食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

食料不足と戦争とペストのヨーロッパ-中世後期のヨーロッパの食(1)

2020-12-19 15:30:51 | 第三章 中世の食の革命
3・5 中世後期のヨーロッパの食
食料不足と戦争とペストのヨーロッパ-中世後期のヨーロッパの食(1)
今回からしばらく中世後期のヨーロッパにおける食を見て行きます。

ヨーロッパの中世後期とは西暦1300年頃から1500年頃までの時代を指します。中世後期には大飢饉や戦争、ペストの大流行があり、暗黒時代と呼ぶにふさわしい停滞と後退の時代でした。

今回はその概要についてお話ししましょう。

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中世後期のヨーロッパを襲った最初の危機は食料生産力の低下だ。中世盛期には農業革命によって食料生産力が著しく向上したが、14世紀になると一転してそれに陰りが見え始めたのだ。

その原因の一つが利用できない耕作地が増えたことである。

もともと地力が低い土地を無理やり開墾して耕作地にしたところでは、生産を維持することができなかったのだ。このような土地では三圃制農法を行って家畜の糞尿を施しても地力は完全には回復しなかった。人糞も肥料として使用されていたが、人が集まる都市から離れた耕作地では手に入れるのが難しかった。

こうして十分な収穫が望めなくなって放棄される農地が増えて行ったのである。農地は村単位で耕作されていたため、14世紀以降には廃村となる集落が続出したという。

収穫量の減少には気候の寒冷化も関係している。長らく続いていた温暖な気候が終わりをつげたのだ。この寒冷化は19世紀初めまで長期間にわたって続いた。この期間は「小氷期」と呼ばれていて、その原因は太陽活動の低下によるものと考えられている。

以上のように耕作地の減少と寒冷化で食料生産力が低下した結果、ヨーロッパでは飢饉がたびたび起こるようになった。中でも1315~1317年にかけてヨーロッパ全域にわたって発生した大飢饉は悲惨なものだった。

1315年の春からヨーロッパはたびたび大雨に見舞われることになった。平年並みの気候に戻ったのが2年後の1317年の夏頃と言われている。この間気温は低いままだった。その結果、穀物が十分に実らなかったという。また、家畜の飼料となるワラもとれなくなり、乳製品や肉も減少した。さらに、雨のために塩田での塩づくりも困難になり、塩漬けの保存食も作れなくなった。

こうして深刻な食糧不足が始まった。食料の備蓄があったのは王侯貴族や聖職者、裕福な商人だけで、多くの庶民はまともに食べることができなくなった。その結果、多くの都市で10~25%の人が死亡したと推測されている。死亡の原因は餓死だけでなく、栄養不足による免疫力の低下のために肺炎などの病気にかかりやすくなったからだと考えられている。

このような状況では都市が衰退するのも当然で、経済も悪化した。
ここで、さらなる災厄が西ヨーロッパを襲った。それが英仏間の百年戦争(1337~1453年)である。停戦を繰り返しながらも100年以上にわたって戦争状態が続いたわけである。

戦争の直接の原因はフランスの王位継承問題だった。

フランス王のシャルル4世(在位:1322~1328年)が1328年に亡くなった時には存命の男子がいなかった。そこで、フランスの諸侯会議は従兄のフィリップ(フィリップ6世(在位:1328~1350年))を次のフランス王に選んだ。当時のヨーロッパでは諸侯が王を「選ぶ」のが通例だったのである。

一方、イングランド王のエドワード3世(在位:1327~1377年)もシャルル4世の従弟で王位継承権を持っていた。また、彼はフランスの諸侯の一人(ギュイエンヌ公)でもあった。エドワードはフィリップ6世の即位を一旦は認めたが、両者の間で所領などに関する様々な問題が生じた結果、1337年にフランスの王位を主張して大軍を率いてフランスにやって来た。こうして百年戦争が始まったのである。

長い戦争のため様々な出来事が起こったが(例えば、ジャンヌ・ダルクの活躍など)、詳細は割愛させていただく。最終的にはイングランド軍がフランスから撤退し、フランスの国土はフランス王の下に統治されることとなった。また、イングランド王もフランス王の家臣という立場から脱することとなった。


ジャンヌ・ダルクの像(パリのピラミッド広場)

こうしてそれぞれの国で統一感が生まれるようになり、さらにその意識がドイツなどの他国にも伝染することによって、ヨーロッパに「国家」という意識が芽生え始めたとされている。

しかし、一般庶民には良いことは何もなかった。農地や都市が戦場になったり、傭兵などのあぶれた兵士が都市や街道で略奪行為を繰り返したりなど、庶民生活を破壊する行為が相次いだのである。

さらに悪い時には悪いことが続く。14世紀の半ば頃からヨーロッパでペストが大流行したのだ。ヨーロッパでの流行は黒海沿岸が最初で、地中海を経て西ヨーロッパへと広がって行った。

ところで、ペストは「腺ペスト」と「肺ペスト」に大きく分類できる。腺ペストは、ペスト菌を持ったノミに血を吸われたり、ペスト菌が付着した動物や死体に触れたりして感染するもので、リンパ節でペスト菌が増殖する形態だ。腺ペストは基本的に接触感染なので、感染力はそれほど高くない。

一方、問題なのが肺ペストだ。肺ペストはペスト菌が肺に感染して増殖することで発症する。患者はペスト菌を含んだ飛沫を周囲にまき散らすようになり、感染が急激に広がるようになるのだ。

アルプスより北方にペストが侵入すると、この肺ペストの患者が増えることによってまたたく間に感染者が増えて行ったのだ。その結果、食料不足や戦争で犠牲になったよりもずっと多くの人命が失われた。一説によると、14世紀の流行ではフランスで3分の1、イギリスで5分の1の人口が失われたという。ヨーロッパにおけるペストの流行は15世紀前半まで続いた。



以上のように食料不足・戦争・ペストによって多くの人命が失われたが、生き残った人たちには好都合な面もあった。まず、人口減少によって食料不足が改善された。次に、人手不足によって農民や手工業者の待遇が良くなったのだ。

一方で、農民や手工業者などの一次生産者から搾取を行っていた領主は、取り分が減って窮乏するようになる。こうした領主たちは王を頼るしかなかった。その結果、封建領主が支えていた封建社会が、王を中心とした中央集権社会へと変化して行ったのである。

このように、ヨーロッパの中世後期は大きな災厄が相次いだ結果、社会や個人の在り方が大きく変化した時代でもあったのだ。

なお、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を再発見するなど、15世紀末から大航海時代が始まるが、これについては別の節で見ることにする。


12世紀ルネサンスと大学の始まり

2020-12-14 23:44:36 | 第三章 中世の食の革命
12世紀ルネサンスと大学の始まり-中世盛期のヨーロッパと食(11)
今回で中世盛期のヨーロッパの話は終わります。次に続く中世後期では大飢饉やペストの大流行、そして英仏間の百年戦争(1337~1453年)などが起こり、暗黒時代と呼ぶにふさわしい様相を呈します。

今回は中世盛期のまとめとともに、12世紀ルネサンスについて見て行こうと思います。

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中世前期(西暦500~1000年)にはゲルマン民族の大移動による社会の混乱や、イスラム勢力の侵攻、ヨーロッパ沿岸部へのヴァイキングの移住、マジャール人のパンノニアへの移動など、たくさんの危機がヨーロッパに訪れた。しかし、西暦1000年頃までに異民族の撃退や同化に成功するとともに、1000年頃から始まる「中世の農業革命」と700年代から続いている気候の温暖化によって農業生産性が向上した結果、農村や都市が発展し、ヨーロッパは「中世盛期(西暦1000~1300年)」の名にふさわしい発展の時期を迎えることになった。

中世農業革命は、鉄の農機具の利用と「三圃制(三圃式)」耕作法が広がった結果始まったものだ。また、鉄の農機具を用いて森林を開墾し、新しい農地を次々に生み出していったことも農業革命の要因となっている。13世紀の耕作地の面積は11世紀の2倍以上になったと見積もられている。

三圃制では耕地を三つに分け、春耕地(春に蒔いて秋に収穫)・秋耕地(秋に蒔いて春に収穫)・休耕地を年ごとに替えていく。休耕地では家畜を放牧して糞尿が肥料となることから地力の低下を防ぐことができるのだ。

鉄の農機具を使った三圃制の農地では、重い農機具をウマやウシに引かせるため方向転換が難しくなった。そこで、それまで家族単位で耕作していた農地が村単位でまとめられて、長方形の大きな農地に整えられた。また、農民の住居も一か所に集められた。そして修道院や騎士などの領主は、集落近くに製粉所やパン焼きかまど、醸造所などの共通施設を設置して行った。こうして現代に受け継がれているヨーロッパの農村風景が形成され始めたのである。

農業革命によって食料生産性が向上した結果、人口が増加するとともに余剰分が市場に出回るようになる。すると、一獲千金をねらって冒険商人として商いを始める人々が登場した。彼らは、教会や修道院、騎士の城砦近くに拠点となる集落を作った。すると、このような拠点に多くの商人や手工業者が集まるようになる。

やがて商人たちは領主を買収したり、戦ったりすることで自治権を獲得して行くとともに、街全体を城壁で囲むようになった。また、国王や大貴族、有力な司教たちは経済的な見返りの代わりに自治権を保証するようになった。こうして商人たちによって多数の中世都市が作られて行った。

さて、中世都市で忘れてはならないのが、現代の大学につながる学問の府が誕生したことである。

中世のヨーロッパではローマ帝国で公用語だったラテン語が引き続き書き言葉として使用されていたが、話し言葉はそれとは少し違ったロマンス語などの言語だった。このような書き言葉と話し言葉の不一致のため、文字を書けるのは聖職者などごく一部の人たちだった。

中世盛期に建設された都市に新しい教会や修道院が建てられるようになると、聖職者の養成が急務となる。また、都市を統治するために法律家などの知識人も必要だった。こうした人材を養成するために教会に付属した神学校や法学校が12世紀頃から盛んに建てられるようになった。これが、のちの大学の前身となった。

さらに、古代ギリシアの学問を再び学びなおそうという機運が高まったことも学びの場を発展させる要因となった。

「イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)」でもお話ししたが、古代ギリシアの学問はイスラム世界に受け継がれていた。12世紀なって地中海貿易の発展や十字軍遠征によってイスラム世界との交流が盛んになった結果、ヨーロッパ人が古代ギリシアやイスラムの学問を知ることになったのだ。

ローマ帝国が滅んでからはヨーロッパの学問のレベルはかなり下がっていたため、ヨーロッパの知識人は進んだ学問に熱狂するようになる。彼らは、イスラムから奪還したイベリア半島の都市トレドやシチリア島のパレルモに押しかけて、アラブ語やギリシア語で書かれた書物をかたっぱしからラテン語に翻訳して持ち帰った。そして、この新しい学問も教会付属の神学校や法学校で教えるようになったのだ。

神学校では、ギリシア哲学によってキリスト教の教えの理論化と体系化が行われた。教会付属の学校は「スコラ(schola)」と呼ばれていたことから、このような学問を「スコラ学」と言う。なお、スコラ(schola)は学校(school)の語源とされている。

食の世界における大きな出来事としては、「四体液説」と呼ばれる医学理論が導入されたことがあげられる。

四体液説とは、人間の体液は「血液、粘液、胆汁、黒胆汁」の4つの元素から構成されていて、血液は「熱」と「湿」の性質を持ち、粘液は「湿」と「冷」、胆汁は「熱」と「乾」、黒胆汁は「冷」と「乾」の性質を持つとする考えだ。そして、これらのバランスが崩れると病気になるとされた。この説は、ローマ帝国の医学者ガレノス(129年頃~199年)が、ヒポクラテスの説を基にして作り上げたものである。


    四体液説の概念図

食べ物も4元素(風・水・火・土)からできていて、「熱」「湿」「冷」「乾」の4つの性質のうち2つを持つとされた。例えば、植物は「土」に生えるので「冷」と「乾」の性質を持ち、食べ過ぎると体の「冷」と「乾」の性質が強くなってしまうというわけである。また、魚介類は「水」で、「湿」と「冷」の性質を持つとされた。

さらに、体の中に特定の元素が多くなった場合に起きる病気についても詳細に論じられた。例えば、黒胆汁が増えると、その蒸気が脳へ上って理性を混乱させ、ありもしない想像を生み出すとされたそうだ。

くずれたバランスを戻すための食事は重要で、「冷」が過剰な場合は「熱」の性質を持つ食品を多く摂り、「湿」が過剰な場合は「乾」の性質を持つ食品を多く摂るようにした。このように四体液説が広まった結果、食事によって病気や体調不良を治そうとするようになったのである。

現代の知識から言うと明らかに間違った理論であるが、科学的根拠が無いことが実証されるのは19世紀になってからであり、少なくとも17世紀までは四体液説が広く信じられていたのだ。

以上のように、12世紀になってギリシアの学問が再導入された結果、文化の変革が起きたことを「12世紀のルネサンス」と呼んでいる。


シトー派修道会とブルゴーニュワイン-中世盛期のヨーロッパと食(10)

2020-12-10 21:14:26 | 第三章 中世の食の革命
シトー派修道会とブルゴーニュワイン-中世盛期のヨーロッパと食(10)
フランスワインの2大産地と言えば、フランス北東部の「ブルゴーニュ」と南西部の「ボルドー」です。前回のお話ではシトー派修道会が出てきましたが、シトー派修道会はブルゴーニュワインの礎を築いたことでも有名です。そこで今回は、シトー派修道会のワイン造りについて見て行きましょう。

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ブルゴーニュワインの大きな特徴は、単一品種のブドウでワインを造ることだ(多少の例外あり)。一方、ボルドーワインでは複数品種のブドウが使用される。

ブルゴーニュの赤ワインでは「ピノ・ノワール」が主に使われている。このブドウで造ったワインは繊細な香りと味わいが特長とされていて、有名なものとしては「ロマネ・コンティ」がある。


ピノ・ノワール(moni quayleによるPixabayからの画像)

一方、白ワインでは「シャルドネ」がメインとなる。ブルゴーニュの白ワインはさわやかな酸味と辛口が特徴で、「シャブリ」地区のものが有名である。なお、シャルドネはピノ・ノワールとグエ・ブランという品種との交配で生まれたと考えられている。


シャルドネ(jane2494によるPixabayからの画像)

単一品種のブドウでワインを造ると、似たような風味のワインばかりが生まれると思われるかもしれない。しかし、ピノ・ノワールもシャルドネもニュートラル(中立)系の品種と呼ばれており、生育地の土壌や地理、気候などによって風味が変化しやすい。このため、畑ごとに異なったワインが生まれるのだ。なお、生育地の土壌や地理、気候などをフランス語でテロワール(Terroir)と言い、ワインの話ではよく登場する言葉だ。

このような単一品種を使ったワイン醸造の礎を築いたのが、ブルターニュの地に建てられた修道院の修道士たち、すなわちシトー派の修道士たちだった。祈りと質素な生活、そして労働に重きを置いていたシトー派の修道士たちは、ワイン造りにも精を出した。彼らは、神には最高のワインをささげねばならないと考えたのだ。

シトー派の修道士が目指したのが、彼らの白い衣に象徴される「純真さ」である。この純真さを生み出すために、ピノ・ノワールなどのブドウの質の向上に努めた。純真な良いワインを造るために極上のブドウだけを使おうと言うわけである。

このようなシトー派の修道士たちの考えが後世に受け継がれ、ブルゴーニュでは単一品種のブドウでワインが作られるようになって行く(完全に単一品種でワインが造られるようになるのは18世紀のフランス革命以降と言われている)。

またシトー派の修道士は、それぞれの土地の性質を調べることで、最高のブドウができる畑を整備して行った。

彼らの修道院の近くでは良いブドウが出来なかったので、他の土地をくまなく探したところ、少し離れた丘陵斜面がブドウ栽培に最適であることを見つけた。この地が「黄金の丘」を意味する「コート・ドール(Côte-d'Or)」であり、ブルゴーニュワイン醸造の中心となっている。

さらにシトー派の修道士たちはコート・ドールの丘陵斜面を細かく区分し、その優劣を決めて行った。畑が違うと出来上がるワインの風味が異なることに早い段階で気づいていたのだ。彼らは土壌の状態を調べるために土を食べたとも言われている。

このように畑を細かく区分し、それぞれで異なるワインを生み出すやり方は現代に受け継がれている。例えば、ブルゴーニュワインの格付けは畑ごとに行われている。「特級畑(グラン・クリュ)」と「一級畑(プルミエ・クリュ)」が上位の格付けであり、これらのワインのラベルには畑の名前まで記載するのが規則になっている。

ワインの歴史の中でシトー派修道会が果たした役割はとても大きいものだったと言える。

聖職者の食-中世盛期のヨーロッパと食(9)

2020-12-07 23:54:25 | 第三章 中世の食の革命
聖職者の食-中世盛期のヨーロッパと食(9)
今回は少し地味ですが、中世盛期の修道士の食生活のお話になります。
NHKの麒麟が来るでは僧侶がお金儲けに熱心な姿が描かれていますが、それは中世ヨーロッパの修道院でも同じことでした。人って堕落しやすいもののようですね。

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キリスト教では(キリスト教と同じように預言者のアブラハムを始祖とするユダヤ教とイスラム教でも)断食はとても重要な行為だった。元々食べること自体が罪であると言う意識があったからである。イエス・キリストも40日間の断食を行ったと言われている。

このため、聖職者は断食を行わなければならなかったし、肉料理などの豪華な食事を摂ることは堕落とみなされた。特に、厳しい修行を行う修道士は清貧な生活をするのが常だった。

ところが、中世の農業革命によって経済活動が活発になり始めると、11世紀末頃から修道院の収入も大幅に増加するようになった。領地内の農産物の生産量や農民が納める税金が増えたからである。その結果、修道士たちの食生活は豊かになり、メニューも多様になったと言われている。

ヨーロッパにキリスト教を広める上で重要な役割を果たしたベネディクト派の修道院は、ベネディクトゥス(480年頃~547年)によって創設された。彼は「ベネディクトゥス会則(戒律)」と呼ばれる厳しい生活規範を作成したのだが、その厳格さは時代とともに失われた。

こうして堕落した修道院生活を改革するために、910年にフランスのブルゴーニュ地方に建てられたクリュニー修道院を中心に、ベネディクトゥス会則を厳格に守ることによって本来の修道院の在り方を回復させようとする運動が行った。その運動はヨーロッパ中に広まり、11世紀にはヨーロッパ各地に1500ものクリュニー派の修道院があったと言われている。


クリュニー修道院(Michal Osmenda from Brussels, Belgium, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons)

しかしクリュニー派はキリスト教の儀式を豪華にすることにとても熱心だった。その結果、修道院の建物とその装飾は次第に豪華になって行った(これがロマネスク様式やゴシック様式が生まれるきっかけとなった)。また、それにつれて聖職者の日常も華美なものになり、本来の質素な生活から離れて行ったのである。

例えば、ベネディクトゥス会則に決められていた昼食の「野菜と果物」の一皿は、卵5個とチーズに変わった。また、特別な祝日には卵のパイや肉料理、ハチミツを使ったお菓子などが食卓に並んだようだ。修道士一人に毎日割り当てられていたパンとワインも量が増え、質が向上した。

このようなクリュニー派の修道士の華美な生活を批判し、より質素な修道院生活を復活させようとして1098年に建立されたのがシトー派修道会だ。クリュニー派の修道士が豪華な黒い衣を身にまとったのに対し、シトー派の修道士たちは染料を用いない白衣を身につけた。そして、地面の上に寝て質素な生活を行い、農業などの労働に励んだ。

1日の食事はパン1ポンド(約450グラム)とワイン1ヘミナ(約270ミリリットル)、そして火を通した野菜だけだった。このパンも、小麦粉で作った白パンが一般的だったにもかかわらず、オオムギ・キビ・エンドウマメなどの粉で作られた黒いパンだった。食事のマナーも徹底していて、食事中におしゃべりをした者はワインや野菜が取り上げられて罰せられたという。

このようなシトー派の改革運動はヨーロッパ全土に広がったが、労働で得た余剰分については売却して利益を上げてもよかったことから、次第に労働と利益獲得に興味が移って行った。その結果、東ドイツで農地の開墾を行ったり、イギリスで毛織物の生産技術を開発したりなどの社会的貢献を行う一方で、清貧な生活も終えることとなった。13世紀にはパンにキビやエンドウマメの粉を使うことは無くなったということだ。

やはり、普通の人間にとっては美味しいものを遠ざけるのは難しいのだろう。

ビールにホップ-中世盛期のヨーロッパと食(8)

2020-12-05 20:42:17 | 第三章 中世の食の革命
ビールにホップ-中世盛期のヨーロッパと食(8)
ビールに使われるホップは中国語では「酒花」と言いますが、私はとても良い名前だと思っています。

ホップはビール特有のほろ苦さと芳香の源であることはよく知られていますが、役割はそれだけではなく、「ビールに魂を吹き込んだ」と言われるほど重要なものです。

今回はこのホップについて見て行きたいと思います。


ホップ(M. RichterによるPixabayからの画像)
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まず、ホップの役割をあげてみよう。それは次のようなものだ。

・ビール特有のほろ苦さと芳香を付与する
・輝くような透明感を与える
・美しい泡を作る
・雑菌の繁殖を抑えて保存性を良くする

これを見ると「ビールに魂を吹き込んだ」と言われる理由がよく分かると思う。

ビール造りにホップが使われたのは新バビロニア王国(紀元前625~前539年)が最初と言われており、野生のホップらしきものが使用されたとの記録が残されている。8世紀頃になると、ホップやサルビア、アニス、ショウガ、パセリ、チョウジ、ハッカ、ニガヨモギなどの「グルート」と呼ばれる香草を使用したビールが造られるようになった。ホップが栽培されるようになったのもこの頃で、最初はドイツのバイエルンと言われている。

このようなグルートの中でホップの優位性を明らかにしたのが、ドイツのビンゲンという都市にあったルプレヒトベルク女子修道院のヒルデガルデス院長(1098~1179年)だ。「修道院とビールとカール大帝」でもお話ししたが、当時の修道院は大学のように知識人が集まっていた。ヒルデガルデス院長も医学の知識を持った科学者で、実験を繰り返すことでホップの優位性や最適な使用方法を明らかにして行ったという。

中でも重要な点がホップに強い抗菌力を見つけたことである。それまでのビールは腐りやすくて保存性が悪かった。このため、出来上がってからすぐに飲まないといけないし、遠くに運ぶことも難しかった。それがホップを使うことで保存性が高まり、遠くの都市まで運んで販売することも可能になったのだ。

しかし、この画期的な発見はしばらくの間封印される。領主たちがグルートの生産と販売の権利を独占していて、醸造業者にこの権利を売ることで大きな利益を得ていたからだ。ホップだけが使われるようになると、この利権が損なわれてしまうというわけである。彼らは「ホップは毒」というウソまで広めてホップの使用を妨害したという。

しかし14世紀以降になるとホップを使用するとビールが腐りにくくなることが確認され、次第にホップの使用が広がるようになった。そして1516年にはバイエルンの君主であったウィルヘルム4世が「ビールはオオムギとホップ、水だけを使って醸造すること」という「ビール純粋令」を発布するほどにホップを使用したビールが主流となる。

ここで現代のホップとビール醸造について見て行こう。

ホップは雌雄異株の8~12メートルくらいに成長するツル性の植物で、ビール醸造に使用されるのは雌株にできる「毬花(まりはな)」と呼ばれる部分だ。毬花は葉っぱが花を包み込んで保護する「苞(ほう)」が集まることでできている。

この苞の付け根に「ルプリン」と呼ばれる油を含んだ樹脂が分泌される。このルプリンにビールの苦みや芳香の元となる成分が含まれているのだ。その一つにα酸(フムロン)がある。これが醸造過程で構造が変化して「イソα酸(イソフムロン)」になるのだが、これがビールの苦みの正体だ。また、イソα酸には強い抗菌活性もある。

ホップの毬花とルプリン(村上敦司『ホップの探求』日本醸造協会誌105巻12号より)

イソα酸はビールの泡にも関係している。ビールの泡はイソα酸がオオムギ由来のタンパク質と結合してできたものなのだ。このため、苦みの強い(つまりイソα酸が多い)ビールほど泡持ちが良いと言われている。

現在ホップには多くの品種が存在しているが、苦みが強い「ビターホップ」と芳香成分が強い「アロマホップ」に大別できる(最近では苦みも芳香も強い品種もある)。ビール醸造者はホップを使い分けることでいろいろな風味のビールを生み出している。

ビールの仕込みは麦芽(ばくが)を作ることから始まる。麦芽はオオムギに水を含ませ発芽させたのち、乾燥させることで作られる。次に麦芽をくだいて水と混ぜて温めると、麦芽中の酵素の働きでデンプンからブドウ糖が作られる(このブドウ糖が酵母の発酵によってアルコールに変換される)。

糖化された麦芽の液にはムギの殻やもろみなどの固形物があるためろ過を行う。ろ過されたものが「麦汁(ばくじゅう)」だ。この時に最初に出てきたものが「一番搾り麦汁」で、某社の一番搾りビールにはこの麦汁だけが使われている。通常のビール醸造では残った固形物中の成分をさらに湯で抽出した「二番搾り麦汁」も合わせて使用されている。

こうしてできた麦汁にいよいよホップを加えて煮沸する。この熱処理でα酸がイソα酸に変わる。十分に煮沸を行うとイソα酸がたくさんできてビールの苦みが増す。一方、芳香成分は揮発性のため煮沸が長いと芳香が少なくなってしまう。このため煮沸をやめる直前にホップを加えるビールもある(例えばドイツのピルスナー)。つまり、ビールごとにホップを入れるタイミングや回数が異なっているのだ。

煮沸にはもう一つの重要な役割がある。ホップの成分がオオムギのタンパク質やにおい成分と結びついて沈殿することで、ビールに輝きのある清澄さを生み出すのだ。

麦汁は煮沸後に再びろ過されたのち、酵母が加えられて発酵が行われる。この発酵過程でブドウ糖からエタノールが作られるとともに、ホップの芳香成分が変化してビール特有の芳香が生まれると考えられている。

このようにホップはビール造りに欠かせない材料なのだ。