5・2 アメリカの産業革命と食
西部開拓時代-アメリカの産業革命と食(1)
今回から「アメリカの産業革命と食」のシリーズが始まります。また、本シリーズの次には「ドイツの産業革命と食」のシリーズをお送りする予定です。
現代のアメリカとドイツは世界有数の工業国です。このように2つの国が高い工業力を有するようになるのは19世紀の後半からです。両国ではちょうどその頃に産業革命が最盛期を迎え、工業化が大きく進みました。
アメリカとドイツの産業革命の特徴は、機械工業や製鉄業などの「重工業」を中心に産業革命が進行したことです。これは、綿織物業などの「軽工業」を中心に始まったイギリスの産業革命と大きく異なっています。
イギリスでは軽工業から重工業への切り替えがゆっくりとしか進まなかった一方で、アメリカとドイツでは重工業が急速に発展した結果、20世紀初頭には両国の工業生産力はイギリスの工業生産力を凌駕するようになります。例えば、1870年の世界の工業生産のシェアは、イギリス(32%)・アメリカ(23%)・ドイツ(13%)であったものが、20世紀初頭にはイギリス(15%)・アメリカ(35%)・ドイツ(16%)というように、イギリスがトップの座から滑り落ちました。
本シリーズでは、アメリカがこのように工業国化する間に、食の世界にどのような変化が起きたのかを見て行きたいと思います。
第1回目の今回は、西部劇の舞台となった西部開拓です。西部は広大なフロンティアであり、西部を開拓することによってアメリカの国力は大きく増大しました。西部開拓には、アメリカの近代化の礎となった運河と鉄道が重要な役割を果たしました。それはどのようなものだったのでしょうか?
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北アメリカの植民地は大西洋側の東海岸から始まった。西部と言われるのはアパラチア山脈より西側で、アメリカ独立戦争(1775~1783年)頃までアパラチア山脈を越えて西部に行くのはアメリカ原住民と交易を行う商人だけで、西部に移住する人はほとんどいなかった。
独立戦争後にはアパラチア山脈を越えて西側に移住を試みる人が増えたが、アメリカ原住民の反発が激しかったため移住はなかなか進まなかった。アメリカ人は、イギリスがアメリカ原住民を扇動してアメリカ人を襲わせているのが原因と考えた。また、その頃のイギリスはフランスに対抗するために海上封鎖を行っており、その影響でアメリカの経済も大きな打撃を受けていた。そこでアメリカはこの状況を打破するために、1812年にイギリスに戦争を仕掛けた。
こうして始まった米英戦争(1812~1815年)は双方に決め手がないまま講和を迎えたが、その間にアメリカで工業化が進み、経済的な自立性が高まった。また、多くのアメリカ原住民が虐殺されたため、彼らの土地がアメリカのものとなった。なお、ミシシッピー川とロッキー山脈にはさまれた土地はフランス領とされていたが、1803年にフランスからの購入することでアメリカ領となっていた。
米英戦争によってアメリカ原住民の抵抗が弱まると、西部への大移住が始まる。移住者の多くは1825年に開通したエリー運河(ハドソン川とエリー湖を結ぶ運河)を利用してエリー湖まで移動した。さらに、そこから南下してオハイオ川に入り、流れを下ってオハイオ川やミシシッピー川の流域に移住した。そして、そこで農業を始めたのである。
未開の土地は当初はアメリカ政府によって管理されていたが、1862年にリンカーン大統領が制定したホームステッド法によって、開拓者は160エーカー(約65ヘクタール)の土地をほぼ無償で手に入れることができるようになった。その結果、西部の開拓が大きく進むことになる。
一方、1861年から1865年にかけて南北戦争が勃発する。奴隷制を維持したい南部の諸州が独立を求めて合衆国から離脱し、北部の諸州に対して攻撃を始めたのである。この戦争では結果的に北軍が勝利し、合衆国は分裂することはなかった。
また、この戦争では兵士や武器などの輸送に鉄道が重要な役割を果たしたことから、戦後に大陸横断鉄道などの鉄道網の整備が大きく進むことになった。そしてこれが西部の開拓をさらに推し進めることになる。
ミシシッピー川とロッキー山脈にはさまれた地域はプレーリーとグレートプレーンズと呼ばれる大平原だ。この地域では西に行くほど降水量が少なくなり、乾燥地帯になる。このため、プレーリーは大草原地帯だったが、グレートプレーンズは背の低い草しか育たない土地だった。
初期の移住者たちは、プレーリーの草原を重い鋤(すき)を使って開拓し、農地に変えて行った。一方、グレートプレーンズでは作物をうまく育てることができなかったので、開拓者たちはさらに西に移動して、アメリカの西海岸に入植した。
しかし、南北戦争が終わって鉄道網が整備された結果、グレートプレーンズにも鉄道の駅が造られるようになる。すると、カウボーイたちが南部のテキサス州で野生化していた牛をグレートプレーンズまで運び、鉄道に乗せて東部や西部の大都市に運ぶようになったのだ。また、グレートプレーンズにとどまって牧畜を行う人たちも増えて行った。こうして1890年頃までにグレートプレーンズは広大な放牧地となった。なお、各放牧地の境界には柵や鉄条網が設けられるようになったので、カウボーイが牛追いをすることはできなくなってしまった。
一方、南北戦争の後にはグレートプレーンズでの農耕も盛んになった。その頃には機械を使って深い井戸を掘り、風車を使って水をくみ上げることによって生活や農業のための十分な水を獲得できるようになったのだ。また、乾燥に適したコムギの品種がロシアから持ち込まれたことにより、主にグレートプレーンズの北部でコムギの栽培が盛んになった。今日では、グレートプレーンズはアメリカで随一のコムギの生産地域となっている。
1890年に国勢調査が行われた結果、1平方マイル当りの人口が2人以上6人以下と定義されるフロンティアは西部から消滅したことが明らかになった。こうして西部の開拓は20世紀になるまでにほぼ終了したのである。