先月、1年前に亡くなっていた童門冬二さんの死亡記事が発表された。著作を愛読していたので、非常に残念に思った。
童門さんは、現役時代は東京都の公務員をしていたので、地方自治に詳しく、退職後は歴史関係の作家もしていたので、全国の歴史や人物にも詳しい。
今回借りてきた本は、地方や地域で知られてきた人物ではあるが、その業績が他の地域でも参考になる仕事をしてきた人ということである。
18人が取り上げられていて、知っていた人、初めて知った人、いろいろであった。
そのなかで、河合曽良と鴨長明について関心を持った。二人とも歴史の教科書にも載っているので有名であるが、読んでみたら意外な経歴があったので驚いた。
河合曽良は「おくのほそ道」を書いた芭蕉の同行者として有名だから、名前は知っていた。曽良は「おくのほそ道」の旅では、東北から北陸に回り、山中温泉で芭蕉に分かれて先に上方に帰ったという。
童門さんは、この曽良の別れは、曽良の神経の使い過ぎに寄るだろうと推測している。芭蕉の芸術的眼力と自分の現実的次元での見方に、耐えられなくなったのではないかという。
河合曽良は、1649年信濃国上諏訪で高野七兵衛の長男として生まれた。本名は岩波庄右衛門正字、幼名与左衛門という。6歳の時生父母が亡くなり、母の妹が嫁いだ岩波家の養子になったという。岩波家は諏訪地方の名族で、一族からは岩波書店の創業者岩波茂雄が後代にでている。しかし、養父も11歳の時に亡くなり、伊勢長島にいた叔父の世話で、長島藩主松平家に仕官することになった。その後仕えた藩主が改易され、曽良は浪人したという。
1709年、曽良は幕府の巡見使に選ばれた。担当は九州方面、「岩波庄右衛門」として、登用された。曽良は神道に詳しかった。吉川惟足や並河誠所、関祖衡が推薦してくれたという。曽良は俗人ではなく、旅を好み、いろいろなところを歩いていたらしい。
曽良は六十六部をしていたという説がある。六十六部とは「六十六か国にある一の宮と国分寺をたずね歩く」ということだ。神社仏閣関係の知識が豊富だったのである。
1710年、曽良は九州に向けて江戸を旅立った。東海道を下り大坂へ行き、その後船で九州へ向かい、小倉藩、名島藩を巡見しながら福岡城へ入った。その後離島の巡見に入り、壱岐に行き勝本港にはいり、そこで身体をこわし寝込んでしまった。地元の海産物問屋の居室で看病されたが5月22日亡くなった。壱岐の勝本にある能満寺に曽良の墓がある。
曽良が長くなったので、鴨長明は次回にします。