食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

チョコレートの歴史②-ヨーロッパにやって来た新しい食(5)

2021-05-17 18:29:51 | 第四章 近世の食の革命
チョコレートの歴史②-ヨーロッパにやって来た新しい食(5)
私は毎日昼食後にチョコレートを食べています。また、朝と昼にコーヒーを飲み、夜にはお茶を飲んでいます。

実は、チョコレート(カカオ)・コーヒー・茶がヨーロッパに入ってきたのは同じ頃です。カカオは中南米、コーヒーはエチオピア、茶は中国を原産地としていますが、まったく異なる出自の作物が同時期にヨーロッパにやって来たのです。

さらに、この3つはいずれも、カトリック国であるスペイン・ポルトガル・イタリア・フランスなどにまず広まり、その後にイギリス・オランダなどのプロテスタント国に広まりました。この裏には、スペインとポルトガルの海外進出で始まった大航海時代の主役がイギリス・オランダに移って行くという歴史の流れがあります。

今回は「チョコレートの歴史②」として、カカオがスペインなどのカトリック国に広まって行く様子について見て行きます。


カカオポッド(MaliflacによるPixabayからの画像)

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カカオがいつスペインに持ちこまれたかについては正確なことは分かっていない。ネット上では、1504年にコロンブスが持ち帰ったとか、アステカ帝国を征服したエルナン・コルテスが1528年にスペイン国王に献上したとか書かれていたりするが、どちらも根拠に乏しいようだ。

ヨーロッパの歴史にカカオが最初に登場するのは1544年のことだ。キリスト教修道士にともなわれてスペインにやって来たマヤ族の貴族が、スペイン皇太子のフェリペに泡立てたカカオ飲料を献上したとされている。

本格的に貿易品としてカカオがアメリカ大陸からスペインに運ばれるようになったのは1585年になってからのことだ。しかし、それ以前にメソアメリカを支配したスペイン移住者たちの間でカカオは重要な飲料としての地位を固めていた。

そのいきさつは次の通りだ。

エルナン・コルテス(1485~1547年)率いるスペイン軍が1521年にアステカ帝国を滅ぼすと、メソアメリカは植民地としてスペイン人によって支配されるようになった。その頃のスペイン人は、カカオの実がメソアメリカで通貨として利用されるほど価値があることは理解していたが、積極的に口にしてみようとは思わなかったようだ。あるスペイン人はカカオ飲料を「人よりもブタにふさわしい飲み物」と断じている。

しかし、時が経つにつれてスペインからの移住者たちにメソアメリカの文化が浸透してきた。インディオの女性たちがスペイン人の妾や妻として台所を任されていたことや、現地で生まれたスペイン人の子供たちが成長してきたことがその大きな要因となったと考えられる。

こうしてスペイン人たちはコムギの代わりにトウモロコシを食べるようになったし、カカオ飲料も口にするようになった。特に上流階級の女性の間でカカオ飲料が大変好まれるようになったそうだ。

ただし、スペイン人たちの好みに合わせてカカオ飲料も変化したそうだ。スペイン人たちになじみのある砂糖や、トウガラシの代わりにシナモンやコショウ、アニスなどが入れられるようになった(バニラはそのまま使われた)。また、アステカのカカオ飲料は冷たかったのに対して、スペイン人たちは温かいカカオ飲料を好んで飲んだ。

ところで、アステカ帝国の時代までカカオを口にできるのは上流階級や兵士だけだったが、スペイン人が支配すると一般庶民もカカオ飲料を飲むようになった。この背景にはカカオ栽培の広がりがあった。カカオが儲けになることを知った人々が盛んにカカオを栽培するようになり値段が下がったのだ。ただし、多く栽培されたのは育てやすいフォラステロ種の方だった。味は良いが育てにくいクリオロ種は敬遠されたのだ。

大量に生産されるようになったカカオはスペイン本国にも送られるようになる。当時はスペイン-アメリカ大陸間には頻繁に輸送船が行きかい、多くの物資が運ばれていた。その一つとしてカカオがスペインに運ばれるようになったのだ。そして17世紀なるとスペイン宮廷を中心に上流社会でカカオ飲料が大流行するとともに、一般国民も大きな催事の際などにカカオ飲料を楽しむようになった。

スペインに伝わったカカオは、スペインが支配していたポルトガルやイタリア南部にも広がって行った。ポルトガルは1580年に王朝が断絶しスペインに併合されていた。一方、イタリア南部も1556年からスペインの支配地となっていた。この両地域には遅くとも17世紀初めまでにカカオが伝わったと考えられる。

カカオは次に、ヴェネツィアやジェノヴァ、フィレンツェ(のちのトスカーナ)などの小国やローマ教皇領などがひしめき合っていた北イタリアに伝えられた。ヴェネツィアやジェノヴァ、フィレンツェは貿易で成り立っている商業都市国家であった。これらの国々にはカカオを新しい交易品とする商人の手を通して持ち込まれたと考えられている。

一方、ローマ教皇領にカカオを持ちこんだのは「イエズス会」ではないかと考えられている。イエズス会はフランシスコ・ザビエルが属していたことから歴史の授業で習うことが多い。この修道会は新興のプロテスタントに対抗してローマ教皇の権威を高めるために1540年に設立されたものだが、活動資金を得るために商業活動も盛んに行っていた。その一環としてアメリカ大陸ではキリスト教に改宗させたインディオを使って、大農園で綿やサトウキビ、そしてカカオを栽培していた。このカカオをローマに持ちこんだと推測されている。

フランスにカカオがいつ、どのように伝わったかについてはよく分かっていない。スペイン王女アンヌが1615年にフランス国王ルイ13世の妻となった時に伝えられたという説もあるが、確たる証拠はないらしい。

確実でもっとも古い記録は、ルイ14世(在位:1643~1715年)が1659年にダヴィッド・シャリューと言う商人にフランス国内のカカオ商品の製造・販売の独占権を与えるとした勅許文だ。そのため、これ以前にはフランスにカカオが伝えられていたと考えられている。

1660年にスペイン王女のマリア・テレサがルイ14世と結婚した。彼女はスペイン王宮から連れて来た女官たちとカカオ飲料を日々楽しんだと言われている。おそらくこの行為がフランスの上流階級にカカオを定着させる役割を果たした。と言うのも、マリア・テレサがやって来た頃は、カカオ飲料は高貴な女性にふさわしくないとみなされていたのだが、その後急速に上流階級の女性に飲まれるようになったからだ。そして宮廷の公的行事では、常にカカオ飲料がふるまわれるようになったという。

さて、16~17世紀のカトリック教会においては、カカオ飲料をさまざまな断食日に飲んで良いかという議論が長く続いていた。実は、カカオだけでなく、コーヒーや茶、ジャガイモ、トウモロコシ、トマトなどの新しい食品について宗教的に許されるかという議論が起こっていたのだ。しかし、現代社会の様子から分かるように、新しい食品たちは宗教的にもヨーロッパ社会に受け入れられて行った。

グヤーシュを作りました

2021-05-16 23:51:22 | 世界の料理を作ってみよう
本日は前回お話したハンガリーの国民的料理のグヤーシュを作ってみました。

材料は次の通り。

ポイントはパプリカパウダーです。
それ以外に、
牛肉(今回はタンシタという舌の下のお肉)
カットトマト
タマネギ
ジャガイモ
ニンジン
ニンニク
それと、写真には乗っていないローリエとキャラウエイ。

調理の仕方は簡単です。
あらみじん切りしたタマネギとニンニクを油で軽く色付くまで炒めます。
パプリカパウダーを加え、さらに軽く炒めます。
次にお肉を加えて炒め、野菜とカットトマト、ローリエ、キャラウエイとお水を入れて肉が柔らかくなるまでしばらく煮込みます。
最後に塩・コショウで味をととのえて出来上がりです。


パプリカの風味が独特で、とても美味しくいただきました。
パプリカパウダーさえあれば簡単にできるので、皆さんも機会があったらぜひ試してみてください。




トウガラシ-ヨーロッパにやって来た新しい食(4)

2021-05-14 23:57:01 | 第四章 近世の食の革命
トウガラシ-ヨーロッパにやって来た新しい食(4)
世界の人口の約4分の1の人が毎日トウガラシ類を食べていると言われています。このトウガラシ類には辛いトウガラシだけでなく、シシトウやピーマン、パプリカのようにトウガラシの品種改良から生まれた甘味種も含まれています。

一般的に熱帯などの暑い地域では辛いトウガラシをよく食べて、それ以外の地域では辛くないシシトウやピーマン、パプリカなどを食べるようです。

例えば、インドや東南アジア、アフリカ、中南米などの熱い地域ではトウガラシをたくさん使った辛い料理が多く食べられています。熱い地域で辛い料理を食べるのは、発汗を促して体を冷やすためと、食欲を増進するためと言われています。一方、ヨーロッパではパプリカなどの甘味種が主に使われ、また、辛いトウガラシが使われる時でもかなりマイルドな辛さになっています。

今回はヨーロッパにおけるトウガラシの歴史について見て行きましょう。



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「香辛料を探し求めた男たち-大航海時代の始まりと食(4)」でお話ししたように、大航海時代に海に乗り出した人々の大きな目的の一つが、香辛料を産するインドへの新しい航路を見つけることだった。コロンブス(1451年頃~1506年)のねらいも、大西洋を横断してインドに到達することだったが、アメリカ大陸が邪魔をしてしまったのだ。それでもコロンブスは生涯にわたって、自分が見つけた大陸はインドの一部だと信じていたという。

香辛料を探していたコロンブスはアメリカ大陸でトウガラシに出会う。コショウとは姿かたちがかなり違っていたが、その辛さからコロンブスはトウガラシをコショウの仲間だと思ったようだ。

現代の私たちから見るとコロンブスは大きな誤解したように思えるが、実は仕方がなかったとも言える。と言うのも、コショウの辛さもトウガラシの辛さも私たちは同じ体の仕組みを使って感じているからだ。

コショウの辛味成分の「ピペリン」も、トウガラシの辛み成分の「カプサイシン」も「痛みや熱さのセンサー分子TRPV1」に作用することで「辛い」という感覚を生み出している。TRPV1は神経細胞の表面に存在していて、ピペリンやカプサイシンが結合すると神経細胞を興奮させることで、「辛い」という感覚を生み出すのだ。このため、トウガラシを食べたコロンブスがコショウと同じ辛さだと思っても仕方なかったのだ。

なお、ピペリンとカプサイシンの作用の仕方は少し異なっていて、カプサイシンの作用は低い濃度から高い濃度にかけて徐々に強くなるのに対して、ピペリンは低い濃度ではほとんど作用せず、ある濃度以上になると急激に作用が強くなる。これが両者の辛さの違いになっているのかもしれない。

話を歴史に戻そう。コロンブスはスペイン-アメリカ大陸間の航海を4度行っているが、1493年の2度目の航海の時にスペイン王のためにトウガラシを持ち帰った。これがトウガラシがヨーロッパに持ちこまれた最初とされている。その後、トウガラシはヨーロッパ各地、特に南ヨーロッパで栽培が広がって行った。

1542年に出版されたドイツの植物学者レオンハルト・フックスの著書にはトウガラシの植物全体のスケッチとともに説明が記されている。また、1585年の記録には、スペインとチェコで栽培されていることが記されている。

インドや中国などのアジア地域やアフリカには、ポルトガルが開拓した航路によってトウガラシが広まって行った。1593年の記録には、インドのカリカットやインドネシアのモルッカ諸島(香辛料諸島)でトウガラシが栽培されていることが記されている。日本でも、奈良の僧侶の日記である『多聞院日記』に1593年にトウガラシを育てたとの記述が残されている。

ヨーロッパで最初にトウガラシを熱烈に受け入れたのがハンガリー人だ。ハンガリーにはオスマン帝国を経由してトウガラシが伝えられたが、その経緯は次の通りだ。

ハンガリーは1541年から東南部と中部をオスマン帝国によって、また北西部をオーストリアによって分割支配されていた。オスマン帝国は一時期インドのポルトガル支配地を奪ったのだが、その時にインドからトウガラシを持ち帰り、これをハンガリーに伝えたのだ。

どうもハンガリー人は辛いものがとても苦手なようで、トウガラシが伝えられた当初は辛いトウガラシを我慢して食べていたという。彼らは辛味成分が濃縮しているトウガラシ内部の隔壁と呼ばれる部分を丁寧に取り除くという涙ぐましい作業もしていたらしい。

一方でハンガリー人は、品種改良の努力も続けていた。そして18世紀になって、辛くない「パプリカ」を生み出すに至るのである。まさしく「必要は発明の母」と言える。ちなみにパプリカではカプサイシンを作り出す時に働く最後の酵素が壊れているため辛くならないのだ。

最も代表的なハンガリー料理であるグヤーシュには、パプリカの粉末がたくさん使用されていて、独特の風味が楽しめる。グヤーシュは日本の味噌汁のような存在で、本来は牛肉と野菜が具だったが、最近では何の肉を入れても良いらしい。ちなみに、グヤーシュのグヤは牛の群れを意味している。



トマトと同じように、イタリアではトウガラシもナポリに最初に伝わった。1526年のこととされている。これは当時のナポリがスペインによって支配されていたからだ。

イタリアのトウガラシ料理と聞いて日本人が最初に思い浮かべるのは「ペペロンチーノ・スパゲティ」と言われている。これは正式名称を「スパゲティ・アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」と言う。

アーリオはニンニク、オーリオはオリーブオイル、ペペロンはトウガラシを意味し、ゆでたスパゲティをにんにくとオリーブオイル、そしてトウガラシだけで調理したものだ。元々「スパゲティ・アーリオ・オーリオ」というものがあり、これにトウガラシを加えたものをスパゲティ・アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノと呼ぶのだ。

ところで、イタリア人も一般的に辛さに弱いらしく、イタリアで日本人がペペロンチーノ・スパゲティを食べると、辛くなくて物足りなさを感じるらしい。また、日本でイタリア人がペペロンチーノ・スパゲティを食べると、辛すぎて閉口するという。

しかし、ブーツ型のイタリア半島のくつ先に位置するカラブリア州はトウガラシの産地として有名で、住民は大のトウガラシ好きで知られている。カラブリアでは「ンドゥイア」と言うトウガラシの入ったペースト状のサラミなど、伝統的な保存食が現代でも作られている。

スペインの北部中央からフランスの南西部にまたがるバスク地方の人々は航海術に優れていたため、大航海時代には船乗りとして重用されていた。バスク人はコロンブスの航海にも参加していて、彼らがトウガラシを故郷に伝えたと言われている。

こうしてバスク地方はトウガラシの一大生産地へと成長したのだ。中でもフランス領の町エスプレットは、トウガラシの品種名にもなっているほど有名なトウガラシ産地で、毎年秋に「トウガラシ祭り」が開催されるほどだ。

真っ赤なトウガラシ「エスプレット」は甘い香りがして、粉にしたものがバスク料理に欠かせない食材となっている。エスプレットを使った代表的な料理が「アショア」で、子羊や子牛のミンチ肉と刻んだ野菜やニンニクをエスプレットとともに煮込んだものだ。

ところで、現代のイギリスやオランダ、ドイツではトウガラシ料理はほとんど食べられない。この理由は宗教にある。トウガラシがヨーロッパに広まった頃はカトリックとプロテスタントの争いが激しい時で、トウガラシを伝えたスペインがカトリック国だったため、当時プロテスタント国だったイギリスやオランダ、ドイツ(プロイセン)がトウガラシを受け入れなかったのだ。

宗教は食の世界に大きな影響を与えるものである。

トマト-ヨーロッパにやって来た新しい食(3)

2021-05-12 23:04:50 | 第四章 近世の食の革命
トマト-ヨーロッパにやって来た新しい食(3)


皆さんはトマトをよく食べますか?

総務省の家計調査よると、日本の家庭ではトマトの購入金額が野菜の中でもっとも高いそうです。

年間の消費量について見てみると、日本人一人あたり約4.4kgトマトを食べているそうです。たくさん食べているようにも見えますが、世界を見回してみると下の図のように日本人よりずっと多くのトマトを食べている国がたくさんあります(国連食糧農業機関の統計FAOSTATより)。最も消費量が多いトルコでは1年間に88kgものトマトを食べていて、何と日本人の20倍にもなります。
この図から分かるように、トルコも含めてスペインやギリシアのように地中海に面した国々ではトマトをたくさん食べるようです。この理由は、地中海の温かい気候がトマトの生育に適していたからだと考えられます。



このように今や多くの国々でたくさん食べられるようになったトマトですが、ジャガイモと同じように、ヨーロッパに伝えられてからしばらくの間は食べられることはありませんでした。

今回はこのようなトマトの歴史について見て行きます。

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1521年にアステカ帝国を征服したスペイン人のエルナン・コルテス(1485~1547年)は1527年にスペインに一時帰国しているが、この時に初めてヨーロッパにトマトを持ち帰ったと言う説が有力だ。

ところで、トマトの学名はSolanum lycopersicumと名付けられたが、これは「ナス族の(Solanum) 狼の桃(lycopersicum)」という意味だ。

「桃」と名付けられたのはトマトが桃に近い赤色をしているからだと考えられる。一方「オオカミ」が意味するところは、いつも発情していると思われていたオオカミのように、トマトには発情効果があるとされたからだ。イギリスやフランスではトマトの別名として「愛のリンゴ (love apple, pommes d'amour)」が使われていたが、これもトマトの発情効果が念頭にあったからだ(リンゴは性欲を生み出したエデンの園の「禁断の果実」)。

トマトに発情効果があると思われたのは、同じナス科の「マンドレイク」がトマトに似た実をつけるからだと考えられている。マンドレイクはハリー・ポッターの映画にも出てきた人の形をした根っこを持つ植物で、精力剤をはじめとして様々な薬や毒の原料として用いられていたらしい。そして、古代ギリシアでは「愛のリンゴ」と呼ばれていた。つまり、トマトはマンドレイクの仲間とみなされた結果、発情効果があると思われたわけだ。

このように少し危ない植物とみなされたため、トマトは食用として利用されることはしばらくの間無かった。その間は赤い実がきれいだったことから観賞用として上流階級の邸宅の庭などで育てられていたらしい。

それでも目の前にあると食べようと試みる人が出てくるものだ。イタリアには16世紀の中ごろにスペインからトマトが伝わったとされているが、イタリアの上流階級で実験的にいろいろな植物を食べてみようとした人々がいたようだ。彼らはトマトを食べてみても毒に当たらないし、美味しかったことからトマトに興味を持った。そして、品種改良を進めることでさまざまな色や形のトマトを作り出して行った。

ヨーロッパで最初のトマト料理がいつ作られたかについては記録が残っていないのではっきりしない。トマト料理のレシピが記録に初めて登場するのは1692年にナポリの料理人アントニオ・ラティーニが書いた料理本で、そこには次のようなトマトソースが記載されている。

「熟したトマトをローストし、皮を取り除いたらナイフで細かく刻みます。そこに細かく刻んだ玉ねぎとトウガラシ、そして少量のタイムを加えます。すべてを混ぜ合わせて、少量の塩、オリーブオイル、ワインビネガーで味をととのえます。これは、ゆでた料理などに最適な非常においしいソースです。」

このソースにはトウガラシが使用されていて、メソアメリカで食べられていたトマトを使ったサルサに似ている。

やがて、トウガラシの代わりにニンニクを使った「マリナーラソース」が生まれた。マリナーラソースは、トマトとにんにく、オリーブオイルとバジルを使って作るイタリア料理の基本的なソースだ。マリナーラソースを乗せて作った「マリナーラ・ピザ」はナポリピザの元祖とされており、1734年に初めて作られたと言われている。

こうして、トマトは様々なイタリア料理に使用されるようになって行ったのだが、現在のイタリア料理の定番のトマト料理の多くが登場したのは19世紀なってからで、パスタにトマトが使われるようになったのも19世紀のことだ。

19世紀にはトマトの赤色は緑・白・赤から成るイタリア国旗の赤色を象徴するものと考えられて、料理に盛んに使用されるようになった。例えば、この頃に生まれたピザ・マルゲリータは、国旗の緑・白・赤を表すようにバジル・モッツァレラチーズ・トマトからできている。

  ピザ・マルゲリータ

スペインやフランスでも18世紀頃からトマトが料理に使用され始め、19世紀頃に現在でも食べられている伝統的なトマト料理が作り出されて行った。例えば、スペイン料理の有名な冷製スープである「ガスパチョ」や、世界三大スープのひとつと言われるフランスの「ブイヤベース」も19世紀頃に現在の形が確立したとされている。

ガスパチョ:トマト・タマネギ・キュウリ・パプリカ・ニンニク・バゲット(パン)・オリーブオイルなどをすり鉢ですりつぶして、塩・ワインビネガーで味をととのえる。現代ではミキサーで簡単に作れる。


ガスパチョ(Aline PonceによるPixabayからの画像)

ブイヤベース:鍋でニンニクをオリーブオイルで炒めて香りを出し、セロリ・フェンネル・パセリ・タマネギなどの香味野菜を炒める。次に小魚を炒めて、水を注いで弱火で煮込む。魚のアラを取り出して、トマトペーストと細かく刻んだ野菜、数種類の魚を入れて煮込む。火が通ったらサフラン・塩・コショウで味をととのえる。


ブイヤベース(Innes LinderによるPixabayからの画像)

日本にトマトは17世紀に伝わったとされているが、ヨーロッパと同じように観賞用として栽培されていたそうである。

ジャガイモ-ヨーロッパにやって来た新しい食(2)

2021-05-10 12:06:17 | 第四章 近世の食の革命
ジャガイモ-ヨーロッパにやって来た新しい食(2)
ジャガイモは現代社会ではなくてはならない食材です。

日本でよく食べられるジャガイモを使った料理を思い浮かべてみても、肉じゃが・ポテトコロッケ・ポテトサラダ・ポテトチップス・フライドポテト・ビーフシチュー・カレーライス・クリームシチューなど、皆が大好きな料理ばかりです。

他の国々でも同じように、ジャガイモ料理は人気のメニューになっています。例えば、スペインの代表的な料理にトルティージャ・エスパーニャというジャガイモを使ったオムレツのような料理があります。


トルティージャ(unserekleinemausによるPixabayからの画像)

このように大人気のジャガイモですが、ヨーロッパに伝えられてしばらくの間は食べられることはほとんど無かったということです。今回はこのようなジャガイモの歴史について見て行きます。

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ヨーロッパ人の記録にジャガイモが最初に登場するのは、スペイン人シエサ・デ・レオンが1553年に書いた『インカ帝国史』で、そこにはジャガイモのことを「パパ (papa)と言い、キノコの松露に似ている。ゆがくと柔らかくなって、ゆで栗のようになる」と記されている。

インカ帝国は1532年にスペイン人によって征服されるが、インカ人の抵抗がその後も続き、またスペイン人同士の争いも勃発していた。これを平定するためにスペイン王室から1547年にペルーへ派遣された軍にシエサ・デ・レオンは所属しており、クロニスタと呼ばれる記録者として南米の優れた記録を残したのである。

その後の1570年頃にジャガイモは新大陸からスペインに持ち込まれたという説が有力だ。しかし、スペインでの栽培はあまり広がらなかった。ヨーロッパに持ち帰ろうとしたスペイン人が試しに食べてみたところ芽の毒にあたったため、食べるのには適さないと思われたからとも言われている。ちなみに現代のジャガイモの芽にも毒があるので注意が必要だ。

ジャガイモはスペインに持ちこまれた後、1600年前後にフランスやドイツ、イギリスなどのヨーロッパの多くの国々に伝わって行った。ところがこれらの国々でも、「毒がある」「ハンセン氏病になる」「聖書で認められていない」「妊婦が食べると早産する」などと言われて、しばらくの間本格的に食べられることはなかった。むしろ花の美しさから観賞用あるいは研究用として栽培されることが多かったと言われている。

このように最初はあまり食べられていなかったジャガイモだが、徐々にヨーロッパの北部を中心に広く栽培されるようになる。その大きな要因となったのが戦争と気候の寒冷化だ。

ジャガイモ栽培が広がるきっかけとなった最初の大きな戦争が、1618年から1648年まで現在のドイツ(当時は神聖ローマ帝国と呼ばれた)で戦われた「三十年戦争」だ。この戦争はカトリック国であった神聖ローマ帝国が帝国内の新教徒(プロテスタント)を弾圧したことに端を発するものだが、プロテスタント国のデンマークとスウェーデンが参戦したことや、神聖ローマ帝国を支配していたハプスブルク家と対立するフランスが参戦したために大規模な国際戦争へと発展したのである。

この戦争の結果、神聖ローマ帝国の人口の約20%が失われ、各国の死者の合計は800万人以上にのぼったと言われている。土地の荒廃もすさまじく、多くのコムギやライムギなどの畑が兵士によって荒らされてしまった。

このような耕作地の荒廃とそれにともなう食料不足がジャガイモの栽培の拡大につながったのだ。ジャガイモは畑を踏み荒らされても収穫できたし、単位面積当たりの収穫量もカロリー換算でコムギの約2倍ととても高かったためだ。また、16世紀の後半から寒冷化していた気候が、冷涼な環境で育つジャガイモの栽培には適していたこともあった。ちなみに、寒いアイルランドでは17世紀からジャガイモが積極的に取り入れられ、18世紀には主食の地位を占めるようになった。

現在のドイツ北部からポーランド西部にかけての地域を領土としたプロイセン王国では、フリードリヒ大王(1712~1786年)がジャガイモ栽培を農民に強制することで、飢饉から人々を救ったと言われている。フリードリヒ大王がオーストリアと戦ったバイエルン王位をめぐる戦争は「ジャガイモ戦争」と呼ばれているが、この戦いでは本格的な戦闘をほとんど行わずにジャガイモを育てることに熱中していたという。

一方フランスでは、農学者・栄養学者のアントワーヌ・オーギュスタン・パルマンティエ(1737~1813年)がジャガイモを食用として広めることに大きく貢献した。彼はイギリス・プロイセンなどの連合軍とフランス・オーストリア・スペインなどの連合軍が戦った七年戦争(1754~1763年)でプロイセンの捕虜となったのだが、収容所でジャガイモを食べた経験からその価値に気づき、フランスに帰国後にジャガイモ栽培の普及に努めたのだ。

彼は、フランス王ルイ16世と王妃のマリー・アントワネットに協力を仰ぎ、ジャガイモの花で作った花束やブーケで部屋や衣装を飾ってもらうことで、上流階級におけるジャガイモの認知度を広げて行った。


ジャガイモの花(Andrea FrydrychowskiによるPixabayからの画像)

また彼はジャガイモが貴重な作物であることを農民に分からせるため、昼間はジャガイモ畑に見張りの兵をつけ、夜になると兵を引き上げさせて、わざとジャガイモを盗ませるように仕向けたという逸話が残っている(プロイセンのフリードリヒ大王にも同様の逸話がある)。

パルマンティエの教えに従ってジャガイモを栽培した地域では凶作の年に飢饉を免れたことから、人々はジャガイモの価値を認めるようになり、ジャガイモの栽培がフランスに根付いて行った。

こうした彼の功績をたたえてパリの地下鉄3番線にパルマンティエ駅が作られ、農民にジャガイモを手渡しているパルマンティエの像がすえられた。また、フランスには彼にちなんだ「アッシ・パルマンティエ」という有名料理がある。これは、炒めたひき肉の上にマッシュポテトを重ねチーズを乗せてオーブンで焼いたもので、これを食べない者はフランス人ではないと言われるほどだ。これ以外にもジャガイモを使った料理には「パルマンティエ風」と付けられているものが多い。


アッシ・パルマンティエ

こうして18世紀中にはヨーロッパのほとんどの国で食用にするためにジャガイモが栽培されるようになり、19世紀には多くの国で主要な作物になった。

なお、日本には1600年頃にインドネシアのジャカルタを拠点にしていたオランダ人によって伝えられたという説が有力だ。そして、ジャカルタから「ジャガイモ」という名前が付けられたと言われている。