食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

酵母の栽培化ー古代文明の食文化の革命(7)

2020-05-02 10:08:01 | 第二章 古代文明の食の革命
酵母の栽培化
パンや酒を作るために利用されてきた酵母は、人類の生活や文化に必要不可欠なものだ。

それでは、酵母とは何者だろうか。こう問われて、はっきり答えられる人はそういないのではないかと思う。

酵母とは単一種類の微生物ではなく、カビやキノコなどの仲間のうちで、一つの細胞で独立に生活するもの(単細胞生物)の総称だ。現在までに、約1500種の酵母が知られているが、この中で食品に利用されているのはほんの数種類だ。特に、パン酵母、ビール酵母、ワイン酵母、清酒酵母はすべて「サッカロマイセス・セレビシエ」という同じ種類の酵母になる。

近年の研究から、食品に利用されている酵母は野生に存在しているものではなく、長い年月をかけて人為選択を受けることで品種改良進んだ結果生み出されたことが分かってきた。つまり、ムギやイネなどと同じように「酵母の栽培化」が行われたのだ。

研究によると、サッカロマイセス・セレビシエは約30万年前に中国で生まれた。そして約1万5000年前に中国から世界各地に広がる。おそらく人の体に付着して運ばれたのだろう。そして、その土地それぞれの発酵食品に合うように品種化が進んだと考えられる。

食用酵母は炭酸ガスとアルコールを作るだけでなく、さまざまな有機物を作ることで、食品の味や香り(風味)などに関わっている。食品ごとに好ましい風味は変わるため、それに合うような食用酵母が人為選択されてきたのだ。その結果、人類が利用している食用酵母にはたくさんの品種が存在している。

例えば、ビールでは「フェノール臭」が好ましくない臭いとされている。中でも、4-ビニルグアイヤコール(4-VG)と呼ばれる物質の生成はフェノール臭の主な原因となるため、特に嫌われている。面白いことに、パン酵母、ビール酵母、ワイン酵母の遺伝子が比較された結果、他の酵母と比べてビール酵母では4-VGを作る酵素がほとんど働かなくなっているのが見つかった。これはビールに合った酵母を人為選択してきた結果だろう。

ところで、あまり知られていないことだが、ほとんどの発酵食品では酵母による発酵と乳酸菌による発酵が同時に起こっている。食品によって、どちらの発酵が強く起こるかという違いがあるだけだ。

実は、多くの場合、酵母と乳酸菌はお互いにくっついて生活している。酵母の方が大きいので、小さい乳酸菌が酵母にペタペタくっつく感じだ。市販されているドライイーストはパン酵母を乾燥させたものだか、この中にも乳酸菌がたくさん含まれている。

このように酵母と乳酸菌は結合して、栄養素のやり取りなどを行う「共生」という関係を結んでいる。しかし、この共生関係が強すぎると、思い通りの発酵食品が作れない場合がある。例えば、清酒造りで乳酸発酵が進み過ぎると、酸っぱくなる「酸敗」と呼ばれる失敗につながる。そこで、乳酸菌との結合が弱い品種が清酒酵母として使用されている。この品種は清酒造りに適したものとして選択されてきたものと考えられる。

このように、食用酵母は人類と特別な関係を結ぶことで独自の歴史を作ってきたと言える。

東アジアの酒造りの歴史ー古代文明の食文化の革命(6)

2020-05-01 08:23:30 | 第二章 古代文明の食の革命
東アジアの酒造りの歴史
中国の酒造りは紀元前5000年頃に、コメを原材料にして始まったと考えられている。最初の酒は、桑の葉でご飯を包み発酵させたものであったとされる。

紀元前2000年頃から紀元前1500年頃の中国最古の王朝だった夏では、酒造りが本格的に開始されていたようだ。さらに、次の王朝の殷の時代(紀元前1500年頃から紀元前1046年)には、麹菌を使用して酒が造られるようになった。この頃の遺跡からは、大規模な醸造をうかがわせる遺物が残されている。

ところで、夏や殷の滅亡の原因を、王族・貴族たちの酒の飲み過ぎとする説がある。当時の酒器には青銅器が使われていたが、ここにヒ素が含まれることがあり、酒に溶け出すことでヒ素中毒になってしまったということだ。ちなみに、銅の酸化物である緑青は猛毒であると信じられていた時期があったが、現在では緑青の毒性は高くないことが証明されている。

殷の後の周王朝(紀元前1046年から紀元前256年)では、夏と殷での暴飲を教訓として、禁酒政策が取られた。貴族に節酒が命じられるとともに、庶民が集まって飲酒をすることも禁じられた。もし、集団での飲酒が見つかると死刑になるほど厳しいものだったそうだ。

日本での本格的な酒造りは、稲作が軌道に乗った弥生時代以降と考えられているが、正確な開始時期については諸説あり固まっていない。最初のコメを使った酒は「口噛み酒」と考えられている。この醸造法では、コメを噛むことで唾液中のデンプン分解酵素を働かせて糖を作り、酵母によるアルコール発酵を行わせる。アニメ「君の名は」でヒロインが作った酒だ。やがて、麹菌を使った醸造法が普及した。奈良時代には酒造りのための役所が設けられ、計画的な酒造りが行われていたことが分かっている。

東アジアの醸造酒の特徴が、「並行複発酵」と呼ばれる方法で作られることだ。これは、麹菌によってデンプンが糖に変化する発酵と、糖が酵母によってアルコールに変化する発酵が同時に行われることをいう。つまり、麹菌によって作られた糖が、酵母によって素早くアルコールに変えられる。デンプンは分解すると大量の糖となるため、並行複発酵では20%程度までの高濃度のアルコールを含んだ酒を作ることができる。もし、糖を出発材料としてこの濃度のアルコールを作ろうとすると、酵母が生育できないほどの高濃度の糖が必要だ。

麹菌は酒造り以外でも、味噌や醤油、みりんなどを作るために使用されており、日本人を含めて東アジア圏の人々になじみの深いカビだ。この地域は稲作圏とほぼ一致しているが、これは麹菌が蒸したコメに好んで生える性質を持つことに関係していると考えられる。私の想像だが、古代人は麹菌が付いたコメを食べてみたところ、とても甘いことに気がついて、その有用性を理解したのではないだろうか。