今回の仙台、石巻へは、本当に皆さんのご協力で実現した旅です。
震災後から、連絡を取り合ってきた高平さんに、「行きたいんです」と話すと、「コースなどこちらで考えます!!」と、今回のコースをいろいろと計画してくださいました。
仙台空港、名取・閖上地区、荒浜・・・
多くの方が犠牲となり、甚大な被害を受けてしまった地域へと向かうときには、本当に現実とは思えない広大な現場…
山積みにされたがれき・・・
でも、仙台駅周辺は、ビルの外壁を治していたり、道路の補修工事をしていましたが、人の流れは多く、にぎわっています。
被災された方と、大丈夫だった方・・・
どちらも苦しんでいる現状がたくさんあります。
震災後、4月の終わりごろに、仙台在住の恵美子さんからいただいたお手紙には、
「何度か近況報告をと思っていましたが、心の中に葛藤があり、文章にできませんでした。苦しくて誰にも話せなかったです。
時が解決してくれたのか、最近は少しは気持ちが和らいできましたが、気持ちが晴れることはありません。
仙台は、震災の影響でやめてしまったお店がありますが、ほぼ通常と変わらない生活をしています。ですが、ほんの少し海側に行けば、本当にここは地獄なのかと思うほどの光景が目に入ります。
こんなところに船があるはずがないところに船があり、車は田んぼにつきささり、多くのがれきが田んぼに散乱していました。そのがれきは誰かの家だったのです。
いつも飛行機を見に行っていたところは道が無くなり、公園の遊具もあとかたもなくなっていました。
親戚も津波で流された人もいるし、避難所で生活している主人の同級生、そして福島の地は、私の第二の故郷とも言うべき大切な思い出が詰まった地でした・・・。
石巻のことを知った時、津田さんの安否を思っていました。
ブログで無事だったことを知り、本当にうれしかった・・・。
しょうこさん・・・すぐ近くがそんな状況なのに、私は普通の生活をしています。
私には何もないです。人の役に立つことができません。本当に自分は無力です。何もしてあげることができません。
何かをしたいのに「嫁として 妻として」の立場がそれをさせてくれません。何かを探しましたが、結局毎日募金を続けることだけです。
・・・・
最近気持ちが落ち着いてはきましたが、自分をちっぽけだと思う気持ちや無力感からはなかなか抜け出すことができません。
今、すべてに感謝して生きています。私みたいな気持ちを持っている人はたくさんいると思います。
自分が“生かされた意味”をずっと考えています。答えが出る日がくるでしょうか。生かされた命を、有効に活用するのは自分自身しかないと思います。答えが出る日を一日でも早く来ることを願っています。
・・・
すべての人たちに、心から笑える日が来ることを信じています。またいつの日か須永先生、粧子さんにお会いして、気持ちを抱きしめてもらいたいです。それまでどうぞご無理をなさらずにお元気でいてください。」
と、直接被災していない宮城県の人の心が書かれてありました。
私はこのお手紙を、いつもお守りのように持ち歩いていました。
須永博士や、スタッフに読んでもらったりもしました。
5月の函館での講演会、7月の静岡、礼文島、9月の沖縄、鹿児島・・・。いつもバックに入れています。(今も・・・。)
返事を書こうとおもいながらも、連絡もできないでいた10月。メールで連絡しましたら、お返事をいただきました。
「あれから、7ヶ月が過ぎました。
街では、何事もなかったかのような雰囲気ですが、好きだった小さな店が営業しなくなっていたりして、ちょっとさみしいです。
5月末くらいから、ずっと体調を崩してしまい、挙げ句の果てに、7月にはぎっくり腰で1週間寝たきりになっていました。
ずっと、あまり眠れない日が続き、疲れが取れない毎日のなかで、秋に向かって仕事が 忙しくなり、今が一番しんどい時です。
9月には、同じ歳の大学の同級生が急死し、ショックでしたが、最近ようやく落ち着きを取り戻しています。
8月始めに、石巻に行ってきました。
ボランティアとかそういうきちんとしたのではなく、主人が車を走らせ、ずっと見てきたという感じです。
言葉が出なかったです。
主人の実家からすぐ行った場所も、壊滅的な被害を受けましたが、石巻も同じでした。
海沿いは色がなく、灰色といった表現に近いです。
いろんな人の生活、人生をあっという間に奪ったんだ。
涙が止まりませんでした。
そんな中、海沿いの道で、中央分離帯がある道があるのですが、そこに植木があっただろうと言う、少し土がある場所があるのですが、そこに、おじいさんが一人、しゃがみこんで
いました。
何と、花の苗を植えていたのです。
いつの日にか再生する日を願って植えていたのでしょう。
人間って、弱いけど、強いなって思いました。
実際、ホントの被害にあった人よりも、おそらく周りに居る人の方が落ち込んでいる人が
多いと感じます。
落ち込んでられないなと思います。
でも、亡くなった方のことを思うと、そして、なにもかも奪われてしまった人の事を思うと
悲しまずにはいられません。
「忘れる」ということが一番罪なのだと思います。
思い起こして、思い出の地、亡くなった人のこと、残された家族のことを、時々
思い出して、思いを共有することも必要なのでは無いかと思います。
そして、自分になにができるか・・・
当初、ボランティアに行きたかったです。
行ってなにかをしたかった。
苦しがっている人の、なにかの役に立ちたかった。
でも、「うちの事もちゃんとできなくて、ボランティアに行ったって、なにができる
なにも役には立たない」そういう主人の言葉で、断念し、ひたすら募金を送る日々を
送って居ます。
そのなかで、自分なりにできることを探して行けたらとは思っています。
私が辛い気持ちになるもう一つの出来事に、福島原発の避難区域に取り残された
動物たちのことでした。
えさやり、救出活動をしてくれている方のブログを読み、その方たちに、ささやかながら
毎月募金をしています。
福島は、私のもう一つの故郷と言えるところなのです。
放射線におびえる日々、風評被害。。。
福島に居る友人たちの事を思うと、辛くて心がはりさけそうになります。」
このメールを読んで、ぜひブログをとおして皆さんに読んでほしいと思い、引用のお願いメールをしました。そしていただいたお返事です↓
「前回のメールは、とにかくお返事を!とおもって焦って書いたので、表現力も
言葉も今ひとつですが、ブログに載せるのは、全く支障はありません。
むしろ、私もどんどん広めたい。。。(といっても、外からみたら一見して
「震災前と変わらない生活をしている」ため伝えたい情報などはあまり
ありませんが。。。)
かえって、石巻の津田さんやご実家が大船渡の高平さんなどに、申し訳
ないぐらいです。
自分で自分の書いたメールを読み返してみました。
偉そうなことばっかりですよね、「忘れることが罪」って。
実際、新潟の地震のこととか北海道の地震のこと、私忘れてました。
新潟・・・あのときも新潟にある原発が危機迫る状態でしたよね、確か。
やっぱり、離れてると、「対岸の火事」なのです。
北海道での地震では、津波で沿岸地域が今回と同じく壊滅状態でしたよね。
今回の地震で、しばらくしてからの報道で、結構自分でショックでした。
まさしく「わすれていた自分」がありました。
自分が同じ目に遭わないと、忘れてしまうのでしょうか・・・
今回はさすがに規模が大きかったため、日本国中の人々が記憶するでしょうが
もう少し、被災者の心に寄り添うことが必要なんだと実感しました。」
すごいメッセージですよね。
これは、本当に現地の当事者でなければ分からない感情です。
いつか、ぜひ皆さんにも紹介したかった・・・。
読んでくださって、心から感謝します。
ありがとうございます。
震災後から、連絡を取り合ってきた高平さんに、「行きたいんです」と話すと、「コースなどこちらで考えます!!」と、今回のコースをいろいろと計画してくださいました。
仙台空港、名取・閖上地区、荒浜・・・
多くの方が犠牲となり、甚大な被害を受けてしまった地域へと向かうときには、本当に現実とは思えない広大な現場…
山積みにされたがれき・・・
でも、仙台駅周辺は、ビルの外壁を治していたり、道路の補修工事をしていましたが、人の流れは多く、にぎわっています。
被災された方と、大丈夫だった方・・・
どちらも苦しんでいる現状がたくさんあります。
震災後、4月の終わりごろに、仙台在住の恵美子さんからいただいたお手紙には、
「何度か近況報告をと思っていましたが、心の中に葛藤があり、文章にできませんでした。苦しくて誰にも話せなかったです。
時が解決してくれたのか、最近は少しは気持ちが和らいできましたが、気持ちが晴れることはありません。
仙台は、震災の影響でやめてしまったお店がありますが、ほぼ通常と変わらない生活をしています。ですが、ほんの少し海側に行けば、本当にここは地獄なのかと思うほどの光景が目に入ります。
こんなところに船があるはずがないところに船があり、車は田んぼにつきささり、多くのがれきが田んぼに散乱していました。そのがれきは誰かの家だったのです。
いつも飛行機を見に行っていたところは道が無くなり、公園の遊具もあとかたもなくなっていました。
親戚も津波で流された人もいるし、避難所で生活している主人の同級生、そして福島の地は、私の第二の故郷とも言うべき大切な思い出が詰まった地でした・・・。
石巻のことを知った時、津田さんの安否を思っていました。
ブログで無事だったことを知り、本当にうれしかった・・・。
しょうこさん・・・すぐ近くがそんな状況なのに、私は普通の生活をしています。
私には何もないです。人の役に立つことができません。本当に自分は無力です。何もしてあげることができません。
何かをしたいのに「嫁として 妻として」の立場がそれをさせてくれません。何かを探しましたが、結局毎日募金を続けることだけです。
・・・・
最近気持ちが落ち着いてはきましたが、自分をちっぽけだと思う気持ちや無力感からはなかなか抜け出すことができません。
今、すべてに感謝して生きています。私みたいな気持ちを持っている人はたくさんいると思います。
自分が“生かされた意味”をずっと考えています。答えが出る日がくるでしょうか。生かされた命を、有効に活用するのは自分自身しかないと思います。答えが出る日を一日でも早く来ることを願っています。
・・・
すべての人たちに、心から笑える日が来ることを信じています。またいつの日か須永先生、粧子さんにお会いして、気持ちを抱きしめてもらいたいです。それまでどうぞご無理をなさらずにお元気でいてください。」
と、直接被災していない宮城県の人の心が書かれてありました。
私はこのお手紙を、いつもお守りのように持ち歩いていました。
須永博士や、スタッフに読んでもらったりもしました。
5月の函館での講演会、7月の静岡、礼文島、9月の沖縄、鹿児島・・・。いつもバックに入れています。(今も・・・。)
返事を書こうとおもいながらも、連絡もできないでいた10月。メールで連絡しましたら、お返事をいただきました。
「あれから、7ヶ月が過ぎました。
街では、何事もなかったかのような雰囲気ですが、好きだった小さな店が営業しなくなっていたりして、ちょっとさみしいです。
5月末くらいから、ずっと体調を崩してしまい、挙げ句の果てに、7月にはぎっくり腰で1週間寝たきりになっていました。
ずっと、あまり眠れない日が続き、疲れが取れない毎日のなかで、秋に向かって仕事が 忙しくなり、今が一番しんどい時です。
9月には、同じ歳の大学の同級生が急死し、ショックでしたが、最近ようやく落ち着きを取り戻しています。
8月始めに、石巻に行ってきました。
ボランティアとかそういうきちんとしたのではなく、主人が車を走らせ、ずっと見てきたという感じです。
言葉が出なかったです。
主人の実家からすぐ行った場所も、壊滅的な被害を受けましたが、石巻も同じでした。
海沿いは色がなく、灰色といった表現に近いです。
いろんな人の生活、人生をあっという間に奪ったんだ。
涙が止まりませんでした。
そんな中、海沿いの道で、中央分離帯がある道があるのですが、そこに植木があっただろうと言う、少し土がある場所があるのですが、そこに、おじいさんが一人、しゃがみこんで
いました。
何と、花の苗を植えていたのです。
いつの日にか再生する日を願って植えていたのでしょう。
人間って、弱いけど、強いなって思いました。
実際、ホントの被害にあった人よりも、おそらく周りに居る人の方が落ち込んでいる人が
多いと感じます。
落ち込んでられないなと思います。
でも、亡くなった方のことを思うと、そして、なにもかも奪われてしまった人の事を思うと
悲しまずにはいられません。
「忘れる」ということが一番罪なのだと思います。
思い起こして、思い出の地、亡くなった人のこと、残された家族のことを、時々
思い出して、思いを共有することも必要なのでは無いかと思います。
そして、自分になにができるか・・・
当初、ボランティアに行きたかったです。
行ってなにかをしたかった。
苦しがっている人の、なにかの役に立ちたかった。
でも、「うちの事もちゃんとできなくて、ボランティアに行ったって、なにができる
なにも役には立たない」そういう主人の言葉で、断念し、ひたすら募金を送る日々を
送って居ます。
そのなかで、自分なりにできることを探して行けたらとは思っています。
私が辛い気持ちになるもう一つの出来事に、福島原発の避難区域に取り残された
動物たちのことでした。
えさやり、救出活動をしてくれている方のブログを読み、その方たちに、ささやかながら
毎月募金をしています。
福島は、私のもう一つの故郷と言えるところなのです。
放射線におびえる日々、風評被害。。。
福島に居る友人たちの事を思うと、辛くて心がはりさけそうになります。」
このメールを読んで、ぜひブログをとおして皆さんに読んでほしいと思い、引用のお願いメールをしました。そしていただいたお返事です↓
「前回のメールは、とにかくお返事を!とおもって焦って書いたので、表現力も
言葉も今ひとつですが、ブログに載せるのは、全く支障はありません。
むしろ、私もどんどん広めたい。。。(といっても、外からみたら一見して
「震災前と変わらない生活をしている」ため伝えたい情報などはあまり
ありませんが。。。)
かえって、石巻の津田さんやご実家が大船渡の高平さんなどに、申し訳
ないぐらいです。
自分で自分の書いたメールを読み返してみました。
偉そうなことばっかりですよね、「忘れることが罪」って。
実際、新潟の地震のこととか北海道の地震のこと、私忘れてました。
新潟・・・あのときも新潟にある原発が危機迫る状態でしたよね、確か。
やっぱり、離れてると、「対岸の火事」なのです。
北海道での地震では、津波で沿岸地域が今回と同じく壊滅状態でしたよね。
今回の地震で、しばらくしてからの報道で、結構自分でショックでした。
まさしく「わすれていた自分」がありました。
自分が同じ目に遭わないと、忘れてしまうのでしょうか・・・
今回はさすがに規模が大きかったため、日本国中の人々が記憶するでしょうが
もう少し、被災者の心に寄り添うことが必要なんだと実感しました。」
すごいメッセージですよね。
これは、本当に現地の当事者でなければ分からない感情です。
いつか、ぜひ皆さんにも紹介したかった・・・。
読んでくださって、心から感謝します。
ありがとうございます。
高く飛ぶための充電期間です。
俺もこの体になりなにもできずにいましたが先日障がい言論という授業の講師を大学でする事になりましたし、できる事はあるはずです。
俺は低く低く低~くしゃがんだ分嵩く高くジャンプしますよ(^^)v
(沖縄の恵輔くん、詩集「奇跡への第一歩」に登場しています)
すごい!!ついに夢実現だね~
私もその講義、受けてみたいです。
恵輔君の言葉にも、いつもすごく元気をもらいます。
先日の臓器移植公開講座で体験を発表した熊本の敬助くんも素晴らしかったです。
沖縄と熊本、2人のけいすけ君がしてきた経験と、それを人に伝えることができる使命は本当に多くの方に勇気と希望、元気を与えられると思います!!
頑張ってね
昨日も恵美子さんからメールをいただき、
「わたし、いつも思うのです。どんな人でも、必ず何かしら役目をもって産まれてきているはずだと・・・
それは人それぞれ違うし大きいも小さいもない。
だから決して「なんのために産まれてきたんだろう」とか「自分はなんの役にも立っていない」「なんで自分の方が生き残ったんだろう」って思う必要もないし、思ってはいけない・・・と自分に言い聞かせています。」
とありました。
私も、今この仕事をさせてもらっている意味をいつも考えています。
こんなにたくさんの方々に、須永博士の仕事を通して出逢わせてもらえること、ブログを通して、全国の方々とつながっていること・・・
こんなにありがたいことはありません
「低く低く低~くしゃがんだ分嵩く高くジャンプしますよ(^^)v」
という恵輔くんの今の姿が目に浮かびます
また講義の様子、教えてね