郷が杜備忘録

旅行や読書と日々の行動の記録。
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遠藤周作氏のエッセイを読む

2021-03-21 | 日記

昨日の地震で本棚から落ちた本を整理していて、手に取った本の一説を読んだ。

遠藤周作氏の「周作塾」というものであった。「読んでもタメにならないエッセイ」と本の名前の横に書いてある。

 

たまたま開いたところに、「政治家・三木武吉に見る自分の器量の認識のしかた」という一文があった。

三木武吉(みき ぶきち)という人は、遠藤に言わせれば戦後政治家で駆け引きや術策のうまかった人ということである。

私もまだ子供のころの政治家と思うので、実物を見たことがないが名前は自民党政治に関する本などで知っていた。

彼は吉田茂首相を政権の座から引き下ろすためにあらゆる術策と駆け引きを使った党人であったという。

それは彼がかついだ鳩山一郎を宰相にするためであった。

 

エッセイのなかで、遠藤が気に入っている三木の言葉を紹介していた。

鳩山を首相にさせた後、ある人が三木に「鳩山さんのあとは三木さんですね」というと、三木はムッとしたように

「総理というものは、偉い、偉くないは別としてだ、やはり将に将たるうつわでないといかん。

吉田君、鳩山君、緒方竹虎君、一様に将だ、将たるうつわだ。わしは卒(そつ)に将たるうつわだ。なれるもんかい」と答えた。

 

遠藤がこの言葉を好きなのは、三木という人は自己を非常によく知っていたからだという。

我々は自己の器量を認識することは難しい。総理になるものは総理になるだけの風格がある。

三木武吉は長い政界の浮沈を見ているうちに、大臣になるものと総理になるものとの風格の違いを肌で知ったにちがいない。

 

今の政治家には、これだけの風格を感じさせる人や雰囲気のある人がいるだろうか。

目の前の打算や権力だけで動いている人ばかりでないだろうか。自分の一身をかけるような人も見られない。

国会中継を見ても、会見の話を聞いても政治家の凋落に嘆きたくなる。

 

 


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