食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

弥生時代と新しい食の世界-古代日本(2)

2020-08-24 18:59:59 | 第二章 古代文明の食の革命
弥生時代と新しい食の世界-古代日本(2)
日本の主食となるコメの栽培は縄文時代の終わり頃に中国大陸から伝わったとされる説が有力である。このルートとしては、中国の長江あるいは淮河流域から朝鮮半島南部を経由したのち日本に入るルートと、中国から直接日本に入るルートの2つが考えられているが、稲作と同時に伝わったとされる高倉式の貯蔵庫が朝鮮半島には見られないことから、中国から直接日本に入ったルートの方が可能性が高いと考えられる。なお、このルート使って、同時期にウリやモモも伝えられたと考えられている。一方、朝鮮半島からはアズキやオオムギなどが伝えられたとされる。



稲作が本格的に行われるようになるのは紀元前900年頃から始まる弥生時代(紀元前900年頃~西暦200年頃)からであり、水田をともなう初期の弥生時代の遺跡は北九州に集中して見られる。その後稲作は近畿地方まで伝わるが、しばらくの間はそれ以上東には伝播しなかった。これは縄文人の生活と関係がある。

当時の日本列島では、クリやドングリなどの実をつける広葉樹林は中部から東日本に集中していたため、大部分の縄文人はこの地域で生活していたと推測されている。一方、九州や西日本には縄文人がまばらにしか住んでいなかった。ここに、大陸から稲作文化を持った人々が移住してきたと考えられるのだ。イネは温暖で湿潤な気候を好むため、九州や西日本には適した農作物だったのだろう。一方、中部から東には縄文人がいて食料には困っていなかったため、稲作は広まらなかったと考えられる。

しかし、紀元前後になると、稲作は関東地方や東北南部でも広く行われるようになり、2世紀頃には現在の青森まで広まった。この稲作の広まりには、寒さに強いイネの品種が生み出されたことも関係していると考えられている。

さて、弥生時代の特徴は稲作以外に鉄器の使用がある。鉄器は朝鮮半島を経由して日本に伝えられたと考えられており、紀元前100年頃までには北九州で主に農具として使用されるようになった。ところで、中国では鉄の鍛造と鋳造の二つの製造法が確立していたが(「鉄の時代の始まりと諸子百家」を参照)、日本に伝えられたのは鍛造法だけであり、これは鋳造を行うほどの高温状態を作り出す技術が無かったからだと考えられる。
(鉄の時代の始まりと諸子百家⇒こちら

鉄器の使用によってコメの生産量は高くなったと考えられるが、現代と比べると極めて低い生産性しかなかったと考えられている。このため、弥生時代の食の中でコメが占める割合はそれほど高くなく、コメ以外にオオムギやコムギ、アワ、ヒエ、マメ類もよく食べられていた。東日本では縄文時代と同じように、クリやドングリも主要な食べ物だったと考えられている。また、大陸から伝わったウリやモモ、スイカ、カボチャ、アンズなども弥生時代から食卓に上るようになる。

さらに、大陸からニワトリやブタも伝えられ、これらの骨が弥生時代の遺跡からたくさん見つかっている。ブタは平安時代になると日本の仏教が肉食を禁じることから食べられなくなるが、それまでは貴重な栄養源であったと考えられている。また、縄文時代と変わらずに魚介類もよく食べられており、面白いことにタコを捕るためのタコツボが弥生時代から使われるようになる。

以上のような食生活の向上によって、弥生時代にはさらに人口が増え、紀元前後には縄文時代の2~3倍の60万人が暮らしていたと推定されている。特に西日本での人口増加が著しく、縄文時代の20倍程度に増えたと見積もられている。