後期シルバーの戯言

一寸した日常生活・身辺雑記と旅日記

名古屋・南知多(山海温泉)・岡崎(八丁味噌)の旅ー其の2

2014年03月28日 | 旅行

2日目は「えびせんべいの里」の工場を見学後「やきものの常滑」の街を散策、午後岡崎の八丁味噌工場を見学する。

*えびせんべいの工場
  工場見学する人は殆どなく、えびせんべいのショッピングが目的の方々ばかりである。ツアーの参加者も工場を見学した方は殆どいない。
  一寸覗いて見たが各種のせんべいを焼く行程から包装まで自動化されており、焼く機械は10数台並んでいた。ショッピングには興味が
  ないので時間を持てあました。皆さん大きな袋をぶら下げてバスに帰って来た。

*やきものの常滑の街
  常滑のやきものは日本6古窯の一つだそうだ。陶磁器には造詣がないので知らなかったが、6古窯とはWikipediaによれば、  
    「日本古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯の総称」で以下のやきものである。
    瀬戸焼:愛知県瀬戸市  常滑焼:愛知県常滑市  越前焼:福井県丹生郡越前町   信楽焼:滋賀県甲賀          
    丹波立杭焼
兵庫県篠山市今田町立杭       備前焼:岡山県備前市伊部

  やきもの散歩道が設定されており,1周約1.5KM60分程の歩道である。解りにくい散歩道で要所要所に案内版があったが、それでも迷い
  そうになった。散歩道の地図を頼りに何とか1周できた。解りにくい散歩道で間違いないように歩くのに気を取られ、帰ってから散歩道の
  地図を見ると肝心のところは殆ど見落としたようだ。前もって地図を見ておけばと思うと、誠に残念であった。初めてのところは案内人が
  必要だ。

                 
       登窯(陶栄窯)についての要約
    常滑の登釜は江戸時代天保5年(1834)効率よく生産する為に導入したのが始まりと言われている。主流であった鉄砲釜(大釜)では
    効率よい生産は難しくのぼり釜の導入は画期的な出来事だった。この陶栄釜は明治20年ごろ築かれ、当初は薪や松葉を焚いていたが
    明治30年代の後半になると第一室の焼成に石炭が使われるようになり、折衷式とよばれ常滑では一般的となった。陶栄釜も、その頃
    に折衷式になったと推定される。現在残っている登窯は約20度の傾斜地に八つ焼成室を連ね、全長22M,最大幅9.6M,最大天井高
    3.1Mと大型の登窯の部類に属し、明治末期60基ほどあったと記録されている。その後、常滑では石炭窯が一般的となり登釜の数は急
    速に減り、現在ではこの陶栄釜が残るだけとなった。昭和49年1月の窯出しを最後に創業を停止、昭和57年に重要有形民俗文化財に    
    指定され保存されることになった。   常滑市教育委員会


         
                          登り釜 左側に焼成室の入口が見える         登釜広場 右奥展示工房館

 ←土管坂
    やきもの散歩道・土管坂の案内看板 
   
  土管坂の説明文要約
   土神坂の路面には土菅を積み重ねて焼くときに下に置く「焼台」(ケサワともいう) 
   が敷かれており、坂の両側には明治時代の「土管」と昭和初期の焼酎瓶が埋め込まれ
   ている。  国土交通省の「ふるさと坂道三十道」に 選定されている。           
                                          

  散歩道には 土管・焼酎瓶等による塀・土留めがたくさんある。

      

      

*岡崎の八丁味噌
   八丁味噌の郷「カクキュー八丁味噌」を見学した。ここだけは案内人がついて説明してくれた。もっとも「名古屋城」や「やきものの常滑
 の街散策」と違い案内人がいなければ全く見学は不可能だ。八丁味噌の八丁は岡崎城より西へ八丁はなれた八丁村、ここで味噌の仕込を
 始めたのが始まりだそうだ。八丁味噌の製造行程で全くほかの味噌と違うところは、一般の味噌は茹でた大豆を米麹で発行させるが、八丁味 
 噌は大豆を蒸して直接麹菌で発酵させることだという。そして一般の味噌は半年で熟成できるが八丁味噌は熟成に2年かかるという。
 さらに発行熟成させる仕込み桶には2トンの重し(石の山積み)が乗せられている。重しは水分が流動し塩分が底に沈まないようにするため
 だという。八丁味噌と一般の味噌の違いがよく解った。

 ←明治四十年建築の味噌蔵で改築して資料館となっている。
 文化庁の登録文化財に登録されている。

     
     カクキュウ八丁味噌の正面建物


 
    
     仕込中の味噌桶                大正時代の仕込桶、現在も使用している

1泊2日の旅も終わり19時半無事帰宅した。

 

 

 

 

 


名古屋・南知多(山海温泉)・岡崎(八丁味噌)の旅ー其の1

2014年03月25日 | 旅行

 3月11~12日1泊2日で名古屋城・名古屋市徳川園・滑常焼き・8丁味噌の郷へ行ってきた。添乗員の話では名古屋は観光で来ることが少ないと言っていた。名古屋といえば思いつくのは名古屋城・金のシャチ・熱田神宮・ういろう・きしめんくらいだ。1月に熱田神宮に来たばかりだが、名古屋城も初めて、徳川園があることも知らなかった。山海温泉も焼き物の常滑も八丁味噌の岡崎も初めてで、すべてを回るツアーがあったので飛びついた。長野~名古屋間の高速道路沿線を外れたツアー参加者乗車ため、松本市郊外・諏訪を回るので早朝長野駅前5時半の早い出発だった。

* 徳川園
  11時頃徳川園に到着40分程園内を散策する。園のパンフレットによれば徳川御三家尾張藩二代藩主光友が隠居所として大曽根屋敷を
  造営したのが起源だそうだ。その後家老職に譲られたが明治22年からは尾張徳川家の邸宅となり昭和六年名古屋市に寄贈された。
  戦後都市公園として改修平成13年日本庭園として再整備を行い平成16年に開園した。
      徳川園の名所は「龍山湖」「観仙桜」「大曽根の滝」「虎の尾」「虎仙橋」「瑞龍亭」「四睡庵」だが、事前に下調べをしてないので
  見落としたところもあった。
         
                         龍   山   湖

         
          龍仙湖(左奥西湖堤)                  西 湖 堤     

          
         虎の尾にかかる虎仙橋                       大曾根の滝

* 名古屋城
  12時過ぎ名古屋城に着き、正門入口にある能楽堂の東山ガーデンで名古屋名産「ひまつぶし御膳」の昼食。パンフレットによれば
  名古屋城は慶長17年(1612)完成、尾張初代藩主家康九男の義直が入り、以降名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄え
  た。昭和5年国宝に指定された。昭和20年の空襲で本丸の殆んどが焼失、昭和34(1959)天守閣が再建された。
  名古屋城内にある重要文化財 「東南隅櫓・西北櫓・西南櫓・表二之門・旧二之丸 東二之門(昭和47年本丸東二之門の跡に復元)」

                                                        
    「本丸表一之門跡」の立札

  説明文
   古名は南一之門、本丸大手の主門で外門である表二之門とともに桝形を形成していた。
  入母屋造・本瓦葺の二階建てで、門扉の上には石落を設けていた。昭和20年空襲に
  より焼失した。 

  
  残念ながら復元された「旧二之門 東二之門」は見落とした。 
                                         

        
          清正の石曳像

         
         天  守  閣                    左;東南隅櫓  右;天守閣 

                         
         名勝二之丸庭園                  金のシャチ(天守閣1階に展示)
* 本丸御殿
   今回の名古屋城のメインは昨年公開された本丸御殿表書院の見学である。名古屋城は初めてなので時間も十分あったので、天守閣と
   二之丸庭園を回ってから本丸御殿を見学した。

   本丸御殿公開パンフレットによれば  
  「平成21年1月本丸御殿復元工事着手ー平成23年7月12日上棟記念式典開催ー平成25年5月29日玄関・表書院公開開始」
  となっている。復元された本丸御殿の用材は木曽檜だそうだ。貴重な木曽檜を使わせてい頂いたことへの感謝と地域との交流を深め
  るため、平成20年から毎年、名古屋市民による「市民の森づくり」事業を進めているという。

                   
                          復元された本丸御殿

                           
                      絢爛豪華な壁画の復元模写
   昭和20年の戦災で建物は焼失したが襖や杉戸など外せるものは全て外して疎開していたため、戦禍を免れ平成4年(1992)より、
   本格的な復元模写を実施しているという。 

名古屋城を後に宿泊地南知多・山海温泉「肅 海風」に向かい、16時前時に到着した。山海温泉は普通の温泉街とは違いむしろ海水浴場のリゾート地という感じの温泉地のようだった。