食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

塩と唐の滅亡-古代中国(11)

2020-08-19 18:15:25 | 第二章 古代文明の食の革命
塩と唐の滅亡-古代中国(11)
唐の後半になると土地の私有地化が進んで均田制が成り立たなくなった。すると、府兵制だけでなく、徴税のための租庸調制も機能しなくなる。そこで王朝は税収を確保するために「両税法」という徴税システムを780年から開始した。これはその頃に広く普及していた二期作や二毛作に対応するもので、作物の収穫期の夏と秋の二つの季節に土地の広さに応じて徴税するという制度だ。この徴税制度への移行は、人に対して平等に課されていた税金が、土地に対して課されるようになったということを意味しており、王朝自身が土地を与えられない者の存在を容認したとも言える。

両税法のおかげで崩壊しかけていた唐は財政を建て直し、100年以上存続することになる。そして、この両税法はその後の各王朝を支える重要な経済政策になるのである。

一方、両税法が開始される以前に起きた安史の乱の間に「権塩法」と呼ばれる制度が施行されていた。これは塩の専売制度のことだ。塩は生きるために必要不可欠だから、塩の製造・流通・販売を政府の管理下に置くことによって大量の収入を獲得することができるのだ。現代の日本では安く塩を手に入れることができるが、昔は塩を手に入れるのはなかなか大変だった(ちなみに、日本は塩作りに大変苦労したという歴史がある)。そのため塩は貴重であったため専売制が適用できたのだ。



ここで、古代中国の製塩について見てみよう。

日本人が製塩と聞いてまず思い浮かべるのが、海水を使った塩作りだろう。中国でも海水を使った塩作りが行われたが、中国は国土が広大なわりに海岸線が短いため、それ以外の製塩法も重要だった。その一つが岩塩の利用で、長安にほど近い中国中央部には塩の洞窟があり、貴重な塩の生産地となっていた。また、中国西部には干上がった内海があり、その土には大量の塩が含まれていたという。水の中にこの土を入れ、上澄みを煮沸するか太陽光で水分を蒸発させることで製塩を行った。さらに、現在の四川省にあたる地域などには塩水が出る井戸があり、この塩水からも塩が作られた。

海水を用いた塩作りでは、紀元前3世紀までに日本の塩田のような製塩法が開発されていた。海岸近くの平らな土地に砂や灰をしきつめ、その上に海水をまいては乾かすことを繰り返す。最後に塩分をたっぷり含んだ砂や灰を集めて海水に溶かし、上澄み液の水を蒸発させることで塩の結晶を作り出すのだ。

さて、唐は後半になると前の時代と同じように宦官が政治を牛耳るようになる。無力な皇帝は遊興にふけるようになり、その他の者は私利私欲の追求に走った。こうなると、当然のことながら国家の財政はひっ迫する。その穴埋めのために国民の税負担が増えてゆき、塩も原価の30倍以上もの価格で売られるようになった。

この時に暗躍したのが塩の密売人たちだ。国の販売価格よりもずいぶん安く売っても莫大な利益が上げられるので良い商売だった。政府が取り締まりを強化すると、金がある密売人たちは武器をそろえて対抗するようになった。さらに彼らは秘密結社を作って、組織だった反乱を起こすようになる。これに重税に苦しめられて土地を逃げ出した農民たちが加わることで大きな乱に発展する。こうして生まれたのが875年から始まる「黄巣の大乱」だ。反乱軍はまたたく間に長安を陥落させ、28か月間にわたり占拠を続けた。

黄巣の軍を長安から駆逐したのは唐軍ではなく、トルコ系部族の李克用と黄巣軍の元部将の朱温だった。しかし、この戦いで長安は廃墟と化してしまう。朱温(852~912年)は皇帝より朱全忠の名を賜ると、李克用との覇権争いを行うようになる。これに勝利した朱全忠は邪魔者だった宦官と貴族を皆殺しにする。そして、907年に皇帝の座を唐の最後の皇帝哀帝から譲り受ける。これによって唐の時代が幕を閉じるのである。

こうして見て来ると、塩が唐を滅亡に導いたと言ってもあながち間違いではないように思える。