今日から、医学部看護学科の学生さんの実習が始まりました。
午前午後の同行実習の間に、めぐみ在宅クリニックでの「デスケースカンファレンス」に連れていきました。
今日のケースは、うちのステーションで1年以上かかわった患者さんの振り返りであったため、スタッフも4人参加しました。
「すべて自分で納得し、決定する。」それが支えでありました。
「生きたい。そのためには絶対にあきらめないで、最後まで戦う」
その強い信念のもとで、辛い化学療法に通い、痛みのコントロールがうまくいかなくても、麻薬の増量を嫌がり、病状がすすんでも決して在宅緩和ケアのための往診医を受け入れない方でした。
その間の、葛藤はとても壮絶なもので、常に傍で支え、寄り添い、受け入れていたお母さんなくては、成り立たなかったとおもいます。
そして、担当していたスタッフも、その苦しみを緩和できないことに、同様に苦しんでいました。
約1年間の療養の中で、ほとんど自分で決定し、ベットもリフターも車いすも、全部自分で選んできた方です。
反面、進行している現実は、気ずていたはずです。
しかし、あえて目をそむけているようでした。
そして、苦痛を取るために必要な、いくつかの医療的なアドバイスを、受け入れようとはしませんでした。
それは、自分の病気を受け入れ、現実を目の当たりにするかもしれない、恐ろしいことだったのかもしれません。
痛みのコントロールが不良で、何度か往診での緩和ケアもお勧めしましたが、それはきっと、「戦うことをやめることと」と考えたのではないでしょうか。
どんな言葉も、その方の強い信念のもとでは、空回りするだけでした。
しかし、病気はどんどんと進んでいきました。
しかし、振り返ってみて、「自分で決定すること。=自律」が支えである患者さんにとって、たとえそれが痛みを伴うことであっても、そこに沿うことが支えででもあるわけです。
本当に必要な情報を、提供する難しさはありますが、その支えに沿うことが、存在と生きる意味を支えることになる・・
私たちは、患者さんを管理するのではなく、その存在と生きる意味を支えることが使命なのですから。
この方の場合、そこにはお母さんと言うすばらしい援助者がいました。
本当に、このお母さんとであえたことを感謝しています。
こんなにも、母親は強く大きいものなのだと、教えられました。
何にがあっても、わが子の思いに沿った母でした。
苦しくて、当たり散らされて、なじられても、わが子を必死に守ろうとしていました。
担当のスタッフは、「本当に、お会い出たことを感謝いたします。」と涙していましたが、それはみな同じ思いでした。
お母さんは、時折ハンカチで涙を拭きながらも、静かに淡々と当時を振り、お話をしてくださいました。
結局、最後はお母さんの決断で、小澤先生に入っていただいたのですが、すべて受け入れご両親や御兄弟に看取られ旅立ったのはそれから10日ほどのことでした。
ほんとうに、勉強をさせていただきました。
どこか、あっけにとられたような感じの学生さんでしたが、きっと彼女たちなりに感じたことがあったと信じています。
まだ、臨床すらよくわからない学生さんたちですが、私たち看護師は決して、患者さんを管理する立場にあるわけではないことを理解してほしいと思います。
病院では、ともすれば病気は見れるけれど、プライドばかりが先行して、人をみれない看護師や医師がたくさんいます。
フィジカルアセスメントも大事ですが、その前に本当の意味での援助とは何かを、最初から学べる機会があるといいですよね。
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