ペルシアの新しい灌漑技術
紀元前525年に遊牧民国家のアケメネス朝ペルシアがオリエント世界を統一した(図参照)。
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このように、西南アジアの中心がチグリス・ユーフラテス川流域からイラン高原に移った要因の一つが、ペルシア帝国が生み出した新しい灌漑設備である「カナート」だ。カナートはアラビア語で地下水路を意味しており、地下に水を通すことで天日による蒸発を防げることから、乾燥地帯に適した灌漑設備だ。
カナートでは山麓部でわき出た泉の水や井戸の水を目的の土地まで導く。このために、数十メートルおきに竪穴を掘り、その間を地下水路で結ぶことで離れた土地まで水を運んでいく(図参照)。水路の全長は長いもので数十キロメートルに達する。こうして水路が地表に出る場所に耕地と集落が作られた。
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カナートは紀元前6世紀までにイラン高原に作られ、ペルシア帝国が支配した中央アジアや北アフリカにも伝えられた。また、ペルシア帝国の後に西南アジアを支配したイスラム帝国が現在のスペイン・ポルトガルが占めるイベリア半島を占領した際に当地に伝えられた。さらに、大航海時代になると、スペイン・ポルトガルによってカナートの技術がアメリカ大陸にもたらされた。
カナートの利用によって世界中の様々な地域で農耕が可能になった。このため、カナートはきわめて重要な食の革命的技術と言える。
現在でもイランを中心に古代に作られたカナートが使われている地域も多い。2016年にはイランの11のカナートがユネスコの世界文化遺産に登録された。