない、人の息遣いの感じられる場所に育ちます。


 百年単位の平和と平穏に裏打ちされた、人々の暮らしに添いながら、花を愛でる人々の視線を浴び続けることで、椿は齢を重ねられるのかもしれません。


 墓の周囲の石畳の上に、人の手で留められた如き趣で、白い斑入りの椿花が、何かを語りかけたい表情を見せていました。


 


 

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長坂棚田と石動山大宮坊

2017-09-09 15:24:45 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 氷見市北端の「脇」から国道を戻り、途中の中波から山の中へ進む道に入りました。



 

 ルートは事前に決めてありますから、ナビに入力可能な5個の目的地をインプットし、最初の目的地に着いたら、次の新しい5番目の目的地を再入力してドライブを続けました。


 一度走り出せば、どのような道筋を辿るかは全てナビ任せです。


 丘陵地帯をはしると、目の前になだらかな尾根が続き、長閑な田園風景が広がります。



 

 道路脇にスミレが咲きほころび、ハンノキが萌木色の葉を青空に広げていました。

 

 

 

 暫く進むと、「日本の棚田百選 長坂棚田」の石碑が見えてきました。


 へー、そうなんだ、棚田百選か、これを見逃す手はないですよね。



 

 写真写りの良さそうな場所を探してパチリ。


 しかし写真歴50年近い年季がある者としては、納得がいきません。


 高い所に上れば、もっと良いポイントが見つかるかもしれません。




 農道を上がってゆくと、「石動山大宮坊の歴史」と記された看板が目に留まりました。


 どうやら棚田の上の林道の先に、歴史を纏った、眺望の良さげな場所がありそうです。



 

 車一台がやっと通れるほどの林道を慎重に登ってゆくと、小高い尾根の突端に展望台が設けられていました。


 期待したほどの眺望ではなく、どうやらこの場所が石動山(せきどうさん)山頂でもなさそうです。



 

 それらしき山が目の前に横たわっていました。



 

 ここまで来たら行くしかありません。


 谷を見下ろすと、林の奥に白い雪が消え残っていました。



 

 石動山に人気は無く、苔むす茅葺屋根を被った、旧観坊に残る落雪の塊が、この地の冬の様子を物語ります。


 

 

 石動山大宮坊は、石川県鹿島郡中能登町、七尾市及び富山県氷見市にかけて広がる寺院跡、城郭伽藍跡なのだそうです。


 泰澄が、百済から仏教が公式に伝わったとされる752年の僅か数年後の756年、この地に天平勝宝寺を建立し、南北朝時代と戦国時代の二度の全山焼き討ちと再興を経て、明治の廃仏毀釈によって廃寺となりました。


 平成2年(1990年)から発掘調査が始まり、以下の写真の御成門(おなりもん)等の復元が進められたそうです。



 

 改めて石動山の歴史を紐解くと、足利尊氏、上杉謙信、織田信長や前田利常などの名が連なります。


 越中、能登、加賀の国境に位置する石動山に繰り広げられた、数多くの物語を垣間見た思いで、私は山を下り、再び麗らかな椿の旅へと戻ってゆきました。


 

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氷見海岸のミカン畑

2017-09-08 21:27:16 | 氷見に椿古木を訪ねる


 国道へ戻ると、右手の海岸の先に何かが見えています。


 車で行けるところまで行って、徒歩で近づきますと、社が姿を現しました。

 



 その後の崖の下には洞窟が口を開き、その中に祠が見えます。

 



 解説板の概要は、


 「国指定史跡 大境洞窟住居跡 大正11年3月8日指定


 この洞窟は大正七年(1918)白山社改築のため洞窟内の土砂を取り除いた際に、人骨、土器、石器等が出てきた・・・ 洞窟は標高約4mにあり、約七千年前の縄文期に波の浸食によって形成され、高さ8m、幅16m、奥行き34mで、一番奥には湧水がありました。


 日本で最初に発掘調査された洞窟遺跡です。」


 と記載されていました。

 



 遺物を含む地層は落盤によって六つの層に分かれ、調査の結果、縄文の文化層が弥生の文化層よりも下にあることから、両者の新旧関係を裏付けたそうです。

 



 第2層からは、奈良時代から平安時代の須恵器などが出土したと記されていました。


 奈良、平安時代といえば、修学旅行で訪ねた奈良や京都の荘厳な寺社のイメージがありますが、庶民の多くはこのような洞窟で生活していたのでしょうか。


 万葉集が編纂された7世紀後半から8世紀後半、文字を使う人達と庶民の生活の格差に気付かされました。


 洞窟を見学した後で、崖の上に上がってみました。


 目の前に穏やかな富山湾が広がっていました。

 



 そして、驚いたことに、海に面した坂道の途中でミカン畑を目にしたのです。


 ミカンは、和歌山や静岡の温暖な地域でしか栽培できないと思い込んでいたので本当に目を疑いました。


 丁度、農作業の手押し車を押して坂を上ってきた高齢のご婦人に、「この木はミカンですよね、この辺でミカンが採れるのですか」と尋ねてみました。


 すると、「この辺の海岸沿いは温かくて、昔から甘いミカンが生るんですよ」との答えを頂きました。


 そうだったんですか!


 雪国とばかり思い込んでいた氷見ですが、照葉樹の椿古木が多い謎が瞬時に解けたような気がしました。




 驚き、桃の木、山椒の木の旅を続けながら、


 次に、氷見市姿の白山神社のツバキを訪ねました。

 



 ここも場所が分からなかったので、通りすがりの小父さんに道を尋ねると、ご丁寧に神社まで案内をしてくれました。


 社へと続く石段の脇に、見事な椿枝を広げていました。


 幾輪もの艶やかな花が、枝先で笑顔をほころばせていました。


 この地方にはユキツバキとヤブツバキの交雑種であるユキバタツバキが咲くそうです。

 

 そのような目で白山神社の花を見ると、もしかするとこの木にも多少はユキツバキの血が混じっているかな~と思えます。

 

  


 美しい姿を保ったままに、朱の花が地を彩っています。


 散り落ちた後も、姿勢を崩さない品格が、ツバキの大きな魅力の一つなのです。

 



 道案内をしてくれた小父さんから「東京からわざわざ椿を見に来たの?」と聞かれたので、旅の経緯を説明していると、丁度そこへ、隣の民家から出てきた方に、


 「おい〇〇さん、この人は、わざわざ東京からツバキを見に来たんだってよ」と小父さんが声を掛けました。


 「へー 東京からわざわざかい、そりゃまたご苦労なこって。そんな価値があるんだ、邪魔くさいから切っちまおうと思っとったけど、切らなくてよかったな~」


 「ほんとよ~」と、お互いに顔を見合わせながら頷きあっています。


 「そうなんですよ、切るなんて言わずに、どうぞこれからも大切にしてあげて下さい」と、お願いして、


 「いいものを見せてもらいました、ありがとうございました」とお二人にお礼を述べ、白山神社を後にしたのでした。


 氷見海岸の道の駅を朝7時に出発してから約3時間、富山湾沿いの国道を北上し、氷見市北端の「脇」にやってきました。


 畑の横の畦道の先の斜面にヤブツバキが繫みを作っていました。


 どうやらこれが氷見市脇北島家の椿林のようです。

 



 丸山さんの資料には「4幹の古木を中心に約千本近く群生するさまは見事である」と記載されています。

 

 


 
 つい先ほど、大境の崖に育つミカンを見てきたので、紀伊半島先端の串本町大島の「つばき咲く道」を思わせる樹勢の椿林に、違和感を覚えることはありませんでした。


 

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万葉の里 ひみ椿物語

2017-09-08 14:50:05 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 薮田から車を10分程はしらせた辺りで泊共同墓地のヤブツバキを探しました。

 国道脇に佇む一軒の民家を訪ね、氷見ツバキ愛好会の丸山志郎さんの資料を基に椿の古木を訪ね歩いていることを説明し、泊共同墓地の場所をお尋ねすると、すぐに所在地を教えて頂くことができました。


 丸山さんの調査を基に、氷見市が「万葉の里 ひみ椿物語」というパンフレットを作成したこともあり、氷見の街で、丸山志郎さんのお名前を出せば、誰もが「ああ、あの丸山さんが調べた椿ね」と親切に答えてくれました。

 


 泊共同墓地は国道を見下ろす丘陵の突端で、富山湾に昇る陽の光を浴びていました。

 



 それらしきツバキが、墓地の片隅で紅色の花を咲かせています。


 丸山さんの資料には、「泊共同墓地 根元128㎝ 地上65㎝で2幹の古木」と記載され、目の前のツバキも腰の高さ辺りで二股に分かれていますので、この木に間違いはありません。

 

 

 
 泊共同墓地のツバキを難なく探し出せたことで、私は今回の旅が予定通り恙なく終わるであろうことの確信を得ることができました。


 ツバキの横で、ヒサカキが白い小粒の花を枝一面に咲かせていました。


 旅の目途が付いたことで、ツバキ以外の花木にも目を向ける余裕が出てきました。

 

 


 
 氷見市小境の朝日社叢は、国道脇に建つ鳥居の存在で、すぐにそれと分かりました。

 



 掲示板には、


 「朝日社叢 昭和四十年一月一日指定


 この社叢は、タブノキ、スダジイ、ヤブツバキ等の暖地性の常緑高木やアオキ等の常緑低木を中心に構成されている。


 スダジイ等の常緑広葉樹は、日本海側の北限分布域にあたり、イヌシデ等冷温帯で見られる落葉広葉樹も混交している。云々 富山県教育委員会」と記載されていました。

 


 金刀毘羅六権現の石碑の周囲に降り注ぐ、落ち椿が贅沢な光景を見せてくれていました。

 



 氷見市小境の髪塚は、昨年閉校になった氷見市立灘浦中学校の裏手に立つ標識で位置を確認することができました。




 高さ約180cmの自然石の石塔正面に、月輪と梵字「バク」、その下に「貞和三年□十五日」(1347年)と刻まれています。


 後醍醐天皇の第8王子である宗良親王が、この地の大栄寺で剃髪し、その髪を埋めたとされる髪塚だそうです。


 髪塚の周囲に、椿の古木が繫みをなしていましたが、海岸から少し奥まった場所の為か、この場所での開花はもう少し先のようです。

 

 


 
 氷見市大境の慈光寺に淡桃色の一重椀咲 中輪の椿があるはずなので、人気のない寺の裏手に回り、それらしき椿を確認しましたが、枝が剪定されていた為に椿花を確認することはできませんでした。

 

 前庭で梅の木が、幹を捩り、枝を伸ばし、青い空と白い雲を背に、桃色の花を咲かせていました。


 のどかな季節の、のどかな花の風情に心が和みます。

 

 

 

 紅の花を訪ねる旅は、春の日のぽかぽか陽気に恵まれ、微笑みの時を刻みながら、麗らかな道行を続けました。

 

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氷見市薮田のヤブツバキ

2017-09-07 14:37:35 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 氷見海岸道の駅で朝を迎えました。




 昨夜買っておいたバターロール片手にハンドルを握り、富山湾に沿って国道160号を北へ向かいます。


 車の旅では、朝食はいつもこんなふうに済ませます。


 せっかく見知らぬ土地へ来たのですから、ありきたりの朝食などに時間を割いていては勿体ないじゃありませんか。


 朝陽を浴びた紅梅が列なす国道を、潮風を車内へ取り込みながら、のんびりペースで車をはしらせます。

 

 事故でも起こせば、楽しい旅も台無しですから、一旦走り出せば、はやる気持ちは封印します。

 


 しばらく進むと、国道の左手に誰かの銅像が見えてきました。


 車を停めて近寄りますと、浅野総一郎の像であることが分かりました。


 浅野総一郎は1843年(嘉永元年)、今から170余年前に氷見郡薮田村の医師の長男として生まれ、東京へ出て浅野セメントを創業し、東京から横浜にいたる京浜工業地帯の形成に寄与し、巨万の富を成した実業家です。


 しかし成功するまでに何度も失敗を繰り返したため、像の台座には「九転十起の像」と記されていました。

 



 浅野総一郎が生まれた6年後にペリーが久里浜に来航しています。


 その頃、横浜は粗末な漁師小屋が点在する漁村だったのですから、そのことを思えば、当時のこの辺りの光景が容易に想像できます。


 筆者は横浜生まれですが、思いがけないところで、生まれ育った郷里の復興に携わった人物に巡り会うことができました。

 

 話しは少し脱線しましたが、今回の旅は、氷見の古木椿を訪ね歩くことが主目的で、氷見の丸山さんから送って頂いた詳細な資料に、丸山さんお勧めの椿にマーカーでチェックを付けて持参しました。


 ネットの地図検索ページなどを使い、それらを訪ね歩くルートを事前に作成しましたので、そのプラン通りに車を進めて行きます。
 
 最初に訪ねたのは、氷見市薮田の穴倉家墓地のヤブツバキです。


 波打ち際をはしる国道160号と、海岸のテトラポットの狭間に民家が並び、

 



 その民家の背後、国道を渡た先に、20mほどの高さの小山へ登る階段を見つけました。

 


 階段を登りながら後ろを振り返えれば、昇る朝陽が静かに、豊穣の海を照らしていました。


 海に輝く朝日を見たくて、このルートを設定しましたが、思惑通りの展開になっています。

 



 石段を登り進んでゆくと、見事な椿林が陽の光を受け、木肌を輝かせていました。

 

 


 雨風に洗われたコンクリートの上で、朱色の椿が黄色い蕊の華やぎを見せて、笑顔をほころばせていました。

 



 石段を登り詰めれば、椿の古木が風雪に耐え身を捩らせています。


 もしかすると、浅野総一郎が寒村に志を立てた頃に花を咲かせていた樹齢の椿かもしれません。

 

 

 

 潮騒の中で、沈丁花が春の香を放っていました。

 

 

 

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