こぶた部屋の住人

訪問看護師で、妻で、母で、嫁です。
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納棺夫日記を読んで考える。

2009-05-25 22:38:38 | 読書、漫画、TVなど
この「納棺夫日記」を読んで感銘を受けたモックンが撮りたいと願い、長年温めて実現したという映画「おくりびと」。
映画を見たあと、是非読んでみたいと思いつつなかなか読めず、この週末の電車のなかで、やっと読み終わることができました。

映画とかなりリンクした体験談なのだと思っていましたが、まったく違ったものでした。
確かに、モックンの人生観や、死生観を変えたものだと思いました。

もともと、著者である青木 新門氏は、詩人だったそうです。
詩人で、飲み屋の道楽おやじで、貧乏な文人ばかりをお客に、一緒に飲んだくれて身上を潰し、子供の粉ミルクも買えなくなって、葬儀社に努めたのがきっかけで、納棺師になったとのこと。
(妻に「けがらわし!!」と叫ばれたり、「そんな仕事はやめて」と懇願されたのは本当のことでしたが・・・)

しかし、もっとさかのぼれば、満州で終戦を迎え、8歳の時、腸チフスで瀕死の母のそば、すでに亡くなった弟の亡骸を背負い、遺体の焼却場に置きに行った経験を持っていたのでした。
実は、そこから「死」というものと、ずっと向き合ってきた方だったのです。

内容は、いつくかの体験談を通して、いろいろな死生観を知るにつけ、自分の中での死生観を追及しながら、親鸞の教義に傾倒していくものでした。
びっくりするくらい、宗教や哲学も勉強していました。
そしてたくさんの、死期をまじかにした詩人の詩を、そのとぎすまされた感性で、理解しようとしていました。

特に、宮沢賢治の詩には、強い衝撃を受け、その感性の琴線に触れるようでした。

親鸞の教えを理解しながら、「悟り」について、正岡子規の死の二日前に書いた随筆の一文を引用していました。
「悟りいふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」

うーん。
唸ってしまいました。

私なりに、「死」とは向き合ってきたつもりですが、やはりあくまで自分ではないのですから、わからないのが当たり前といえばそうなのですが。

私は、母の亡くなる前日の不思議な微笑みが頭から離れません。
お見送りした患者さんのなかにも、本当に笑みをたたえたお顔の方がたくさんいらっしゃいました。

エンドルフィンのためなんでしょうか?
それとも、青木氏の言う通り、穏やかな至福の光に包まれていたのでしょうか?

死を考えると、やはり宗教も切り離せないのが人間なのかもしれません。
私なんかは、「死」を自分に置き換えると、怖くて気が遠くなってしまうこともありましたが、これを読んでちょっと変わったような気がします。

もし「死」の意味を考えることがあるようでしたら、一度読んでみてください。
ちょっと、考え方が変わるかもしれません。