後期シルバーの戯言

一寸した日常生活・身辺雑記と旅日記

長野市保存樹木

2017年05月27日 | 名勝巡り

昨年稲葉日詰区の広報誌で区内住宅の庭園の案内があった。その中に保存樹木に指定されている松がある庭園があった。直ぐ近くだが通りに面していな住宅なので
今まで気が付かなかった。庭園・庭木・盆栽には疎いが見事な赤松であった。
以前、長野市公園緑地課主催の市内保存樹(古樹)巡りに参加した記憶がある。ブログを見たら2012年9月29日に、「若里の市村神社」「中条日下野字臥雲の三本杉」
「中条日下野字天神平の杉」の三ヶ所を古樹巡りしたものだった。

注;長野市指定保存樹木・樹林(長野市Hpにより)
   地域のシンボルとなる樹木は、都市の美観風致の維持を目的として、保存樹木および保存樹林として指定し、市民共通の財産として保全します。
        保存樹木、保存樹林を保護するため、病害虫の防除や枯損の防止などの維持管理経費の一部を補助します。
    保存樹木 104 ヶ所 保存樹林  58 ヶ所

日詰区内にあった保存樹
   *塚田邸庭園の赤松

         

         
               

*芹田下神社のケヤキ(芹田下神社は日詰区の鎮守社、芹田上神社は稲葉中千田にある)

                       
                      芹田下神社  鳥居左右に保存樹木がある

                      
                                   鳥 居 の 右 側 の 保 存 樹 木

                       
                鳥 居 左 側 の 保 存 樹 木

 


鬼石の冬桜と磯部温泉

2016年12月03日 | 名勝巡り

11月30日群馬県藤岡市鬼石の桜山公園にいってきた。
7時10分長野駅東口を出発10時頃桜山公園に到着、1時間強公園内を散策後、11時過ぎ磯部温泉に向かい12時半ごろホテル磯部ガーデンに到着、昼食・入浴後帰途に就き17時過ぎ長野駅に帰着する。

 *桜山公園
   桜山公園はツアーの案内に、次のように記載されていた。
    「桜山公園は群馬県南部の藤岡市鬼石(おにし)地区(旧 鬼石町)にある梁館の公園で。明治41年当時の三波川村長が、日露戦争の戦勝を記念して村民の協力で桜を
     1,000本植栽したのが始まり。桜はソメイヨシノだったが、たまたまこの中に冬桜が400本弱混ざっており、これが11月上旬から12月中旬までの紅葉の時期に、
     冬桜が咲き、春秋年間2度にわたって桜が咲花見の季節となった。当時は、冬桜が殆ど知られていなかったので、時ならぬ冬の季節に桜が咲いたと言われ大変評判に
     なり、冬桜が一ヵ所にまとまって咲く桜山は、昭和12年に国の名勝・天然記念物の指定をうけた。その後、山火事の大火で一部が焼けたが全村民が協力して復興に
     努力し、2代目の山桜を植え、今では冬桜が約7,000本も植樹されている。春にはソメイヨシノなども合わせて約3,000本植栽されているため、合計1万本の桜が咲き
     誇ります。秋には冬桜の咲き方の性質上、ある程度咲きそろった状態(11月中旬頃)になってから、約1ヵ月ほど見頃が続きます。春に桜のように1週間で散り
     終わらず、可憐な咲き具合を長期間楽しむことができます。」

    桜山公園は藤岡市の観光課の散策マップによると、群馬県立の森林公園15haと標高591mの桜山を中心とした藤岡市の公園32haの広大な公園である。
    1時間強「第1の広場(日本庭園)」と周辺を散策したが、時間がなく「桜山山頂・第2の広場(見本庭園)」などは見れなかった。



              
                            桜 山 公 園   日 本 庭 園

 

                 
                               桜 山 公 園    冬  桜

 *磯部温泉 
 温泉記号発祥の地として、また、おとぎ話の舌切り雀の伝説からスズメのお宿として知られているが、磯部温泉についWikipedia百科事典には次のように記述されている。
  1661、土地の境界をめぐる訴訟があり、このときに江戸幕府から出た判決文の地図に温泉記号が存在した。2008年現在、これよりも古い使用例が見つかっていない 
   ことから、温泉記号発祥の地とされる。
   明治の児童文学者巌谷小波舌切り雀の伝説が伝わるという磯部を訪れ、舌切り雀の昔話(日本昔噺)を書き上げた。おとぎ話自体は各地に昔からあるものの、
   巌谷小波が児童文学として現代に残したことにより、磯部温泉は舌切雀伝説発祥の地とされている。
   
また、1783年天明3年)の浅間山の大噴火で湯量が増したといわれる。源泉温度は時代を経るにしたがって低くなっていき(旧源泉:24℃)、旧来、沸かして
   使われていた。ただし、のちに掘られた新源泉はこれよりも温度が高い(52℃)。」


 風呂の入口に掲げてあった磯部温泉の由来
  当地は磯部の名のとおり塩分の多い水が太古より湧き、天明の浅間山の噴火で吹き上げたといわれてます。銀杏の名湯と
  しておやきや磯部せんべいにも利用されておりました。今度の掘削により52度の熱い湯が湧出、これを新しい野天風呂に
  引湯いたしました。重炭酸塩泉、鉄分ミネラルも多く透明で無臭、すべすべとした肌ざわりにて心身よりあたたまるり、
  効能も多く美肌の湯として人気を集めております。 
   どうぞ御ゆるりと御逗留くださいませ。  
                                              主 人 敬 白

 

 

          
                   ホ テ ル 磯 部 ガ ー デ ン  中 庭 の 庭 園

 

 


長野市南高田に伝わる「にとはちさま」

2016年11月24日 | 名勝巡り

今春居住地長野市日詰の広報に、日詰が小学校区である長野私立緑が丘小学校の児童による、民話劇「にとはにちさま」という演劇が報じられた。江戸時代の身を賭して農民の
苦しみを救った18歳の青年の話であるという。現在の市内南高田で日詰の隣接する地域の出来事だが、恥ずかしいことに今まで全く知らなかった。
民話劇「にとはちさま」の解説によるとあらすじは次のようだ。(原文のまま)

「江戸時代のことです。松代藩は赤字財政を立て直す為に、藩主真田幸道が籾一俵(五斗三升)は定米(玄米)三斗であると年貢を決めます。隣の上田藩では二斗五升でしたの
 で、かなり重い年貢です。善光寺平の農民は、松代藩に幾度となく減免を訴えるが許されません。そこで江戸幕府に直接訴え出る以外にないと決心しますが、直訴した人の
 家族は全員処刑されるという厳罰を恐れ、先立ちになる者がありません。この時、下高田村(現南高田)に住む助弥という十八才の青年が、農民らの苦しみを救うために立ち
 上がり年貢米二斗八升を実現します。罪を許されて生き残った名主たちは、処刑された助弥や他の名主たちの冥福を祈って善光寺の境内に石塔(千人塚)を建てました。
 また村人は天神社(菅原道真を祭る)と偽って小さな社を建て、弥助の偉業を忘れないように、「にとはちさま」と親しく呼んでいました。これは今も伊勢社の境内に祭られて
 います。また原久司様宅や南高田公会堂にも祭られています。」

 

  ←善光寺東側庭園にある千人塚

      
  説明立札より      
     千人塚(二斗八塚)
  江戸時代初期の慶長年間に起こった百姓一揆の犠牲者の冥福を祈って建てられた塔と言われています。
  また、延宝年間に起こった百姓一揆、二斗八騒動で処刑された人々の供養塔ともいわれています。
   
   

 

 
 

 ←二斗八升神社 

     緑が丘小学校西側にある伊勢社。左方に小さく見えるのが二斗八升神社
    神社右下に添付されている説明文
     二 斗 八 升 神 社
  江戸時代、思い年貢にあえぐ農民を救うため、下高田村(現南高田)に住む助弥という青年が直訴に
  立上がりました。その後、処刑された助弥の偉業を忘れないようにするため、村人は、
  天神社(菅原道真を祭る)と偽って小さな社を建てました。
                                南 高 田 区
 

                               
   南高田公会堂に設置されている助弥の祠     南高田 原 久司様宅に設置されている助弥の生誕地記念碑

 


京都 東寺特別拝観 他ねねの道散策等(その2)

2016年10月24日 | 名勝巡り

2日目は妙心寺・竜安寺・嵐山・平安神宮を回る。8時30分お宿いしちょうを出発、妙心寺に向かう。

以下の説明文はWikipedia百科事典と寺院等のパンフレットから引用した。

◎妙心寺
        山号;正法山 宗派;臨済宗 寺格;大本山 本尊;釈迦如来 開祖;花園法皇、関山慧玄(開山) 文化財;梵鐘、大燈国師墨蹟(国宝)
   仏殿、法堂、三門他(重要文化財)、方丈庭園(国の史跡・名勝)
 
 日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭建ち
 並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。
  本山諸堂伽藍の完備は、禅宗としては全国一といわれ、史跡名勝に指定された庭園、国宝、重用文化財の建物,歴朝宸翰(天皇直筆)文書、絵画が多く文化財の殿堂でもある。


               
                       南 総 門                                       参   道 

            
                三   門                                     仏   殿
 
            
                                                                          大     方     丈
           入母屋造単層檜皮葺、承応3年(1654)の建造、方丈はもと住持の居所を意味したが、今は檀信徒の祖先を祀って、その供養を行なう所、また説教、
        講演その他の会合の場所ともなり、多数賓客を応対するところともなる。
 
                
                               
                                法    堂                                          天井絵(パンフレットより) 

   入母屋造重層本瓦葺、住持の演法や儀式の行われるところ。 天井には狩野探幽法眼守信の雲龍の絵がある。眺めながら一周すると雲龍の睨む方向が下から順次空へ
   変わって見える。法堂の一角には国宝の妙心寺鐘が安置されていた。

 *妙心寺鐘(国宝)
   
 ←法堂に安置されている鐘 写真パンフレットより
  黄鐘調鐘といい徒然草に「およそ鐘の声は黄鐘調なるべし-----浄金剛院の鐘の声また黄鐘調なり」とあるその鐘で、
  もと浄金剛院(廃寺)にあったもの、記念銘のあるものとしては日本最古で文武天皇2年(698)の作である。
  
  ←この鐘のあった鐘楼で代替の鐘が吊ってある。  
 
 

 
 
 
 
 


*浴室(重要文化財)
 
 
  天生15年(1587)塔頭太嶺院(廃寺)の密宗和尚が、明智光秀の菩提を弔うために創建したものである。そののち
  明暦2年(1656)に改築された。一重切妻造本瓦葺、浴室中央に浴槽と洗場があり、その南側に休憩室が設けられてある。
  東背面には竈室がある。浴室は蒸気風呂形式で簾子板敷の隙間から蒸気をだし四壁は正面に出入口と調節窓をもち、
  他の三方は板壁で閉ざされている。入口正面には位牌棚があり、その中央にば跋陀婆羅尊者画像(狩野宗信筆)が
  掲げられている。
 
 
 
 
 
 
 
◎龍案寺   
      山号;大雲山 宗派;臨済宗妙心寺派 本尊;釈迦如来 開基;細川勝元、義天玄承(開山) 文化財;方丈・太平記12冊(重要文化財) 方丈庭園(史跡名勝)
    庭園(名勝)
  
  徳大寺家の別荘だったものを、宝徳2年(1450)官領細川勝元が譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものである。応仁の乱で焼失して、明応
  8年(1499)、勝元の子、政元が再興したが、寛政9年(1797)火災で方丈・仏殿・開山堂などを失った。現在の方丈は、その時西源院の方丈を移築したものである。
  方丈の前庭は枯山水の石庭として著名で、大雲山と号し禅苑の名刹である。
            
                                                          参    道 奥突き当りが庫裡でここから入り左へ方丈と続く。
 
             
     方丈の北側のて庭園で東西25m 南北10のmの空間に白砂を敷き詰め、15個の石を配したもので、室町末期(155年頃)、特芳禅傑などの優れた
     禅僧によって作庭されたという。
 
        
                       方丈の北東にある庭園と「つくばい」                                       パンフレットよりの「つくばい」
     「つくばい」のまんなかのロを共用すれば「吾唯足知」となり、禅の格言を図案化されたものという。水戸光圀の寄進といわれている。
           

  *竜 安 寺  庭 園
        
      庭園の一角で杉の剪定が面白い。          鏡容池 徳大寺家によって築かれたもので、かって「オシドリ」が群れを遊んだことから「オシドリ池」と
                                     呼ばれた。
◎嵐山
  昼食後90分程嵐山界隈を程自由散策することになり、メイン道路から大河内山荘庭園方面に行く竹林の道を散策することにした。連れ合いが多少足が悪いので丁度通り
  かかったタクシーで大河内山荘庭園まで行く。竹林の道は1車線程の道で観光客が多くタクシーもノロノロ運転、運転手さんの話ではこの程度の混雑は普通、休日は車両
  通行止だそうだ。 
  大河内山荘庭園の散策は時間の関係で取り止め、竹林の道を散策する。 途中天龍寺の北門から境内庭園(百花苑)内に入り散策する。
      注;大河内山荘庭園は俳優大河内傳次郎が別荘として造営した回遊式庭園で、映画出演料の大半を注ぎ込み64歳で亡くなるまで30年の歳月をかけてこつこつと 
     作り上げたものだという。

 *
竹林
                  
                     大河内山荘庭園入口                                              竹     林
 
 *天龍寺百花苑・曹源池 
   百花苑は北門開設と同時に昭和58年整備された庭園で各種多くの花があるが、今の時期は芙蓉の花が咲いていた程度だった。
   曹源池は夢窓国師による庭園で国の史跡・国の史跡特別名勝第1号に指定されている。
                                         
            
        百花苑(立札には八角蓮・黄蓮華升麻とあるが時期的に今は無い)          黒 船 躑 躅 
                    

               
                 酔   芙   蓉                                    紅     芙     蓉

                 
                           
                                                             曹   源   池
     天龍寺は時間も無く今まで参詣しているので、今回は庭園の散策だけにした。
                                                        
◎平安神宮
 主祭神;桓武天皇孝明天皇、社格;官幣大社勅祭社別表神社である。  
 時間の関係で30分の参詣だが、庭園が有名なので駆け足で庭園を回った。1時間は必要で桜の時期が最も景観が良いようだ。
 
           
         平安神宮外拝殿(大極殿)                           応 天 門 
     
      *神苑(神社だから庭園ではなく神苑か)
      
 ← 平安神宮神苑 
   ←平安新宮神苑の碑 左案内図赤印にところにあり、神苑の入口である。
   
   案内図の 左下;南神、 左;西神苑、 上;中神苑、 右;東神苑 である。        
 
 
 
 
 
 
           
             南 神 苑                                   西 神 苑

          
              中 神 苑                                  東 神 苑
          
            泰  平  閣                                  東 神 苑 

  平安神宮を参詣後午後3時帰途についた。 
 

京都 東寺特別拝観 他ねねの道散策等(その1)

2016年10月24日 | 名勝巡り

10月10日~11日1泊2日アルピコの「京都 東寺特別拝観と舞妓さんとの夕べ」のオークツアーに行って来た。
参加者は、夫婦2人連2組(1組は私共)・女性4人連れ3組・男性8人連1組 計24人だった。
    
  日程
   初日  長野駅東口6時35分ーーーー途中大津SAで昼食ーーーー東寺ーーーー高台寺ーーーー17時お宿いしちょう宿泊

   2日  いしちょう8時30分ーーーー妙心寺ーーーー龍安寺―――――嵐山;昼食後散策――――平安神宮―――-21時長野駅東口

   車中添乗員が京都の町名地名など、京言葉の読みの話で退屈なバスの旅を和まさせてくれた。「太秦(うずまさ)」は東映撮影村で周知の地名だが,知らない言葉が多かった。
 
    ・ 烏丸通; からすまどおり     ・糺の森; ただすのもり    ・穴太; あなお   ・直違橋; すじかいばし    ・罧原; ふしはら    ・間人; たいざ 
        ・御幸町通; ここまちどおり    ・不明門通; あけずどおり     ・千斗町; ぽんとちょう

 大津SAで昼食予定通り13時半頃東寺に到着する。

以下の説明文は、Wikipedia百科事典と各寺院等のパンフレットから引用した。                                                                                             

◎ 東寺 
         山号;八幡山 宗旨;東寺真言宗 寺格;総本山 本尊;薬師如来(重文) 別称;左大寺 文化財;金堂、五重塔、御影堂、蓮花門、絹本著色真言七祖像、
   
    この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがある。
    さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」である。
    

   寺院案内人の案内で 五重塔・金堂・講堂徒と回った。

  *五重塔
        

 ←国宝 五重塔
   東寺の象徴としてしたしまれている五重塔は、天長三年(826 )弘法大師の創健着手にはじまり、雷火などにより焼失すること4日に
   及び、現在の塔は正保元年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの現存する日本の古塔中最高の塔だという。
   初層の内部は心柱を大日如来に見立て、その周囲の須弥壇上に阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の金剛界四仏と八大菩薩を
   安置している。四天柱には現在は剥落しているが、金剛界曼荼羅諸尊が描かれている。その他外周りは四方の扉の内面・扉の左右の柱・
   周囲の壁の上段下段にそれぞれ仏画と蓮池が描かれている。天井は折上げ小組格天井で長押等にも全面にわたって極色彩の文様が装飾され
   てぇいる。塔は四度の焼失を経ているが地震で倒壊したという記録はない。塔身が各総ごとに、軸部・組み物・軒ををくみ上げ、最上層
   まで繰り返す積み上げ構造になっていて、木材同士も切り組や単純な釘内程度で、緊結されていない柔構造だからである。したがって
   地震のエネルギーは接合部で吸収され、上層へ伝わるにつれて弱くなるとともに、下と上の層が互い違いに振動することになる。
   柱も各層では短いため倒れようとするよりは元に戻ろうとする復元力の方が大きいので、地震に強いと考えられる。
   多くの部材で積み上げられた塔身は乾燥で収縮するが、独立した心柱はあまり収縮しない。そのためズレが生じ、そのズレを直す為に、
   元禄5年(1692)50cmほど心柱を切り下げたため、須弥壇下の心柱の彩色が少しズレている。
        このズレは初層内にあった窓(地下への出入口と思われる)から確認できた。

 

                                               
           国宝 金 堂「東寺一山の本堂」                                重文  講     堂

      

 ←金堂・薬師三尊(上)・十二神将(左下)(堂内撮影禁止の為パンフレットよりコッピイ)
  文明十八年(1486)に焼失し、今の金堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興させたもので、慶長八年(1603)に
  竣工した。

  本尊は薬師如来坐像と日光、月光の両脇侍菩薩像。光背上には七軀の化仏を配して七仏薬師をあらわし、台座の周囲には
  十二神将像を配している。これら三尊像は桃山時代の大仏師康正の作で薬師信仰の形をとどめている。 
   

    

  

 



  ←講堂・立体曼荼羅(堂内撮影禁止の為パンフレットよりコッピイ)
  講堂は天長二年(825)工房大師によって着工され、承和二年(835)頃に完成した。その後戦火で焼失、
  現在の講堂は延徳三年(1491)再建された建物である。

  堂内の白亜の壇上には大日如来を中心とした五智如来を始め、五菩薩・五大明王・四天王・梵天・帝釈天の二十一軀の
  仏像が安置されている。これは弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅(蜜厳浄土の世界)である。
  安置されている仏像には国宝16軀・重文5軀がある。
  
   

        

 
 五重塔の初層内部の装飾、巨大な四天柱や心柱、そして耐震構造には驚嘆し、金堂・講堂に安置されている数多くの国宝・重文の仏像には目を見張るばかりだった。
 又、講堂の21軀が整然と配置された彫像が羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成しているのには驚いた。

                                 
              
             拝観受付入口からの五重塔                    瓢 箪 池 (入口から五重塔に向かう左の庭園)

  不二桜「八重紅枝垂桜」 樹齢120年 目通り1.5m 樹令120年 目通り1.5m 樹高13m 枝張り7m
この桜は「八重紅枝垂れ桜」と呼ばれ、エドヒガンケイの園芸品種で色の濃い八重咲きの華麗な花を咲かせます。移植できるサクラでは国内最大級の大きさで、開花は4月中旬です。岩手県盛岡市の旧家で育てられたのですが、平成6年秋田県を経て、三重県鈴鹿市の農園が譲り受けて大切に育てていました。平成18年が弘法大師入唐求法の旅より帰朝せられて、1200年の記念の年であることから,東寺信徒総代で森紙業株式会社最高顧問の藤定輝好氏より寄贈され、この直径15mの円形花壇に移植されたものです。名前は弘法大師の「不二のおしえ」から「不二桜」と命名されました。日本一高い五重塔を背景に、百年二百年後も美しい花を咲かせ続けることを祈っています。                           
                                          真言宗総本山 東寺
   


◎高台寺
  山号;鵞峰山 宗派;臨済宗健仁派 本尊;釈迦如来 別称;蒔絵の寺

  高台寺(こうだいじ)は寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾
 (仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。
  霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼ぶ。他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の
  通称がある。                                                

  東山の山麓にあって正しくは高台寿聖神寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北の政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年    
  (1606)開創した寺である。寛永元年七月(1624)建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。寛永元年(1789)以降度々の火災にあって多くの堂宇を
  失い、現在残っているのは旧持仏堂の開山堂と、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等で
現在くにの重要文化財に指定されている。

                 
              高台寺入口                           霊屋;秀吉と北政所をお祀りしている

         
                                      開   山   堂

               
            茶席  傘     邸 (奥が時雨亭)                傘邸の内部(パンフレットより)正式には安閑亭と呼ばれる。 
                                                
竹が放射線状に組まれカラカサを開けたように見えることから傘亭。

           
                茶室;時雨亭(重文)                             時雨亭内部 (パンフレットより)  

           
      高台寺を代表する茶席 遺 芳 庵            ねねの道(高台寺の西側の道路);高台寺道として知られていたが、電線地中化工事を終え広い道幅
                                      いっぱいに御影石を敷き詰めた石畳の道に整備したことで、京都らしい風情の景色と名が生まれた。
 

  ◎宿 いしちょう 
   「いしちょう」という宿に宿泊したが庶民の宿で気が楽だ。夕食に舞妓さんが見えて踊の披露と舞妓さんの身なりについて照会があった。
   地方の芸妓
さんは知らないわけでもないが、京都の舞妓さんとなると到底機会はないので。今回の目玉でもあった。


                         
                    「  いしちょう」玄関                     「いしちょう」の直ぐ近くあった木戸孝允旧宅;明治天皇行幸木戸邸の碑がある

      
                                         舞  妓  さ  ん  の  踊

          
            簪の説明                             振袖の説明                             帯の説明
     
    
感心して聞いていただけで内容はすべて忘れた。
    舞妓さんの踊り披露の後、各席を回って懇談させて頂いた。京都の花街について、舞妓さんにお聞きした事や、ネットで調べた結果は次のようだ。
    
京都には祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒と祇園東の五つの花街があって五花街と呼ばれている6月に開催される「おおきに財団」主催の五花街合同
    公演「都の賑い」をはじめ、 各花街で催される年に一度の舞の公演がある。毎年春には、4月に祇園甲部の「都をどり」、宮川町の「京をどり」と上七軒の
    「北野をどり」、 5月に先斗町の「鴨川をどり」があって、秋は祇園東が11月に「祇園をどり」が催される。

    京都の舞妓さんの踊を見たり、懇談することなど思いもよらず、長野の庶民の私にとっては又とない機会で楽しい夕食であった。

      
 
 

 
 
  

 


    
    

 

 

 

 
 



 

 

 

 

 


善光寺経蔵と濡れ仏&6地蔵

2016年09月20日 | 名勝巡り

大分前のことだが東京にいる次女が休暇で盆前1週間ほど帰郷した。盆も近いので善光寺を参詣した。参拝後今まであまり参拝しなかった濡れ仏・六地蔵を参拝し、両座像についての立札の解説を読み、来歴を初めて知った。又、本堂前の香炉西側(本堂に向かって左)に修復中の経蔵の屋根の上にある「火焔宝珠」が展示されていた。

*経蔵の「宝珠」
  経蔵は修復前何度も訪れているが、屋根に「火炎宝珠」があることは全く気が付かなかった。

           ← 右奥に修復で覆われた経蔵が写っている。                 
          経 蔵 の 写 真                                     修復で外された「火焔宝珠」

       ↼要約;「宝珠」はあらゆる願いをかなえてくれる宝の珠のこと。その宝珠の周り
  が火焔によって装飾されているため「火焔宝珠」と呼ばれている。「宝珠」は建築学的には
  屋根面の両仕舞いと装飾のため。塔上の建物の頂部には、「相輪」と呼ばれるリング状の金物
  を重ね合わせ装飾が設けられることが多いが、高さの低い方形の屋根の建物には「宝珠」が
  比較的多い。経蔵の「火炎宝珠」が用いられているのは、建物を火災や水難から護るとも、
  瑞気が盛んに立ち上がる姿を現しているとも言われている。また「宝珠」の基底の部分には
  仏の教えを象徴する「」と「転法輪」が刻されている。
       
*濡れ仏座像
 山門前の参道東側(山門に向かって右)にある座像。
  

     ←要約;濡れ仏 重要美術品 
  享保七年(1722年)に完成。高さ約2.7メートルの延命地蔵菩薩座像。六十六部(日本全国を行脚する巡礼者)の
  供養のため、法誉円信が広く施主を募って建立したもの。江戸の大火の火元として処刑され、のちに歌舞伎や浄瑠璃
  の題材となった「八百屋お七」の冥福を祈り、恋人の吉三郎が造立したという伝説もある。

 

          
*六地蔵
 濡れ仏の南(右)に並んで設置されている。

      ←要約;六地蔵
  六地蔵は、われわれ衆生が輪廻を繰り返す六つの世界(六道)に現れ、迷いや苦しみを救ってくださる菩薩。
  向かって右から、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・の地蔵菩薩。地獄界の地蔵菩薩が蓮台から片足
  踏み出しているのは、一刻も早く衆生を救いに行こうというお気持ちの顕れだと言われている。

  注;左の写真一番右の菩薩座像の左足が立膝である。 

         

 


古代蓮の里とアナベルの雪山

2016年07月04日 | 名勝巡り

30日「ちょこっTrip」の日帰りバスツアーで埼玉県行田市の「古代蓮の里」と東京都あきる野市の「アナベルの雪山」に行って来た。

 行田蓮(古代蓮);天然記念物の行田蓮は、公共施設建設工事の際に種子が掘削地ので2年後に自然発芽し開花したものである。
    出土した遺物や木片の放射性炭素年代測定から約1400年から3000年前のものと推定れたため、古代蓮と呼ばれるようになった(ただ
    し、種子を直接測定したものではなく、ずっと新しい時代の種子が発芽した可能性も否定できない。)。
    古代蓮の里は、その古代蓮の自生する付近(旧小針沼)に「古代蓮の里」として1992年平成4年)から2000年(平成12年)にかけて
    整備された。2001年(平成13年)4月22日には、園内に「古
代蓮会館」が開館した。(wikpediaから)

    行田ハスは濃いピンク色の一重咲きの花を咲かせる。花径は25~28cmの大型種、花弁数は13~18枚と少なめ、横から見たつぼみは
    楕円形で、葉心角は120度~130度と小さいのが特徴で、植物学的に極めて貴重なものです。(wikipedia&行田市HPから)

  アナベルの雪山; 東京都あきる野市のさまざまな施設を備えたレジャーランドの「東京サマーランド」、その敷地内、西側に位置する
    「ファミリーパーク」
と呼ばれるエリアの一角に、山の斜面を利用して紫陽花を植栽した「あじさい園」が設けられている。
              
その「あじさい園」の山手に北アメリカ原産の純白の「アナベル」約3,000株が山の斜面を埋め尽くしている。まるで初夏に真っ白な
               雪山を思わせる
ことから「アナベルの雪山」と名付けられた。(東京サマーランドHPより)
 
6時40分長野駅東口ユメリアバスパークから乗車、参加者39名(夫婦は9組他11名は女性)で出発11時前「古代蓮の里」に到着1時間
 程園内を
散策する。その後園内の古代蓮会館内を見学、館内の地上50mの展望台にも登ったが曇り空で展望は期待外れ。

       
  案内版下半分が行田蓮園 上半分水生植物園      展望台からの全景 左下部分が案内版の行田蓮園、右上部分が水生植物園 

        
             全 景(上の写真の左側)                  蕾から開花の古代蓮

        
              蕾                             開花1日か?

        
            開花2日か?                         開花3日か?

                                                                          

← 開花4日目か夕方には散るのだろう。
 
  *蓮の開花(高田城址公園の蓮の開花説明より)
    1日目  午前5~6時頃から、1分間で2ミリ位の
速さで開き始め、
         
3センチ位まで開いてから、午前8時頃に閉じる。

     2日目  午前1~2時頃から開き始めて、午前7~9時頃までにお椀状に開き、
          昼頃までに閉じる。

   3日目  午前1~2時頃から開き始めて、午前9~10時頃までに完全に開く。午後は半開きとなり、そのまま、その日は終わる。
           
           4日目
  夜中から開き始めて、午前6時頃には完全に開く。その後花びらが落ち始めて、午後には花がなくなるといわれている。

                 午後も開いている花は、その日が最後の日ということになる。

 園内散策後「古代蓮会館」を見学、50mの展望台からの展望も生憎の曇りもようで見晴らしも期待外れだ。「田んぼアート」がすぐ下に
   綺麗に
出来上がっており、「古代蓮の里」の遠景も見事だった。残念ながら展望台内は明るく、外は曇り空でうす暗く、窓ガラスに回廊の
 中が
鏡のように映り、「田んぼアート」は撮影出来なかった。

 12時「古代蓮の里」を出発、行田市内の日本料理店「彩々亭」に行き昼食を摂る。、料理は和牛を使った日本料理がメインのようで、
 美味しい昼食だった。

 国登録有形文化財指定で「旅御殿」と呼ばれた由緒のある昔からの料亭のようで、日本庭園画も素晴らしかった。
 入口に「彩々亭」の女将が書いたのか、格言のしおりが来客用に置いてあった。ユニュークだったので紹介する。

  長 寿 の 心 得
   
1. 人生は60歳から  
   2
. 70歳にしてお迎えがきたら、いま留守だといえ  
   3
. 80歳にしてお迎えがきたら、まだ早いといえ
   4. 90歳にしてお迎えがきたら、そうせかずとも、良いといえ
   
5. 100歳にしてお迎えがきたら、よい時期をみてこちらからぼつぼつと行くといえ
 
 
 ボケけないための格言
    1.に健康、2にお金、34がなくて5に子供
   2.1年の計は元旦にあり、老後の計は「定年」にあり
   3.ウソつきは泥棒のはじまり、見当違いはボケのはじまり
   4.老いては子に従え従いすぎる、とボケのはじまり
   5.桂馬の高飛び歩の餌食、年寄りの長わずらいボケの餌食
   6.釈迦に説法、ボケの説教
   7.立てば散歩座ればおしゃべり、歩く姿は理想の老後
   8.亭主丈夫で留守がいい、年寄り丈夫で留守番がいい
   9.「定年」は、ボケ老人への一里塚
  10.遠い親戚より、近くの医者
  11.早起きは三文の得、早歩きは三年の得
  12.豚もおだてりゃ木に登る、嫁もおだてりゃおせわする
  13.嫁とお金は、生きているうち使う
  14.まかぬ種ははえぬ、せぬ介護に遺産なし
               
 日本料理・懐石
                    彩 々 亭
                   埼玉県行田市佐間1丁目11-22
                       Tel  048-0553-4311

昼食後、あきる野市の「サマーランド」にむかう。その敷地内、西側に位置する「ファミリーパーク」と呼ばれるエリアの一角に、山の斜面を利用して紫陽花を植栽した「あじさい園」がある。「あじさい園」は6月上旬から7月中旬まで(今年は6月11日から7月8日まで)紫陽花の花期のみの期間限定の開園だそうだ。
「あじさい園」には約60種、15000株の紫陽花が植栽されているという。15000株という数字ではなかなか実感できないが、一般の紫陽花の名所として知られる公園などは、殆どが数千株の規模のようだから、ここの「あじさい園」は規模の大きな格段の「あじさい園」だ。

          
       案内図1 あじさい園 麓版               案内図2 山中判
 遊歩道沿いは紫陽花が咲乱れている            

 ←アジサイ園に入って最初に目ついた 紫陽花。案内図1の真ん中より上の部分。
   右がアナベル、左がピンクアナベル。

  紫陽花は種類が多く、素人の私は名前も解らず、散策中もいろいろな 紫陽花 が
  咲いていたが
全く名前は解らない。
  
  

 

 


紫陽花 の咲く急な坂道の遊歩道を登ると「アナベルの雪山」に着く。

        
                   ア ナ ベ ル の 雪 山 (案内図2の1番上)

        
          アナベルの雪山                       上から見たアナベルの雪山

        
               アナベル                        ガクアジサイ(額紫陽花) 

        
                        ガ ク ア ジ サ イ(額紫陽花)

        
                            ピ ン ク ア ナ ベ ル

         
                            ヘ イ ズ ス タ ー バ ー ス ト
     
1時間半ほど散策帰途に着き19時半長野に着いた。

 

 

 

 

 

  

   

 

 

 



 


広重美術館・久能山東照宮の旅

2015年03月07日 | 名勝巡り

 2月24日~25日東海道由比宿場と広重美術館&日本平久能山東照宮と三保の松原へ1泊2日の旅を満喫した。
時々利用している長野トラベルの企画で、長野駅のから中央東線大月駅までJRの「いろどり号」というグリーン車と、小グループ用のコンパーメントな車両・カラオケなどの多目的室のある車両などで6両編成の電車である。
大月駅からは地元の富士急行のバスで回った。 

  24日 長野8:01いろどり号」―――11:49大月―――中央ハイウェー・富士五湖道路―――御殿場 昼食)――― 東名ハイウェ―――

     
由比(広重美術館・宿場街)―――東名イウエー―――17:00焼津黒潮温泉(サンピア松風閣)

25日 ホテル8:30―――日本平久能山東照宮参拝・昼食12:10―――三保の松原―――東名ハイウェ―――御殿場―富士五湖道路・中央ハイウェ

     ―――
大月16:03いろどり号」―――21:01長野

                                           
        いろどり号          いろどり号車内        富士急行バス

 *由比宿・広重美術館
   由比宿  (ゆいしゅく、ゆいじゅく)は、東海道五十三次の16番目の宿場で、現在の静岡県静岡市清水区にある。
       本陣跡が整備され、由比本陣公園となっている。広重美術館は由比宿本陣公園内に建っており、歌川広重の名のついた
   日本で最初の美術館だという。

   
   美術館パンフレットによると歌川広重(1796~1858)は15歳で歌川豊広に入門37歳の頃「東海道5拾三次之内」を発刊、
   その後も東海道や江戸の風景の浮世絵版画制作。晩年「名所江戸百景」を製作中、病に倒れ62歳の生涯を閉じたとある。
   東海道53次の風景など多彩な版画などが展示されている。版画の製作過程も実物が展示されているほか版画刷りの
   体験出来る設備もあった。
  
  館内展示品
   ☺「東海道」(隸書東海道)55点
     表題の字体が装飾的な隸書体で書かれているので通称「隸書東海道」と呼ばれている。
   ☺「東海道五十三次之内」(行書東海道)56点
     表題の字体が行書体で書かれているため、通称「行書東海道」と呼ばれている。   
   ☺ 徳川家および東海道に関する品々
     家康つながりの史跡から徳川家ゆかりの貴重な品々と、かっての東海道の様子を伝える文化財。

        
                 
          広重美術館入口 奥が美術館                                       美術館内庭園

                    
                         由比本陣公園・広重美術館入口                         油井本陣公園広場

    

 ← 正雪紺屋 
    要旨;表に蔀戸を残すこの紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より四百年
 近く続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事
 等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。慶安事件で有名な由比正
 雪は、この紺屋の生まれといわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。
           平成六年三月              由比町教育委員会

    

 ←脇本陣温飩屋     
   
 要旨;脇本陣とは、副本陣と言う意味です。由比宿には脇本陣交代
  でつとめた家が三間ありました。その内江戸時代後期から幕末に至るまでつ、このとめた
  のが温飩屋です。東海道宿村大概帳(天保十二年、1481、幕府編集)に、脇本陣壱軒、
  凡そ建坪九十坪、門構え、玄関付とあるのがここだと思われます。
       平成八年三月              由比町教育委員会

                               

      ←由比宿場の町並

 *日本平・久能山東照宮
  日本平は、静岡市の駿河湾沿いにある有度山標高307m山頂の平坦地が日本平(国指定名勝)である。急崖を隔てた南の部分は久能山(国
  指定史跡)と呼ばれここに東照宮がある。日本平の名称は、日本武尊(やまとたけるのみこと)伝説に由来するという。日本平からは、
  富士山伊豆半島が駿河湾越しに見える絶景の筈だが、生憎の曇り空で展望がかなわなかった。
  久能山東照宮は武田信玄が山上に建造した久能城の後に建立したものだそうだ。東照宮は徳川家康を祀る神社だが、ここには家康を葬った
  墓もあった。ちなみに日光東照宮はここから魂を移し作られたという。

        
             
桜  門                                    唐   門

        
      
  拝 殿 奥に本殿がある                   家康公の手形;案内にによると本物だそうで、私と同じ大きさだった。

 

   
               
      
 家康公の墓                             日本平のテレビ塔

*三保の松原
  三保の松原(みほのまつばら)は静岡県静岡市清水区の三保半島にある。日本新三景、日本三大松原のひとつとされ、国の名勝に指定さ
  れている。また、ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産に登録されている。日本三景「松島・天の橋立・
  安芸の宮島」昔から有名だったが、日本新三景は日本三景に倣って1915年(大正4年)全国投票で選定されたという。

   
日本新三景
    ☹大沼(ポロトー) ;北海道亀田郡七飯町にある堰止湖北海道駒ヶ岳借景
    
三保の松原;静岡県静岡市清水区にある砂嘴・富士山および伊豆半島が借景
    
耶馬渓 -大分県中津市にある渓谷

   
二本三大松原
    ☹静岡県静岡市清水区の三保の松原

    ☹福井県敦賀市の気比の松原
    ☹佐賀県唐津市の虹の松原

         
         海岸への松並木                                   海岸の松原

                  
      国指定名勝 三保の松原                        新三景の碑

  

      

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                          


高野山・熊野古道と瀞峡・白浜

2013年11月14日 | 名勝巡り

10月27~29日オークツアーで2泊3日の旅行に出掛けた。
   
  1日  長野東口6時55分──熊野本宮大社──湯川温泉泊まり
  2日  瀞峡遊覧船めぐり──熊野古道──白浜3段壁・千畳敷──白浜温泉泊まり
  3日  高野山「弘法大使御廟奥の院・金剛峯寺・根本大塔」──長野駅東口

東名阪自動車道四日市付近で交通事故による渋滞に遭遇、のろのろ運転で渋滞解消に一時間かかった。
でも初日は熊野神社一個所だけの日程なので、予定より若干遅れただけで宿に到着した。

*熊野本宮大社
  生憎、大社の本宮・若宮・結宮は屋根の葺き替えで神社全体ガ工事天幕で覆われており、全貌は見れな
  かった。参拝のための賽銭箱だけがあった。
  正遷座百二十年祭だというが如何なる祭事かは良く解らない。
  
  元々熊野本宮大社は 熊野川の中州に上四社・中四社・下四社 の三社あったが、明治22年の熊野川の
  大洪水で流出し、上四社が現在地に造営されたのだそうだ。旧社地のある熊野川の中州は「大賽原」と
  呼ばれ日本一の大鳥居が立っているそうだ。残念ながらツアーコースに入っておらず見ることが出来なか
  った。多分選座祭は流出してから百二十年目当たる選座の祭事なのだろう。

     
 本宮大鳥居・日本1の大鳥居は旧社地「大賽原」にある          境内にあった本宮の写真


    
             
   テントに覆われた社殿       神 門

 


 
          拝      殿 

*川湯温泉
  本宮付近には沢山の温泉があるその1つ。本宮大社の南で、熊野川支流大塔川の沿岸にある温泉だ。
  宿泊した旅館は河原に野天風呂があり12月から翌年2月までは川を堰き止め、湧きでる温泉で千人風呂が
  出来るそうだ。3月~11月はアユ漁の季節で出来ないそうだ。夏は川あそびで河原を堀り、湧きでる温泉で
  楽しめるそうだ。

  

  川湯温泉で宿泊した旅館の野天風呂

 

 

 

 

 

*瀞峡
  熊野川支流の北山川の峡谷の事で両岸の絶壁・奇岩が見事な峡谷美をつくっている。ウォータージェット舟で
  約1時間半の遊覧であった。

  

  遊覧船発着所は熊野川で、この写真は出発3~4分後
  の北山川との合流点である。奥の濁った川が熊野川、
  前の清流が北山川である。昨日までの雨でダムのある
  熊野川は濁ったダムの水が放流されている。北山川は
  ダムがなく雨があがるとすぐに清流となっている。

 

 

 

        

        
             瀞峡の奇岩

          瀞峡の奇岩

*熊野古道
  熊野古道は「伊勢路」「小辺路」「紀伊路」「中辺路」あるという。今回は「中辺路」の「近露王子~牛馬童子ふれ
  あいパーキング(道の駅)」までの約1.3Kmを専門野ガイドの案内でゆっくり1時間30分掛けて散策した。
  ここでガイドとお別れ、牛馬童子ふれあいパーキンから滝尻王子までは観光バスに乗った。熊野古道のツアー
  日程はここまでだ。
  
  ガイドはボランティアのいわゆる「語り部」と言われている方々だ。31名の参加でガイド2名で2班に分かれて
  案内して頂いた。私の班のガイドは女性で非常に解り易すく説明、解説が上手でベテランだった。
  王子とは、熊野に詣でる上皇や女院の先達つを務めた熊野修験者が作った神社だという(wikipedia辞典)。
  田辺観光の案内パンフレットでは、上皇や女院の休憩所となったところだとある。詣でる人々を迎え休憩する
  神社があったということだろう。

 

←ガイドの案内で出発

           
     近露王子の碑    近露王子から古道へ入る  

 

  牛馬童子像、
   以前首から頭を切断、持ち去った事で話題となった。 
   その後復元した 。盗難にあった頭は発見され現在
   資料館に保管されているそうだ。

 ここから急な坂道を下り 「1里塚跡」 を経て、
 「牛馬童子ふれあいング」 道の駅に着く。ガイドはここ迄。

  道の駅からは観光バスで滝尻王子・熊野古道館に行く。
  



 

       
     滝尻王子鳥居       滝尻王子社殿

 

←世界遺産熊野古道中辺路出発点
  滝尻王子・熊野古道館にある記念碑
  

 
*三段壁・千畳敷
  以前私は一度妻は二度来たことがあったので、さほど見事な景観だという感じはしなかった。

  
                                 三  段  壁

   
            千  畳   敷                 白浜のシンボルとして親しまれている円月島。
                                       臨海浦の南海上に浮かび、正式には「高嶋」と言い、
                                       島の中央に円月形の海蝕洞がぽっかり開いている                                            ことから「円月島」と呼ばれている。

*高野山
  弘法大使御廟・燈糧堂などのある「奥の院」、高野山真言宗大本山の金剛寺や根本大塔を案内人と回った。

   
      
   参道 両脇は墓地   この橋から先は聖地
                  奥突き当りが奥の院

 

 

        奥の院の入口 

         
       根 本 大 堂                         金 剛 寺

金剛峯寺の屋根は檜の皮を何枚も重ねた檜皮葺(ひわだぶき)になっている。その屋根の上に、桶が置かれており天水桶というのだそうだ。。これは普段から雨水を溜めておき、火災が発生したときに、火の粉が飛んで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たすとのことだ。


奥日光の三滝と中禅寺湖

2013年10月22日 | 名勝巡り

先日日帰りバスツアーで奥日光の「湯滝」・「龍頭の滝」・「華厳の滝」の3滝と、「中禅寺湖の遊覧」に行って来た。キャンセル待ちで参加しただけあって44人乗りのバスは万席だった。

湯ノ湖から「湯滝」で流れ出た湯川は戦場ヶ原を通り、中禅寺湖に流れ込む手前の急流に「龍島の滝」がある。中禅寺湖からながれ出る水流が日本三名瀑の一つ「華厳の滝」である。3滝総べてが湯川の水系である。

台風26号が近ずいて来ており関東沖を通過する前日とあって天候が危ぶまれた。朝から曇りで高速上越道沼田インターから国道120号線で奥日光に向かい、山岳地帯に入ると全山厚い雲に覆われ、金精峠を越える頃から小雨模様となった。

*湯の滝
   湯の滝に着いた時は、笠の必要がない程度の小雨模様であった。連休明けというのに観光客が大勢
   で驚いた。滝に沿って登る遊歩道は工事中で登れず、滝つぼの下流に仮設の観覧用の橋が掛けられてお
   り、下から眺めた。

     

    

 



*龍頭の滝
  いわゆる落差❍❍mの垂直の滝では無く、湯川に出来た男体山の噴火による溶岩の上を約200m にわたり
  流れ落ちている。最後の滝つぼ近くで流れが大きな岩石で2分され、其の岩が龍の頭に似ているところから
  「龍頭の滝」の名がついたと言われている。ここも大勢の観光客だった。

      

       
  

   
  

     
      
           龍の頭に見えるだろうか。紅葉も見ごろだった。
      
    


   *華厳の滝
  高さ97m の日本三名瀑の一つで,昔訪れた時には無かったが、滝壼近くまで岩盤の中100mのエレベーター
  が設置されいた。30人乗りのエレベータ2台で運転、1分の乗車なので大勢の観光客も待時間が無く乗れた。

    

                     
               下から見た滝

                
         上から見た滝     

 

 *中禅寺湖
    周囲25Km・最大水深163m・水面の海抜1269mで,2万年前の男体山の噴火で溶岩が渓谷を堰き止め出
  来た湖だそうだ。菖蒲ヶ浜で遊覧船に乗り,中禅寺湖南側湖畔の紅葉を見ながら遊覧、立木観音を船上から
  参拝、舟の駅で下船約35分の行程であった。紅葉が見ごろで良かった。

  


  ←遊覧船上からの
      板東33観音霊場 「^中禅寺立木観音」

     
     船上からの男体山 
       山頂に雲がかかって景観は良くない

  


ツアーの廻った順序は、「湯の滝」~「龍頭の滝」の次ぎに中禅寺湖を遊覧し、「華厳の滝」を見て岐路に着き、
予定通り午後8時長野駅東口に無事到着した。