コンブを運ぶ-中世日本の食(11)
総務省が発表した「家計調査2020年度版」によると、都道府県庁所在市及び政令指定都市の中でコンブの家計支出が最も多いのは富山市で、2位は京都市、3位は福井市、4位は金沢市となっています。
このように北陸の人々のコンブ好きは際立っており、コンブを糸状に削って作った「とろろコンブ」のコンビニおにぎりも北陸地方だけで限定販売されています。
でも、北海道などの北の海で収穫されるコンブが、なぜ北陸の都市でよく食べられているのでしょうか。
その理由は古代からのコンブの輸送経路にあります。つまり、北陸地方はコンブの輸送で重要な拠点であったため、今なおたくさんのコンブが食べられているのです。
今回はコンブの輸送の歴史をたどりながら、中世の物資輸送について見て行きます。
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日本の記録にコンブが最初に登場するのは、奈良時代に書かれた『続日本紀』の715年の記述とされている。コンブはこの頃から、貢ぎ物あるいは税として北方の地域から京都の朝廷におさめられていた。平安時代中期の『延喜式』には、コンブが陸奥国(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部)の特産品として朝廷におさめられていたことが記録されている。
コンブは神饌(しんせん)として神前にお供えしたり、天皇の食事に使用されたりしていたらしい。また、平安貴族の食卓にものぼっていたという。
奈良時代のコンブの輸送経路について詳しいことは分かっていないが、海上輸送を示す文献も見つかっているそうなので、早い時期から船で運ばれていた可能性がある。そして、遅くとも平安時代には、コンブなどの北の国からの物資の多くは日本海を海上輸送されていたと考えられている。
こうして北の国や北陸などから物資を運んできた船のほとんどは、京都への玄関口となっていた福井県の敦賀港に入港し、積み荷をおろした。一方、西からの物資は福井県の西津港や小浜港に陸揚げされていた。このように、古代から福井の港は日本海の物資の集積所として栄えていたのである。
敦賀から京都への輸送で重要な役割を果たしていたのが琵琶湖だ。北陸の敦賀港から約30㎞南に進むと琵琶湖の北端の塩津港にたどり着ける。そこで荷物を船に乗せ、約90㎞離れた大津港まで運ぶのだ。船だと一度に多くの荷物を運ぶことができるし、荷車で運ぶよりも人手もかからずにずっと早い(この距離だと1日ほどで運べたらしい)。
奈良時代末期に編纂された『万葉集』には「磯の崎 漕ぎ廻み行けば 近江の海 八十の湊に鵠多(たづさは)に鳴く」という歌があり、琵琶湖には80の港があったことがわかる。ちなみに、西津港や小浜港で陸揚げされた西方からの物資は琵琶湖西岸の木津港まで運ばれて、船に乗せられて大津まで運ばれていた。
その大津からは陸路を約10㎞進むと京都に到着できる。このように湖上の経路を使うと、2~3日で福井-京都間の物資の輸送ができたそうである。
平安時代の木簡からは、当時の湖上輸送がとても盛んであったことがうかがえるという。また、塩津港跡からは平安末期から中世にかけての遺物が大量に出土しており、「敦賀」と書かれた土器類も多く見つかっているらしい。この遺跡の調査によって、12世紀から塩津港が大規模化したことが明らかになっている。
13~14世紀になると、日本海から琵琶湖を経て京都や大阪に至る輸送経路は貢ぎ物や税を運ぶだけでなく、各地の商品を輸送する交易経路としても急速に発展して行った。日本海で港から港へ貨物や旅客を運ぶ「廻船業(かいせんぎょう)」が北陸地方を中心に始まったのもこの頃だ。こうして日本海の港を結ぶ一大流通網が形成されて行ったのである。
室町時代末期に瀬戸内の海賊によって書かれた『廻船式目』には「三津七湊(さんしんしちそう)」と呼ばれた当時の十大港湾が記されているが、このうちの七湊はすべて北陸を中心とした日本海の北側にある湊(港)だ。なお、七湊とは、越前の三国、加賀の本吉、能登の輪島、越中の岩瀬、越後の今町、出羽の土崎、津軽の十三湊(とさみなと)のことだ。この記述からも北方の物資の交易がこの時代にとても重要だったことが分かる。
この経路で運ばれた最も重要な交易品の一つが、津軽半島の十三湊から敦賀を経て京都に運ばれたコンブだった。十三湊は平安時代からアイヌとの交易を行っており、北海道産のコンブやサケ、マス、ニシンなどを得ていたという。これらを商品として京都に送っていたのである。
コンブなどを積んだ廻船は、北陸の各湊に立ち寄りながら敦賀を目指したが、それぞれの湊でもコンブを始めとする商品の取引が行われていた。その結果、北陸人にとってコンブはとてもなじみのある食品になったのだ。
なお、当時のコンブは北海道南部で採れる肉厚ものであったため、薄い板状の「おぼろコンブ」や糸状の「とろろコンブ」のように、削って食べる方法が編み出されたと言われている。
さて、京都への物資や人の輸送において琵琶湖は大きな役割を果たしていたことから、その水運を支配することは経済的だけでなく、政治的・軍事的にも重要であった。そこで各時代の有力者はこぞって琵琶湖の支配に乗り出した。
例えば、平安末期には平清盛が琵琶湖と日本海をつなげるために塩津-敦賀間の運河を計画し、息子の重盛に建設を命じていたと言われている。また、織田信長が安土城を琵琶湖の近くに建てたのも、有事の際に琵琶湖の水運を利用して速やかに軍を移動させるためだったという説がある。さらに豊臣秀吉は1586年に大津に城を築き、北陸から京都・大坂への物資輸送の拠点とするとともに、大津の廻船仲間である「大津百艘船(おおつひゃくそうせん)」を組織した。
しかし江戸時代になると、津軽海峡を通って太平洋を回る航路(東廻り航路)や、日本海から関門海峡・瀬戸内海を経て大阪や江戸に至る航路(西廻り航路)が開拓されることによって、琵琶湖を使う航路は衰退していく(これについては近世でお話する予定です)。