偶然、ここへ漂着したあなたへ。
わたしは若い頃、生長の家の人間観にふれてビックリし、そしてその教えに傾倒していったのですが、あなたが賛成して下さるかどうかはともかく、その人間観をごく簡単に紹介させてもらいます。
水道の水は蛇口から生まれて来るのではなく、ただ蛇口を通って出て来るだけである。それと同じように人間も母親から生まれてくるのではなく、それはただ通り道にすぎない。人間の「いのち」そのものは神から生まれた「神の子」です。
もし、母親が子を生むなら、「男の子が欲しかったのに、女の子が生まれた」などということがありうるはずがありません。だから、昔から子供は神からの授かりものといわれています。
よく肉体をさして「わたし」の身体(からだ)といいます。この場合、「身体」の前に「わたしの」が付いていることに注意して下さい。「わたしの」の『の』は所有格です。だから、肉体はわたしの所有物であって「わたし」自身ではなく、わたし自身は別の「何か」であることをあらわしています。その「何か」が「いのち」です。
普通、肉体の生理機構が動いているから「生きている」ように思われている節がありますが、それは逆です。いのちがあるから肉体の生理機構も動いている。「いのち」が容れ物である肉体を動かしているのであって、肉体の生理機構が動いているから生きているのではない。だから「いのち」の容れ物である肉体を「カラだ」といい、いのちが去った肉体を「なきガラ」といいます。
人間の本質は無形の「いのち」そのものであり、「いのち」は「いのち」からしか生まれず、その「いのち」の本源を「神(仏)」と言います。ですから、生長の家では人間を「神の子」といっています。
と、このように説くのが生長の家の人間観ですが、あなたはどう思いますか?
○あなたは、あなた自身が今考えているような価値なき、つまらない者ではないのである。あなたは“物質”ではないのである。また肉体でもないのである。“生ける霊”なのである。“わたし”の分身なのである。分身というと本体から分離してしまったように誤解してはならない。あなたは“わたし”から永久に分離することのできない存在である。“わたし”は普遍的存在であるから何処にもあり、あなたの内にも住む。あなたの内に“わたし”は常に居り、あなたもまた“わたし”の内に常にある。 生長の家創始者 谷口雅春先生著 『神真理を告げ給う』より