気の向くままに

山、花、人生を讃える

芸術の秋を気取って

2022年11月10日 | その他

芸術の秋を気取って絵を描きました。
わざわざ見てもらうような絵ではないけれども、誰か見てくれる人がいれば嬉しいのが人情というもの。
それに、ご本人は「おお、ずいぶんうまくなったではないか」とご満悦。
どうぞ、そんな孤独な老人の、ささやかな喜びを思いながら見てやってください。(笑)

 

下は絵を描き始めたばかりの2年前に描いたもの

 

お口直しに写真もどうぞ。

見ていただき、ありがとうございました。

 

○あなたが鏡を見るとき、そこに映っているのが天使である。

               ニール・ドナルド・ウォルシュ著 『神との対話』より


「人間とは?」

2022年11月06日 | 人生

統一教会の問題が今なおマスコミを賑わせていのす。これは人々に宗教否定の感情を持たせるのではないかと心配しています。

今の日本の社会を見ていると、大人の諸々の不祥事や、親の子供に対する虐待、自暴自棄から他を道連れにする自殺行為、子供たちのいじめ問題など様々な問題があるが、それらは結局、人間をつまらないものだという人間観が知らず知らずのうちに心の奥に潜在しているからではないかと思う。そうでなければ、結果が判り切ったような不祥事を起こすはずもなく、親が子供を虐待する筈もなく、また子供がその仲間を社会問題になるほどのいじめをする筈がないと思う。これらの底に横たわるのは、本人は意識していないかもしれないが、

「親のセックスによって、生まれたくもないのに生まれた」

「そんな人間に生れてきた意義などある筈がない」

「死ねばすべてはおしまい」

など、無意識かもしれないが、そんな人間観が災いしているとしか思えない。
これを改善するには、制度だけの改革では効果は得られず、どうしても、『人間はつまらないものだ』とする人間観を卒業して、『人間は尊い』(人間だけではないが)という、そんな人間観をもてるようにしていく必要があるのではないだろうか。

 

そのためには、釈迦やキリストの教えが必要になると思う。
そうでなければ、子供たちから「どうしていじめはいけないの」「どうして自殺がいけないの」と聞かれても、おそらく満足に答えられる人はいないだろうと思う。現に学校の先生は子供たちからそんな質問を受けても答えることが出来ず、困っているという相談を多く受けた、とある著名人は本の中で書いている。

 

さて、以下は何年か前にこのブログに投稿した過去記事の再投稿ですが、読んでいただければ嬉しいです。

 

 

偶然、ここへ漂着したあなたへ。

わたしは若い頃、生長の家の人間観にふれてビックリし、そしてその教えに傾倒していったのですが、あなたが賛成して下さるかどうかはともかく、その人間観をごく、ごく簡単に紹介させてもらいたいと思います。

 

水道の水は蛇口から生まれて来るのではなく、ただ蛇口を通って出て来るだけである。それと同じように人間も母親から生まれてくるのではなく、それはただ通り道にすぎない。人間の「いのち」そのものは神から生まれた「神の子」です。

もし、母親が子を生むなら、「男の子が欲しかったのに、女の子が生まれた」などということがありうるはずがありません。だから、昔から子供は神からの授かりものといわれています。

よく肉体をさして「わたし」の身体(からだ)といいます。この場合、「身体」の前に「わたしの」が付いていることに注意して下さい。「わたしの」の『の』は所有格です。だから、肉体はわたしの所有物であって「わたし」自身ではなく、わたし自身は別の「何か」であることをあらわしています。その「何か」が「いのち」です。

普通、肉体の生理機構が動いているから「生きている」ように思われている節がありますが、それは逆です。いのちがあるから肉体の生理機構も動いている。「いのち」が容れ物である肉体を動かしているのであって、肉体の生理機構が動いているから生きているのではない。だから「いのち」の容れ物である肉体を「カラだ」といい、いのちが去った肉体を「なきガラ」といいます。

人間の本質は無形の「いのち」そのものであり、「いのち」は「いのち」からしか生まれず、その「いのち」の本源を宗教では「神(仏)」と読んでいます。

 

○あなたは、あなた自身が今考えているような価値なき、つまらない者ではないのである。あなたは“物質”ではないのである。また肉体でもないのである。“生ける霊”なのである。“わたし”の分身なのである。分身というと本体から分離してしまったように誤解してはならない。あなたは“わたし”から永久に分離することのできない存在である。“わたし”は普遍的存在であるから何処にもあり、あなたの内にも住む。あなたの内に“わたし”は常に居り、あなたもまた“わたし”の内に常にある。
                        生長の家創始者 谷口雅春先生著 『神真理を告げ給う』より

 

この記事は統一教会を弁護するものではありません。  参考 インチキに誤魔化される勿れ


実りの秋

2022年10月14日 | その他

実りの秋ですね。
今年は我が家の柿は大豊作で、まるで渋柿かと思うほどたわわに実をつけてくれました。
柿を写生して、俳句も作ろうと思いましたが、どうしても「柿食えば」になってしまって、一句も造れずでした。

 

赤とんぼの絵は模写で、今は既に刈入れも終わろうとしていますが、少し前は、ほとんどこれと同じ景色の中をゴミ拾いしながら歩いていました。
俳句は、昔つくったもので、赤とんぼ自身には自分の体の赤さが見えているだろうかとふと思い浮かんだものです。

 

世の中、何かと不祥事が多いけれど、もっと自分を尊び、自分を大切にしなければと思う。

他に迷惑をかけておきながら、得をするなどと考えているなら、それはとんでもない間違いで、そんな例は毎日見飽きるほど見ているはずなのに、凝りもせず、同じ過ちを繰り返している。

人間なんて所詮こんなものだと卑下したり、見くびったりするのではなく、もっと尊く、素晴らしいものだと自覚する必要があるのでは、と思う。


日々いろいろ

2022年10月05日 | 人生

下の写真は道端に投棄されたテレビのブラウン管と洗濯機で、ブラウン管は気がついたのは今年の初めだが以前から放置されていたようだ。そして洗濯機は今年の7月に新たに投棄されたもの。このまま放置しておくわけにもいかないので、これらを写真に撮り、役場の住民課に行き、その写真を見せながら話をすると、場所を地図上で確認し、「環境衛生課で対処させていただきます」との返事でした。

そして、3日後にゴミ拾いをしながらその放置してある方へ歩いていくと、既にブラウン管も洗濯機も片付けられていて、本来のスッキリした姿に戻っていて、私の心までスッキリして。大感謝でした。

 

下の絵はどちらも模写したものだが、栗ご飯の方は、茶碗の模様が乱雑になってしまったが、栗をたくさん持ってきてくれた友達に出しました。

  

プーチンさんに、全く意味のない戦争に駆り出されるロシアの若者たちの気持ちを思うと、同じ男子として他人事ではない気持ちになるのだが、こんな絵を描いているとよい気分転換になって有難い。


彼岸花を見に

2022年09月22日 | 

車で30分ほどの、毎年行っている彼岸花の名所に行ってきました。台風のあとだし、見頃も過ぎているとは思いましたが、毎年の恒例のようなものなので、出かけてきました。そして予想通りではあったが、それでも、かろうじてセーフといったところ。良い気分転換になりました。以下は、どうってことはないですが、その写真です。

 

伊吹山と木曽川


人生、笑って行こうぜ!

2022年09月07日 | 人生

散歩していたら、早くも彼岸花が咲いているのを見つけた。
先日はコスモスと、夏の名残の真っ赤なカンナが並んで咲いていて、花の饗宴の如くであったが、今日見た彼岸花は一輪だけ草むらから頭をもたげ、ひっそり咲いているという感じだった。

 

さて、下の絵手紙は友達から来たもので、思わず笑ってしまうユーモアあふれるものなので、紹介させてもらいます 。

             

 

次は、わたしがネット上で見つけて気に入り、人生、どんな時にも笑って生きていきたいものだとの思いで模写したもの。

桃の方は、友達が趣味で栽培していて、その収穫したものをたくさん届けてくれたので、その礼状として描いたものです。ずいぶんヘタクソな字と思われるでしょうが、ヘタクソがいいんです(笑)。

      

 

何はともあれ、人生、有り難いことばかり。感謝!!

ありがとうございます。


父よ、母よ

2022年09月01日 | 人生

芭蕉の句で「父母のしきりに恋し雉の声」というのがあるが、私も、自分が子供の頃の父母が脳裏に浮かんできて、懐かしく思い出すことが多くなった。それで、ちょうどよい絵があったので、それを模写し、「父よ、母よ、ありがとう」という言葉を添えた。

それを見ていると、本当に父母にこれを届けたい気持ちになってきた。

       


超面白い実験

2022年08月17日 | その他

先日、NHKの番組で面白い実験が紹介されました。

それはスカイツリーの地上部と、それより450メートル高い展望室に、超高精密な光格子時計(日本人が発明製作した)なるものを置き、地上部と展望室とで時間の進み方の速さにどの程度の差があるか確かめるというものでした。

 

これは、地球から上空に向かって離れるほど、地球からの重力による影響が弱くなり、重力が小さければ、それだけ時間の進み方が「速く」なるというのが、アインシュタインの相対性理論の示すところですが、はたしてその結果はどうでしたでしょうか。

 

 

結果は、450メートル高い展望室の方が、1日に10億分の4秒、地上より早く進むということでした。

 

相対性理論が正しいことはとっくに証明され済みですが、今までは測定不可能だったこんなわずかな差を、光格子時計ができたことによって、測定し、確認できたというわけで、これは凄いと思い、紹介させてもらった次第です。

 

 


この驚きの事実

2022年08月06日 | 人生

先日、放送大学チャンネルのある番組を録画したものを見ていたら、その講義の中で教授がこんな話をしていました。

○水素はビッグバンの時につくられた、これだけです。ここで強調しておきたいのは、私たちの体の中には138億年前につくられた水素がたくさんあるということです・・・・と。

 

水素は一個の原子核の周囲を一個の電子が回転しているという一番単純な元素で、138億年前のビッグバンの時、最初につくられた元素であることは知っていました。しかし、その後も水素はつくられているとわたしは思っていた。ところが教授が言うには、すべての水素はこのビッグバンの時につくられている。だから、今私たちの体の中にある水素は138億年前につくられたものだ、というのだから驚きました。いやあ、自分の身体の中に、138億年前に創られた元素があるというのですから、凄いですね~。

 

ついでに書かせてもらいますが、私たちの身体には窒素、炭素、リンなども多く含まれていることはよく知られています。それらは元はと言えば、太陽の中の核融合反応によって作られたもので、その太陽が寿命を迎えて爆発すると宇宙に飛び散る。その時に飛び散った元素たちが、巡り巡って私たちの身体となっている。だから、文字通り我々人間は星のかけらで出来ている「太陽の子」であり「星の子」であると、天文物理の先生は言います。

 

いやあ、それにしても、宇宙にあるものは皆どこかで繋がっていて、バラバラのものは何もないんですねえ。

 

   


人間、死んだらおしまい?

2022年06月22日 | 人間死んでも死なない

以下は生長の家で発行されている若者向けの月刊誌に書かれていたもですが、人間死んだらどうなるかについての会話で、興味深い話と思い、ここにも紹介させてもらうことにしました。一読していただければ幸いです。

 

後輩:この前、友人と学校で「人間は死んだらどうなるのか」っていう話をしたんです。友人は「人間、死んだら終わりだよ」って話していて、僕が「よくわからないけど、死んだら終わりじゃない気がする」って話したら、「そんなの死んでみないとわからないだろう」って笑われてしまったんです。

 

先輩:たしかに、死んでみないとわからないかもね(笑)。でも、多くの人はこの肉体自体が自分だと考えているから、肉体がなくなってしまえば、それで人間は終わりだと、その友人も思っているのかもしれないね・

 

後輩:「目に見えないものは信じないし、神様なんていない」ってその友人は言っていました。以前の僕だったら、同じように考えていたかもしれませんけど、生長の家で「人間は永遠のいのちをもった神の子」だと学んでからは、「そうなのかもしれない」と思い始めていたので・・・。肉体的な死を迎えても、本当にいのちは無くならないのか、まだ確信が持てないんです。

 

先輩:そうかあ。君の友人の「目に見えないものは信じない」という話も分からないことはないけれども、僕たちが大切にしたいと思っている、人を思いやる優しさとか、愛情とか、深く心に抱いている信念とかは、目に見えないものだろう。きっと君の両親は、これまでたくさんの愛情を君に注いできてくれたと思うし、それは君自身も一番よく知っているはずだよ。

 

後輩:そう言われてみれば、「目に見えないものはない」とは言えないですよね。

 

先輩:何よりも大切なのは、人間の生命の本質を見るという事なんだ。たとえば、どんなに綺麗なバラの花でも、いつかは萎んで枯れてしまうだろう。でも、時間がくれば、バラはまた新しい花を咲かせるよね。じゃあ、なぜバラが新しい花を咲かせ続けることができるかと言えば、そこに目に見えないバラの原型、言い換えればバラの「理念」があるからなんだ。人間の生命もそれと同じで、神様の創られた「理念」としての人間が、人間の生命の本質なんだよ。「生き通しのいのち」とは、肉体がなくなっても、その「理念」は絶対に消えることがないという意味なんだよ。

 

後輩: 愛情や優しさと同じように、目には見えないけれど、神様の「理念」が確かにあるっていうことなんですね。

 

先輩:そうだね。「人間は死んだら終わり」だと考えてしまうと、人生において様々な経験を重ねていくことが、結局は無意味だという事になってしまうよね。でも、人間はそうは思えないはずだよ。たぶん僕たちは、人生で学ぶ様々なことは決して無駄にはならないと、本当は知っているんじゃないかな。生長の家では、人生とは「学校」のようなものだと教えている。そして僕たちは何度も生れ変りながら、この人生という「学校」でたくさんのことを学びながら、自分の魂を生長させていくんだよ。

 

以上で引用終わりです。

さて、「死んだらおしまい」? それとも「死んでも死なない」? あなたはどう思いますか。