食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

聖職者の食-中世盛期のヨーロッパと食(9)

2020-12-07 23:54:25 | 第三章 中世の食の革命
聖職者の食-中世盛期のヨーロッパと食(9)
今回は少し地味ですが、中世盛期の修道士の食生活のお話になります。
NHKの麒麟が来るでは僧侶がお金儲けに熱心な姿が描かれていますが、それは中世ヨーロッパの修道院でも同じことでした。人って堕落しやすいもののようですね。

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キリスト教では(キリスト教と同じように預言者のアブラハムを始祖とするユダヤ教とイスラム教でも)断食はとても重要な行為だった。元々食べること自体が罪であると言う意識があったからである。イエス・キリストも40日間の断食を行ったと言われている。

このため、聖職者は断食を行わなければならなかったし、肉料理などの豪華な食事を摂ることは堕落とみなされた。特に、厳しい修行を行う修道士は清貧な生活をするのが常だった。

ところが、中世の農業革命によって経済活動が活発になり始めると、11世紀末頃から修道院の収入も大幅に増加するようになった。領地内の農産物の生産量や農民が納める税金が増えたからである。その結果、修道士たちの食生活は豊かになり、メニューも多様になったと言われている。

ヨーロッパにキリスト教を広める上で重要な役割を果たしたベネディクト派の修道院は、ベネディクトゥス(480年頃~547年)によって創設された。彼は「ベネディクトゥス会則(戒律)」と呼ばれる厳しい生活規範を作成したのだが、その厳格さは時代とともに失われた。

こうして堕落した修道院生活を改革するために、910年にフランスのブルゴーニュ地方に建てられたクリュニー修道院を中心に、ベネディクトゥス会則を厳格に守ることによって本来の修道院の在り方を回復させようとする運動が行った。その運動はヨーロッパ中に広まり、11世紀にはヨーロッパ各地に1500ものクリュニー派の修道院があったと言われている。


クリュニー修道院(Michal Osmenda from Brussels, Belgium, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons)

しかしクリュニー派はキリスト教の儀式を豪華にすることにとても熱心だった。その結果、修道院の建物とその装飾は次第に豪華になって行った(これがロマネスク様式やゴシック様式が生まれるきっかけとなった)。また、それにつれて聖職者の日常も華美なものになり、本来の質素な生活から離れて行ったのである。

例えば、ベネディクトゥス会則に決められていた昼食の「野菜と果物」の一皿は、卵5個とチーズに変わった。また、特別な祝日には卵のパイや肉料理、ハチミツを使ったお菓子などが食卓に並んだようだ。修道士一人に毎日割り当てられていたパンとワインも量が増え、質が向上した。

このようなクリュニー派の修道士の華美な生活を批判し、より質素な修道院生活を復活させようとして1098年に建立されたのがシトー派修道会だ。クリュニー派の修道士が豪華な黒い衣を身にまとったのに対し、シトー派の修道士たちは染料を用いない白衣を身につけた。そして、地面の上に寝て質素な生活を行い、農業などの労働に励んだ。

1日の食事はパン1ポンド(約450グラム)とワイン1ヘミナ(約270ミリリットル)、そして火を通した野菜だけだった。このパンも、小麦粉で作った白パンが一般的だったにもかかわらず、オオムギ・キビ・エンドウマメなどの粉で作られた黒いパンだった。食事のマナーも徹底していて、食事中におしゃべりをした者はワインや野菜が取り上げられて罰せられたという。

このようなシトー派の改革運動はヨーロッパ全土に広がったが、労働で得た余剰分については売却して利益を上げてもよかったことから、次第に労働と利益獲得に興味が移って行った。その結果、東ドイツで農地の開墾を行ったり、イギリスで毛織物の生産技術を開発したりなどの社会的貢献を行う一方で、清貧な生活も終えることとなった。13世紀にはパンにキビやエンドウマメの粉を使うことは無くなったということだ。

やはり、普通の人間にとっては美味しいものを遠ざけるのは難しいのだろう。