食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

フェニキア人の歴史ー灌漑農業の行き詰まりと新しい食の革命(6)

2020-05-16 17:40:28 | 第二章 古代文明の食の革命
フェニキア人の歴史
地中海における海上貿易や植民地を考える上で、フェニキアについて触れないわけにはいかない。「フェニキア」とはギリシア語で「赤紫」のことで、フェニキア人が最初期に居住していた地中海東北部沿岸で採れた貝の染料から名づけられたと推測されている。

現在のシリア、イスラエル、レバノンに相当するこの地域では、レバノンの国旗にも描かれている「レバノンスギ」が重要な輸出品として伐採されていた。レバノンスギは腐食しにくく、太くて堅い材質のため、船や神殿などの建築資材に最適だった。ちなみに、エジプトのクフ王のピラミッド近くに見つかった「太陽の船」はこのレバノンスギでできている。

このように船の建材として有用な木材を産出したこともあって、フェニキア人は優秀な船を作り、航海術にもたけていた。そして、地中海沿岸部を結ぶ交易網を発達させたのである。後期青銅器時代(紀元前1500年頃~前1200年頃)には、ウガリットやビュブロスなどの都市国家を造り、エジプトやエーゲ海の国々と海上貿易を行なっていた。



このころのフェニキア人の食生活は、関係の深かったエジプトなどのオリエントの影響を強く受けている。穀物としては、小麦・大麦・エンマー小麦やレンズマメなどの豆類が食べられていた。これらは粥やパン・ガレットとして消費されたようである。
また、ニンニク、タマネギ、キュウリなどの野菜類や、ナツメヤシ、イチジク、リンゴ、ザクロなどの果実類も栽培され食卓に上っていた。特に「フェニキアのイチジク」は極めて美味な果物としてエジプトで絶賛されていたとの記録がある。

肉は広い牧草地で飼育されていたウシ、ヒツジ、ヤギなどの家畜から得ていたようだ。沿岸部であることから、魚も貴重なタンパク源だったと考えられる。中でも、魚ではないがクジラの漁が行われ、フェニキアで消費されるとともに、輸出品や献上品として隣国に運ばれていたようだ。

フェニキア人が住んでいた地域は、旧約聖書で約束の地(カナン)と呼ばれる「乳と蜜の流れる場所」とされていることから、乳製品と蜂蜜の生産量や消費量が髙かったと推測される。実際にウガリットの文献にはチーズの記載が残されている。
また、ブドウの栽培も盛んで、高品質のワインを生産して、近隣諸国に輸出していた。

以上のように繁栄していたフェニキア人の国々は、オリエントや地中海を襲った紀元前1200年頃の社会変動によって衰退してゆく。その後フェニキア人は地中海東部を南下してシドンやティルスなどの都市を建設するとともに、地中海の西部に進出し、紀元前9~前8世紀には北アフリカ沿岸やイベリア半島の南沿岸に、新たな植民地や都市国家を築くことで復興してゆく。

植民地の中でも特に重要なのが、ティルスを母市として紀元前800年頃に北アフリカに建設されたカルタゴである。この頃から、同じように地中海での植民活動を開始したギリシア人との抗争が始まる。

尚、カルタゴについてはローマとの戦争(ポエニ戦争)に関連して、別途記載する予定である。

古代ギリシアの歴史ー灌漑農業の行き詰まりと新しい食の革命

2020-05-15 08:15:14 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ギリシアの歴史
少し繰り返しになるが、ここでヨーロッパの歴史で重要な役割を担ったギリシアの歴史と食料生産の変遷について見て行こう。

紀元前7000年前頃から始まるギリシアの新石器時代までは、人々は洞窟などに住んで狩猟採集生活を行っていたと考えられている。

新石器時代に入るとオリエントより農耕技術が伝えられ、主に北部に定住化して大麦・小麦やレンズ豆などを栽培するようになった。また、ヤギ・ヒツジ・ウシ・ブタなどを家畜として飼い始めた。

紀元前3000年頃から始まる青銅器時代になると、新石器時代に中心だったギリシア北部からギリシア南部へと文化の中心が移動した。その理由は、地中海の三大作物(小麦・オリーブ・ブドウ)のうち、オリーブとブドウの栽培にギリシア南部の丘陵地帯が適していたからである。これらの作物からは交易品として高い価値があるオリーブオイルとワインを生産できた。

すなわち、このころには海上の輸送技術が発達し、自給自足的な生活から「貿易」によって必要な物資を交換する生活への変化が起こっていたと考えられる。地中海やエーゲ海、アドリア海、黒海に囲まれたギリシアは地理的に有利であった。

紀元前2000年頃にはクレタ島を中心にクレタ文明が栄えた。この文明の中心はアジア系の民族であり、海上貿易を中心とした海洋国家を構築した。

やがて、インドヨーロッパ語族のギリシア人が南下してギリシア本土に定住し、クレタ文明を征服しながらミケーネ文明(紀元前1600年頃~紀元前1200年頃)を作った。このクレタ文明については、シュリーマンによって1870~80年代に行われた発掘が有名である。彼は架空の存在と考えられていたトロイやミケーネの遺跡発掘を行い、ミケーネ文明の実在を証明した。尚、この文明では有名な「線文字B」が使用されていた。

紀元前1200年頃になると、様々な説があり現在のところ決定的な原因は不明だが、大きな社会的な変動が起こり、ミケーネ文明は滅亡する。その後の400年間は残された史実が少なく「暗黒時代」と呼ばれる。

この時期には北方から移動してきたドーリア人などが定住し、先住のイオニア人らと交わることによって最終的なギリシア民族を誕生させた。また、鉄器の普及やアルファベットの発明という重要な進歩が見られた。

紀元前8世紀になるとギリシア各地に「ポリス」が徐々に生まれて行く。ポリスはギリシア独自の国家形態であり、参政権を有する「市民」を中心にした民主主義によって運営された。

ポリスの中心部には「アクロポリス」と呼ばれる防壁に囲まれた丘があり、神殿が作られポリスの守護神を祀った。また、「アゴラ」と呼ばれる集会や商取引を行う広場もポリスに必須の施設だった。このころ、市民の多くは都市の郊外や周辺の農地に住んでいた。

ギリシアにはこのようなポリスが大小200ほど存在した。市民の数も数百から数千程度で、それ以外に奴隷なども生活していたとされる。

このようなポリスの活動には植民地の存在が必要不可欠だったと考えられている。

ペルシアの新しい灌漑技術ー灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命(4)

2020-05-13 09:48:52 | 第二章 古代文明の食の革命
ペルシアの新しい灌漑技術
紀元前525年に遊牧民国家のアケメネス朝ペルシアがオリエント世界を統一した(図参照)。



このように、西南アジアの中心がチグリス・ユーフラテス川流域からイラン高原に移った要因の一つが、ペルシア帝国が生み出した新しい灌漑設備である「カナート」だ。カナートはアラビア語で地下水路を意味しており、地下に水を通すことで天日による蒸発を防げることから、乾燥地帯に適した灌漑設備だ。

カナートでは山麓部でわき出た泉の水や井戸の水を目的の土地まで導く。このために、数十メートルおきに竪穴を掘り、その間を地下水路で結ぶことで離れた土地まで水を運んでいく(図参照)。水路の全長は長いもので数十キロメートルに達する。こうして水路が地表に出る場所に耕地と集落が作られた。



カナートは紀元前6世紀までにイラン高原に作られ、ペルシア帝国が支配した中央アジアや北アフリカにも伝えられた。また、ペルシア帝国の後に西南アジアを支配したイスラム帝国が現在のスペイン・ポルトガルが占めるイベリア半島を占領した際に当地に伝えられた。さらに、大航海時代になると、スペイン・ポルトガルによってカナートの技術がアメリカ大陸にもたらされた。

カナートの利用によって世界中の様々な地域で農耕が可能になった。このため、カナートはきわめて重要な食の革命的技術と言える。

現在でもイランを中心に古代に作られたカナートが使われている地域も多い。2016年にはイランの11のカナートがユネスコの世界文化遺産に登録された。




騎馬遊牧民の誕生ー灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命(3)

2020-05-11 08:22:15 | 第二章 古代文明の食の革命
騎馬遊牧民の誕生
 遊牧民は一つの場所に定住することなく、一年を通じて居住する場所を何度か変えながら、主に牧畜によって生計を立てている集団である。多くの場合、数家族からなる小規模な集団で家畜の群れを引き連れて移動を行う。ただし、厳しい冬の季節は数十から数百の家族が集まり助け合うこともあるそうだ。

このような遊牧民は、草原地帯で農耕を営んでいた人から誕生したと想像される。これには紀元前2500年頃からの乾燥化が大きな要因となっていると考えられる。この遊牧民誕生の経緯については既に第一章の「放牧から遊牧へ」で触れているので、ここでは、高い機動力と軍事力を発揮することで世界史に大きな影響力を及ぼした「騎馬遊牧民」について見て行こう。

騎馬遊牧民が高い機動力を発揮するためには「車」と「ウマ」が必須だった。

車によって輸送能力が格段に向上する。この車を作るために最も重要なのが「車輪」だ。車輪は紀元前3500年頃にメソポタミアで発明され、エジプトやアジア、草原地帯など各地に伝えられたと考えられている。車輪といっても、木の板をつぎ合わせて円形状にし、中心部分に心棒を付けて外周を動物の皮で覆うといった簡素な作りだった。しかし、ソリのように地面を滑らせて運んでいたそれまでよりも輸送能力ははるかに向上した。

ウマの特徴と家畜化については既に第一章の「ウマの家畜化」で述べているが、騎馬に特に不可欠なのが金属製の丈夫なハミの開発だ。そのために、草原地帯に青銅器文化が伝わる必要があった。中央ユーラシアの草原地帯では紀元前10世紀~前8世紀になって、青銅器製のナイフや斧などと共にハミが作られるようになった。その結果、ようやく騎馬遊牧民が誕生することになるのである。

騎馬遊牧民は、農耕民に比べて人口あたりの軍事力が極めて高かった。農耕民は農繁期には農地で重労働に明け暮れており、このため農閑期以外は少人数の動員しかできない。また、日常的な軍事訓練も難しいため、一人ひとりの戦闘能力も高くない。

対して騎馬遊牧民では、ほとんどの成人男性が日常的にウマに乗り、弓矢の訓練を行っていたとされる。ウマは人間に比べて巨体で重量があるにもかかわらず、短時間であれば時速60キロメートル以上で疾走できるため、集団で騎射を行いながら一斉突撃を行い離脱するという騎馬遊牧民の戦法の前では農耕民の歩兵集団は無力に等しかった。また、陣地を容易に移動できるという点でも農耕民よりも有利だった。

彼らは、匈奴、スキタイ、パルティア、アケメネス朝ペルシア、インド・アーリア人、フン族、鮮卑、突厥、ウイグル、セルジューク朝、モンゴル帝国などにおいて世界史に大きな足跡を残すことになる。

エジプト・ヨーロッパ・アジアの古代文明の盛衰ー灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命

2020-05-10 11:37:35 | 第二章 古代文明の食の革命
エジプト・ヨーロッパ・アジアの古代文明の盛衰
次に、メソポタミア以外の文明がどのような経過をたどったか見て行こう。

エジプトではナイル川の氾濫水が豊富にあったため、塩害は起こらず農産物の生産量も維持された。しかし、オリエントで勢力を拡大した他国により次第に干渉を受けることになる。やがて紀元前663年に、メソポタミアのチグリス川上流地帯を起源とするアッシリアが鉄製の戦車と騎馬を使った強い軍事力によってメソポタミアとエジプトを含むオリエント世界を統一し、最初の世界国家を樹立した。その後、紀元前525年には、遊牧民国家のペルシア帝国(アケメネス朝)がオリエントの支配者となった。

その頃地中海東部の沿岸では、ポリスと呼ばれる大小の都市国家が繁栄していた。この繁栄に寄与したのが後に詳しく見ていく交易と植民地だ。ポリスはお互いに競合しながらも言語と宗教が同じで、共同でオリンピックを開催するなど、共通性の高い古代ギリシア社会を形成していた。

やがて、ギリシア北部の遊牧民国家のマケドニアが勢力を拡大する。紀元前4世紀にはマケドニア王のアレクサンドロスが東方遠征を行い、ペルシア帝国を滅ぼしてギリシアからオリエントにまたがる大帝国を建設した。しかし、アレクサンドロス大王の死後、マケドニアは弱体化した。

それに代わって地中海で勢力を拡大したのが古代ローマだ。エジプトを含む地中海沿岸域に加えてヨーロッパ内陸部にも領土を広げ、最盛期にはブリテン島(現在のイングランド)まで支配した。一方、西南アジアでは新しいペルシア帝国(アルサケス朝・ササン朝)が誕生する。

アジアに目を向けてみると、インダス文明は紀元前1800年頃から衰退期に入り、紀元前1500年頃に滅亡する。しかし、その原因はよく分かっていない。その後、遊牧民のインド・アーリア人が侵入し、紀元前6世紀ごろにガンジス川流域に都市国家を建設する。

中国文明は存続し続け、夏・殷・周・秦などの国家が支配者となる。存続の理由として、黄河の治水が比較的うまく進んだことと、広大な森林の豊かな資源を利用できたことなどが考えられている。