はじめて『生命の実相』を読んだとき、読み進むに従って、だんだんと神は実在することを信じざるを得なくなっていき、「神は本当にいたんだ!」と感動し、驚き、それと共に、「神がいる」ということが不思議でならなかった。「神はいたんだ!」と思いつつ、同時に神がいるということが不思議で信じられないような気持だった。
また、仮に神が本当にいるにしても、神がいることを納得できるように説明できるとはとても考えられないことだったが、『生命の実相』という本は、縦横無尽にそのことが説かれていて、ただ、ただ、驚くばかりだった。また、このような本があるということも、同じく驚きだった。そして、文字通り、地獄で仏に出会ったような喜びだった。
「俺は、凄い本と出合ったぞ。こんなことは世間の誰も知らないだろう。俺は世間の誰も知らないとんでもないことを知ってしまったぞ!」と、驚きと喜びで腹の中で奇声を発していた。
恐らく私がこう書くと、『生命の実相』という本を読んだことのない人は、「お前はずいぶん信じやすい人間だな」と言うに違いない。わたしだって、わたしが今している同じ話を他の人から聞かされたら、そう思ったに違いない。それがとうぜんというものだ。だからこそ、『生命の実相』という本を読んだときは、奇跡を見る以上の驚きだった。それは一つや二つの奇跡を見るだけのそのような単純な話ではない。いくらでも奇跡を生み出す、元の元の話なのだ。読めばたちまち、世界が変貌してしまう話なのだ。たとえ現実的には何も変わらなくてもだ。分かりやすくいえば、新年を迎えたときのあの気持ち、それのはるかに度の強いものだと言えばわかるだろうか。そして、実際にやがて現実の人生も変わってくる。
仮に無神論者がいたとして、その無神論者が、神の実在を否定しようとして、この『生命の実相』に、あるいは、その著者「谷口雅春」という人に議論を吹っ掛けても、とてもかないはしないだろう。まじめに考えている無神論者なら、それこそ反対に説得されて「神の実在論者」になってしまうに違いない、そう思った。
あの頃は、『生命の実相』を読むことは一種の秘密めいた快感でもあった。
そして道を歩いていても、人生の秘密を知った嬉しさで、思わず顔がほころんできた。
トイレに隠れて一人でまんじゅうをほおばるというのは、やったことはないが、似た感覚なのかもしれない。
とにかく、読んでは買いに行きを繰り返し、4,5ヶ月で全40巻を読んでしまった。
そして、これが神さまとのご縁ができた、私にとっての始まりとなったのだった。