献体とは:概要-歴史-関連項目-参考文献
献体(けんたい)とは、医学および歯学の発展のため、また、力量の高い医師・歯科医師を社会へ送りだすために、死後に自分の肉体(遺体)を解剖学の実習用教材となる事を約し、遺族が故人の意思に沿って医学部・歯学部の解剖学教室などに提供することである。(Wikipedia)
とあります。
その献体をご希望される患者さんが、何人かいらっっしゃいます。
なかなか自分の身体や、家族の身体を献体すると言う気持ちになれる人は少ないとおもいますが・・・
さだまさしの「眉山」も、お母さんの献体後の慰霊祭の場面から始まりますが・・・
献体を希望されると、亡くなられると同時に、登録してあるセンターからお迎えが来て、すべてが終わる数ヶ月間は、葬儀もされないようです。
間もなくお別れの患者さんの奥様から、ご夫婦で「献体」を登録されていると聞き、少なからずショックを受けました。
病院に対して、かなりの不信感や嫌悪感を持たれている方でしたので、余計びっくりしたのですが、「なんだかんだと、いろいろお世話になったから・・・」と言う事でした。
多くを語らない方ですので、真意はわかりませんが、とても大きな決断だと思います。
本に囲まれて人生を送られ、ボランティア活動にも尽力し、お母様もお看取りされた方です。
きっと、いろいろな思いがあっての事なのでしょうね。
私自身は、医療関係の仕事をしてはきましたが、やはり「献体」は考えた事もありません。
看護学生時代、大学病院でしたので法医学教室で電話番のアルバイトをしていたことがあります。
古い、ツタの絡まる法医学教室で、昼なお薄暗く、ひんやりとした部屋でした。
日曜の昼間一人で電話を待っているのが仕事です。
時々、ギィ~・・と軋んだ音をたててドアが開いたりすると、飛び上がるほど怖かったのを覚えています。
ですから、警察から電話がかかってくると、人がたくさん集まるのですごくホッとしたものです。
何で人が来るか・・・って、港町の事ですから結構水死体や事件性のある御遺体がみつかるのです。
法医解剖のために監察医務室にには、その後遺体と法医学教室の先生と、警察の方が数人集まり、解剖となります。
先生が、「今日は見ない方がいいよ、すごすぎる。」と言われる以外は、見学をしていてもいいので、何回かは見学をしましたが・・・
海堂 尊氏の「螺鈿迷宮」だったか、その克明な描写があったとおもいます。
献体での解剖は、それとは全く別物ですが、やはり長期におよんで、ばらばらにされていくイメージは自身には置き換えられず、もちろん家族もですが、その意思決定には感服せずには居られません。
ただ、親鸞の教義などのように、宗教的な死体に対する考え方によっては、まったく違和感を持たないこともあるのかもしれません。
考えようによっては、「荼毘に伏す」という日本のやりかたに、拒否感をもつ人達もいるでしょうし、そういう亡骸の存在にたいする考え方はいろいろあるのでしょうから、未来の為に献体をするというのは、一番崇高であり、かつ合理的な考え方なのかもしれません。
これは、個々の死生観によるものなので、なんとも言えませんが、少なからず周囲への影響はあると思いました。
この仕事、いろんなことを考えさせられます。
献体(けんたい)とは、医学および歯学の発展のため、また、力量の高い医師・歯科医師を社会へ送りだすために、死後に自分の肉体(遺体)を解剖学の実習用教材となる事を約し、遺族が故人の意思に沿って医学部・歯学部の解剖学教室などに提供することである。(Wikipedia)
とあります。
その献体をご希望される患者さんが、何人かいらっっしゃいます。
なかなか自分の身体や、家族の身体を献体すると言う気持ちになれる人は少ないとおもいますが・・・
さだまさしの「眉山」も、お母さんの献体後の慰霊祭の場面から始まりますが・・・
献体を希望されると、亡くなられると同時に、登録してあるセンターからお迎えが来て、すべてが終わる数ヶ月間は、葬儀もされないようです。
間もなくお別れの患者さんの奥様から、ご夫婦で「献体」を登録されていると聞き、少なからずショックを受けました。
病院に対して、かなりの不信感や嫌悪感を持たれている方でしたので、余計びっくりしたのですが、「なんだかんだと、いろいろお世話になったから・・・」と言う事でした。
多くを語らない方ですので、真意はわかりませんが、とても大きな決断だと思います。
本に囲まれて人生を送られ、ボランティア活動にも尽力し、お母様もお看取りされた方です。
きっと、いろいろな思いがあっての事なのでしょうね。
私自身は、医療関係の仕事をしてはきましたが、やはり「献体」は考えた事もありません。
看護学生時代、大学病院でしたので法医学教室で電話番のアルバイトをしていたことがあります。
古い、ツタの絡まる法医学教室で、昼なお薄暗く、ひんやりとした部屋でした。
日曜の昼間一人で電話を待っているのが仕事です。
時々、ギィ~・・と軋んだ音をたててドアが開いたりすると、飛び上がるほど怖かったのを覚えています。
ですから、警察から電話がかかってくると、人がたくさん集まるのですごくホッとしたものです。
何で人が来るか・・・って、港町の事ですから結構水死体や事件性のある御遺体がみつかるのです。
法医解剖のために監察医務室にには、その後遺体と法医学教室の先生と、警察の方が数人集まり、解剖となります。
先生が、「今日は見ない方がいいよ、すごすぎる。」と言われる以外は、見学をしていてもいいので、何回かは見学をしましたが・・・
海堂 尊氏の「螺鈿迷宮」だったか、その克明な描写があったとおもいます。
献体での解剖は、それとは全く別物ですが、やはり長期におよんで、ばらばらにされていくイメージは自身には置き換えられず、もちろん家族もですが、その意思決定には感服せずには居られません。
ただ、親鸞の教義などのように、宗教的な死体に対する考え方によっては、まったく違和感を持たないこともあるのかもしれません。
考えようによっては、「荼毘に伏す」という日本のやりかたに、拒否感をもつ人達もいるでしょうし、そういう亡骸の存在にたいする考え方はいろいろあるのでしょうから、未来の為に献体をするというのは、一番崇高であり、かつ合理的な考え方なのかもしれません。
これは、個々の死生観によるものなので、なんとも言えませんが、少なからず周囲への影響はあると思いました。
この仕事、いろんなことを考えさせられます。