ブログを書いている私(佐藤粧子)は1996年4月から須永博士の手伝いをするようになり、須永博士講演会、展覧会場まで車で行ける距離のところへは私が運転し、助手席に須永博士が座り、
目的地までいろいろと話しながら貴重な時間を過ごしてきました。
そんな中で、
「自分の歩みや昔書いた言葉や作品は今さら見せなくてもいい」
と、過去の詩集を読み返すこともないし、講演会で話す以外の生い立ちなど、人前で話すことはほぼない須永博士です。
だけど、私は聞いてみたい。と思い、2008年に聞いたことがあり、その返事です。
「ただひたすら、前へ、前へと生きてきた。
失敗も挫折も、悔しさも数えきれないほどあった。
宿に帰り、ひとり泣いた事もあった。
でも自分は、待ってくれている人がいつもいた。
だから振り返る時間なんて無かったよ。
次の旅、次の出逢いのために後ろは振り返らないで今まで生きてきた。
自分では、もう過去の作品を今、もう一度読み返そうとは思わないんだ。
でも、その時に、もがいたり試行錯誤したり自分に言い聞かせていた言葉を、
読んで力をもらえると言ってくれる人がいるのならば、どんな形にするかこれから考えてみてもいいかもね。
でも自分は常に、人に会うときは元気な自分、楽しい自分、パワーいっぱいの自分でいます。
それを一生続けます!」
という話を聞かせてくれました。
だから、自分自身が今より心が弱い時の言葉を見せるのに抵抗があったのでしょうね。
2008年の会話・・・それから本にまとめるまで16年も経ってしまいました。
昨日までは、須永博士の誕生~就職、そして人生の絶望、どん底を経験したことを書きました。
今日は、一度終わりにしようというところまでいった須永博士が、「たった一度の人生、やりたいことをやろう」
「助けてくれるのは自分自身」と気づき、22歳から通った「セツモードセミナー」でのことから書いていきます。
【セツモードセミナー 河原淳先生との出逢い】
昭和39年4月 当時港区にあった【セツ・モードセミナー】に通いはじめました。
週3日のカリキュラムでした。ドキドキしながら、教室に入り、いつも一番後ろの席に座り
「この道しかない。」
と心の中でつぶやきながら、真剣に学びました。
全国から服飾関係、デザイン関係を目指す人が集まっている場所でした。
「みんなかっこいいなあ。」
スタイルも良く、夢に向かっている人たちの中にいるだけでも、いい勉強になりました。
良い刺激の中で、石膏のデザインや、モデルさんを見て描いたり、本格的な授業の日々、
生まれて初めてと言えるほど、一生懸命でした。ここで学んだ生徒さんが、先生になっていたりして
若い先生が教えてくれる中で、セミナーの設立者の「長沢節先生」も週に1度授業があり、
もう1人イラストレーターの先生が、月に一度、教えてくれていました。
その先生が、「河原淳先生」です。ある日の授業のテーマは、新聞広告に載せるための絵でした。
「雨の日、傘を差した人」というテーマです。
私が書いたのは、傘を差したかわいい子供達がいっぱい、空から降りてくるようなイラストです。
描き終え、周りを見ると、本格的な、かっこいいスタイル画でした。
「俺のこの絵じゃ、ダメだよな・・。」
と思いながらも、思い切って提出しました。
先生に提出し、休憩時間に。そして教室に戻り、河原先生の批評の時間です。
すると、突然、「この絵を描いた、須永君、立ってください」と言われました。
一番後ろの席に座っていたので、立ち上がるとみんな振り返ります。おそるおそる、立つと・・・
「この絵が今日の、1番です。みんな、同じような絵を描いてもいけません。
この、須永君のように、人には描けないハッとするような絵を描きなさい。
須永君、君の絵は必ず世の中に認められます。がんばりなさい。」
「え!? 僕の絵が、1番!?」
びっくりしました。
教室のみんなもびっくりしていました。
そして、褒められたことで、とても自信がもてました。
今まで褒められたことなんて無い人生でしたから。
河原先生は、それからも応援してくださいました。
「自宅で、河原ゼミナールといって色々な画家を呼んで勉強会をしているので、君も来なさい。」
と言ってくださり、等々力という場所の自宅に何度も尋ねていきました。
有名なプロの画家、現在も名のあるイラストレーターの人などが来ていて、本当に嬉しく、楽しかったです。
「みんなすごいなあ。世の中にはすごい人がたくさんいるんだ。」
毎日が輝き、希望に満ち、自分にも少しづつ、少しづつ自信が持ててきました。
当時描いていたイラストです↑
【夢への一歩】
「自分は詩人になる。」という夢を描き、その詩にイラストを加えたものを作品として完成させたい。
それに、写真もきっと、必要になる。心配かけ、苦労させた母の手伝いもしていきたい。
そうだ、まずは母が今、細々とやっている写真屋を、本気でやろう。
だけどやっぱり、基礎は学ばなければいけないんだ。
高校3年生のときは、ただ何となく勉強して、何となく受験して、うまくいかなかったけれど、
今度は本気で受験しよう。本気で勉強しました。
そうして、東京写真専門学校に合格しました。学費は、母が何とかしてくれました。
必死で働き、必死で払っていてくれていたのだと思います。
一年間、本気で、真剣に学びました。
昭和40年23歳の時写真専門学校に入学し1年間写真の基礎をしっかりと学び、
今まで迷惑かけっぱなしだった母に、少しでも楽をさせようと、卒業後も写真屋を手伝いました。
母と子、写真屋で食べていかなければと、真剣に考えました。
絵の学校、写真の学校の費用を出してもらったし、身体の弱い母に、少しでも役に立つ息子になりたいと思いました。
写真屋での主な仕事は、現像した写真をお客様に配達することその配達先の近所の文房具屋さんの息子さんが
喫茶店をすることになってオープンしたけれど壁には何もなくて、
「ここに絵を飾らせてもらえませんか」
とお願いして飾らせてもらいました。
それが初めての展覧会でした。
タイトルは「須永博 まんが展」
昭和41年 24歳の時です。
24歳の須永博士 近所の喫茶店での第一回まんが展