しばらくぶりに佐藤雅美さんの小説を読んだ。実はこの本は2回目の挑戦である。一度目は、図書館から借りたのだが読まずに返却してしまった
のである。
題名だけではわからないが、この本は前に書いた細川幽斎の孫の話である。
細川幽斎には、忠興という息子がいる。その子供が幼名与一郎の忠隆(長男)であり、千世とは、前田利家の娘(七女)である。
この二人は秀吉の勧めで夫婦となったのである。
その時期は、慶長二年のころで、秀吉が亡くなる前であった。
その後秀吉がなくなり、五大老五奉行の支配の時期となり、家康と光成の衝突する関ケ原の戦いへと移ってゆく天下大乱の前の時代であった。
この時期、家康は着々と天下取りに歩みを始めていた。そしてそれに対抗するのが、五大老のひとり前田利家であった。
この時、幽斎の知恵を入れて和解という名目で利家と家康の間を取り持ったのが、細川忠興であった。
忠興は家康に味方し恩を売った形になったが、家康はそんなことは意に介さず、その後、前田利家の息子の利長と忠興の離間を図るべく、
両家に家康への忠誠を誓う条件を突きつけた。
加賀前田家の利長には、1.家康宛ての誓紙を出すこと。2.利長の生母芳春院を証人として江戸へ下すこと。3.利長の弟利常に秀忠の
二女を迎えさせること。
細川忠興には、1.謀反しない旨の誓紙をだすこと。2.三男光千代を証人として江戸へ下すこと。3.前田家との縁者振りを絶つこと。
このことが、与一郎忠隆と千世の生涯に思わぬ不幸をもたらすことになったのである。
細川家の嫡男・忠隆と前田家の絶世の美女と言われた千世、家柄もいい、相性も良かった二人であったが、天下の大乱の中で、その将来を
乱されるきっかけとなったのが、関ケ原の戦いであった。
忠興の妻は、明智光秀の娘であった玉である。関ケ原の戦いの前段、光成が挙兵して最初にやったのが、大阪近辺にいた諸将の妻子の大阪城
への取り込みであった。このことに、忠興の妻、玉は入場を拒み自害して果てたのである。そのことは光秀側にとっては大きな目論見違いで
あった。
しかし、この時長男の妻として姑と一緒に行動を共にすべきだった千世は、近くの前田家に逃げ込んこんだのである。
父忠興から嫁千世に因果を含めておけと言われたのに、妻を愛していた忠隆はそう言えずに、「脱げてくれ」と言っていたのである。
このことがあり、忠隆は関ヶ原の戦後、忠興から丹後の山奥の河守(こうもり)の城の守備を命じられ、幽閉同然の暮らしを強いられた
のである。
関ヶ原の論功行賞で、細川忠興は九州の豊前一国と豊後の速見、国東の二郡を与えられた。しかし、忠隆には「豊前に足踏み、無用」と
浪人しろと言ってきたのである。細川家の嫡男は、その後の忠興による家康体制への忠誠の犠牲になって、ひとりで生きていかねばなら
なくなったのである。
忠隆のその後は、しばらく京にいた祖父幽斎夫妻の世話になりながら暮らし、猿楽や茶などをたしなみ京の名士となり、茶会にも招かれる
ようになったという。茶会では号を休無と称するようになった。
忠隆は後年父忠興とも交流し、忠興の跡を継いだ三男忠利が熊本細川家を継いだが、忠隆の息子たちに扶持が与えられ、
二男の半衛門家が内膳家を名乗り、幕末まで続いたという。
佐藤雅美さんの作品には、戦国乱世を縦横無尽に駆け回った武将というよりも、その周りで陰ながら行動した人々や女性など、あまり名も
知られていない人々の生涯に陽を当てているところがあり好きである。
また、合戦や武将の行動、心の動きにも他の作家とは違う解釈をされることもあり、いろんな方面からの見方を提示され面白いと思っている。
しばらく読んでいなかった時代ものであったが、関ケ原の戦いの細部も頭に入り、良い作品を読むことができたと思う。
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