食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

西部開拓時代-アメリカの産業革命と食(1)

2022-04-09 23:18:16 | 第五章 近代の食の革命
5・2 アメリカの産業革命と食
西部開拓時代-アメリカの産業革命と食(1)
今回から「アメリカの産業革命と食」のシリーズが始まります。また、本シリーズの次には「ドイツの産業革命と食」のシリーズをお送りする予定です。
現代のアメリカドイツは世界有数の工業国です。このように2つの国が高い工業力を有するようになるのは19世紀の後半からです。両国ではちょうどその頃に産業革命が最盛期を迎え、工業化が大きく進みました。

アメリカとドイツの産業革命の特徴は、機械工業や製鉄業などの「重工業」を中心に産業革命が進行したことです。これは、綿織物業などの「軽工業」を中心に始まったイギリスの産業革命と大きく異なっています。

イギリスでは軽工業から重工業への切り替えがゆっくりとしか進まなかった一方で、アメリカとドイツでは重工業が急速に発展した結果、20世紀初頭には両国の工業生産力はイギリスの工業生産力を凌駕するようになります。例えば、1870年の世界の工業生産のシェアは、イギリス(32%)・アメリカ(23%)・ドイツ(13%)であったものが、20世紀初頭にはイギリス(15%)・アメリカ(35%)・ドイツ(16%)というように、イギリスがトップの座から滑り落ちました。

本シリーズでは、アメリカがこのように工業国化する間に、食の世界にどのような変化が起きたのかを見て行きたいと思います。

第1回目の今回は、西部劇の舞台となった西部開拓です。西部は広大なフロンティアであり、西部を開拓することによってアメリカの国力は大きく増大しました。西部開拓には、アメリカの近代化の礎となった運河鉄道が重要な役割を果たしました。それはどのようなものだったのでしょうか?

***************
北アメリカの植民地は大西洋側の東海岸から始まった。西部と言われるのはアパラチア山脈より西側で、アメリカ独立戦争(1775~1783年)頃までアパラチア山脈を越えて西部に行くのはアメリカ原住民と交易を行う商人だけで、西部に移住する人はほとんどいなかった。



独立戦争後にはアパラチア山脈を越えて西側に移住を試みる人が増えたが、アメリカ原住民の反発が激しかったため移住はなかなか進まなかった。アメリカ人は、イギリスがアメリカ原住民を扇動してアメリカ人を襲わせているのが原因と考えた。また、その頃のイギリスはフランスに対抗するために海上封鎖を行っており、その影響でアメリカの経済も大きな打撃を受けていた。そこでアメリカはこの状況を打破するために、1812年にイギリスに戦争を仕掛けた。

こうして始まった米英戦争(1812~1815年)は双方に決め手がないまま講和を迎えたが、その間にアメリカで工業化が進み、経済的な自立性が高まった。また、多くのアメリカ原住民が虐殺されたため、彼らの土地がアメリカのものとなった。なお、ミシシッピー川とロッキー山脈にはさまれた土地はフランス領とされていたが、1803年にフランスからの購入することでアメリカ領となっていた。

米英戦争によってアメリカ原住民の抵抗が弱まると、西部への大移住が始まる。移住者の多くは1825年に開通したエリー運河(ハドソン川とエリー湖を結ぶ運河)を利用してエリー湖まで移動した。さらに、そこから南下してオハイオ川に入り、流れを下ってオハイオ川ミシシッピー川の流域に移住した。そして、そこで農業を始めたのである。

未開の土地は当初はアメリカ政府によって管理されていたが、1862年にリンカーン大統領が制定したホームステッド法によって、開拓者は160エーカー(約65ヘクタール)の土地をほぼ無償で手に入れることができるようになった。その結果、西部の開拓が大きく進むことになる。

一方、1861年から1865年にかけて南北戦争が勃発する。奴隷制を維持したい南部の諸州が独立を求めて合衆国から離脱し、北部の諸州に対して攻撃を始めたのである。この戦争では結果的に北軍が勝利し、合衆国は分裂することはなかった。

また、この戦争では兵士や武器などの輸送に鉄道が重要な役割を果たしたことから、戦後に大陸横断鉄道などの鉄道網の整備が大きく進むことになった。そしてこれが西部の開拓をさらに推し進めることになる。

ミシシッピー川とロッキー山脈にはさまれた地域はプレーリーグレートプレーンズと呼ばれる大平原だ。この地域では西に行くほど降水量が少なくなり、乾燥地帯になる。このため、プレーリーは大草原地帯だったが、グレートプレーンズは背の低い草しか育たない土地だった。

初期の移住者たちは、プレーリーの草原を重い鋤(すき)を使って開拓し、農地に変えて行った。一方、グレートプレーンズでは作物をうまく育てることができなかったので、開拓者たちはさらに西に移動して、アメリカの西海岸に入植した。

しかし、南北戦争が終わって鉄道網が整備された結果、グレートプレーンズにも鉄道の駅が造られるようになる。すると、カウボーイたちが南部のテキサス州で野生化していた牛をグレートプレーンズまで運び、鉄道に乗せて東部や西部の大都市に運ぶようになったのだ。また、グレートプレーンズにとどまって牧畜を行う人たちも増えて行った。こうして1890年頃までにグレートプレーンズは広大な放牧地となった。なお、各放牧地の境界には柵や鉄条網が設けられるようになったので、カウボーイが牛追いをすることはできなくなってしまった。

一方、南北戦争の後にはグレートプレーンズでの農耕も盛んになった。その頃には機械を使って深い井戸を掘り、風車を使って水をくみ上げることによって生活や農業のための十分な水を獲得できるようになったのだ。また、乾燥に適したコムギの品種がロシアから持ち込まれたことにより、主にグレートプレーンズの北部でコムギの栽培が盛んになった。今日では、グレートプレーンズはアメリカで随一のコムギの生産地域となっている。

1890年に国勢調査が行われた結果、1平方マイル当りの人口が2人以上6人以下と定義されるフロンティアは西部から消滅したことが明らかになった。こうして西部の開拓は20世紀になるまでにほぼ終了したのである。

スコッチ・ウイスキーの躍進-イギリスの産業革命と食(9)

2022-04-05 21:41:28 | 第五章 近代の食の革命
スコッチ・ウイスキーの躍進-イギリスの産業革命と食(9)
日本では、「スコッチ・ウイスキー」「アイリッシュ・ウイスキー」「アメリカン・ウイスキー」「カナディアン・ウイスキー」「ジャパニーズ・ウイスキー」を五大ウイスキーと呼んでいます。

この中で最もよく飲まれているのがスコッチ・ウイスキーで、ウイスキー全体の消費量の約6割を占めています。

ちなみに、日本の本格的なウイスキーはスコッチ・ウイスキーを手本に醸造が始まったという歴史があります。日本で最初に本格的なウイスキーを造った竹鶴政孝は、スコットランドに留学してウイスキー造りを学び、また、スコットランド人のリタ(マッサン)と結婚して帰国します。

スコッチ・ウイスキーは、イギリス・ブリテン島北部のスコットランドで醸造されるウイスキーで、スモーキーフレーバーと呼ばれる燻製のような香りを特徴としています。この香りは、発芽させたオオムギ泥炭(ピート)で燻して(いぶして)乾燥させるときに生み出されます。その後に発酵や蒸留、樽での熟成を行っても、この香りはお酒に残り続けるというわけです。

スコッチ・ウイスキーは当初はスコットランドのローカルなお酒でしたが、産業革命期にイギリス国内で流通量が増加し、19世紀終わり頃にはイギリスの上流・中流階級にはなくてはならないお酒になりました。

今回は、このようなスコッチ・ウイスキーの歴史について見て行きます。



***************
最初にウイスキーが醸造されたのはアイルランドもしくはスコットランドと言われているが、その時期についてはよく分かっていない。ヨーロッパに蒸留装置が広まるのが14世紀以降のことなので、最初のウイスキーもその頃から造り始められたと考えられている。

現代のウイスキーは、蒸留した酒を樽の中で長時間の熟成した後に出荷される(スコッチ・ウイスキーの場合は最低3年の熟成期間が定められている)。この間に酒の色が琥珀色になり、味もまろやかで豊かになる。

しかし、初期のウイスキーは、蒸留してすぐに飲んでいたらしい。そのため、酒の色は無色で、風味もトゲトゲしいものだったという。その頃のスコッチ・ウイスキーやアイリッシュ・ウイスキーは、小規模に醸造したものをそれぞれの地域内で飲み切ってしまう安酒だったのだ。

スコッチ・ウイスキーの転機となったのが、1707年のイングランドによるスコットランドの併合だ。1603年からイングランドとスコットランドは別の国でありながら国王を同じくする同君連合であったが、1707年にイングランドが半ば強制的にスコットランドを併合した。そして、1725年にはスコットランドの蒸留酒にそれまでの15倍ほどの重税をかけるようになったのである。

それに対して、スコットランドのウイスキー醸造業者は密造を行うことで対抗した。夜中にこっそりと醸造作業や蒸留作業を行い、出来上がった酒は見つからないようにに入れて山の中などに隠したのだ。

しかし、これがウイスキーを美味しく変身させたのだ。樽で保管することによって熟成という化学反応が起こり、無色透明な酒が琥珀色になってまろやかで奥深い味に変化したのだ。特にシェリーの樽が熟成に最適なことが分かった。こうしてこの時代に、小型の単蒸留器で2回蒸留したものを樽で熟成させるなど、スコッチ・ウイスキーの製法の多くが確立した。

品質の高い密造酒はロンドン市内にも流通し、高い評価を得るようになる。中でも密造業者ジョージ・スミスが製造した「グレンリベット」はとても美味いと評判で、これを聞きつけたイギリス国王ジョージ4世(在位:1820~1830年)が取り寄せて飲んでみたところ、たちどころに虜になってしまったという。そして、これが歴史を動かす。

王の側近たちは、王様が密造酒を飲むのはさすがにまずかろうということで、1823年に税金を引き下げたのだ。そして、1824年にはスミスに政府公認のライセンスを与えた。こうしてスミスは堂々とグレンリベットを造り、国王も気兼ねなく美酒を楽しむことができるようになったのである。他の密造業者も正規の醸造業者に生まれ変わった。

次の転機は1830年代に訪れた。元税検査官で発明家のエネアス・コフィーが改良型の連続式蒸留器を開発したのだ。これを用いることで、さまざまな穀物から高アルコール度数の蒸留酒を大量に生産することが可能となった。

出来上がった蒸留酒はほぼアルコールの風味だけなので、ジュニパーベリーを入れて再蒸留すればジンになるし、樽で熟成させればウイスキーになる。ただし、こうして造ったウイスキーはそれまでのスコッチ・ウイスキーのような深い風味には欠けたものになる。そこで、従来のオオムギを原料にして単蒸留器で造ったものを「モルトウイスキー」と呼び、穀物を原料に連続蒸留器で造ったものを「グレンウイスキー」と呼ぶようになった。

1860年にモルトウイスキーとグレンウイスキーを混合した「ブレンデッドウイスキー」と呼ばれるスコッチ・ウイスキーが誕生した。現在販売されている多くがブレンデッドウイスキーであり、モルトウイスキーだけを使用したものは、シングルモルト(同じ蒸留所のモルトを混合したもの)やヴァテッドモルト(複数の蒸留所のモルトを混合したもの)と呼ばれたりする。

さて、これまで見てきたように、スコッチ・ウイスキーは順調に成長してきたが、イギリスの上流階級が主に飲み続けていたのはフランスのワインやブランデー(コニャック)で、スコッチ・ウイスキーはあまり飲まれていなかった。

ところが、1870年代から1880年代にかけて、アメリカ大陸からやってきたフィロキセラと呼ばれるアブラムシによってヨーロッパ中のブドウが壊滅的な被害を受けてしまう。その結果、ブドウやブランデーの生産量が激減したのである。これをきっかけにスコッチ・ウイスキーはイギリスの上流階級と中流階級で広く飲まれるようになったのである。

パクス・ブリタニカの食生活-イギリスの産業革命と食(8)

2022-04-03 17:26:43 | 第五章 近代の食の革命
パクス・ブリタニカの食生活-イギリスの産業革命と食(8)
18世紀の後半から世界に先駆けて産業革命がイギリスで始まった結果、イギリスは飛び抜けた工業生産力を有する国へと成長しました。例えば、1870年頃には世界の工業製品の約30%をイギリスが生産するまでになっていました。

イギリスで生産された様々な製品は世界各国に輸出されたことから、イギリスは「世界の工場」と呼ばれるようになります。

このようにイギリスが貿易大国として大躍進した理由として、工業力の発展に加えて海軍力の強大化があります。イギリスは高い経済力と工業力を駆使して多数の軍艦を建造し続け、世界一の海軍を作り上げました。19世紀末にはトン数換算で世界全体の約8割に達する軍艦を所有していたと言われています。この強大な海軍力を用いて世界中の制海権を獲得し、各国との貿易を有利に進めたのです。

こうして19世紀はイギリス(大英帝国)を中心に比較的平和な世界が維持されたことから、「パクス・ブリタニカ(イギリスによる平和)」と呼ばれることがあります。この呼び方は、かつてローマ帝国が広大な領土からなる大帝国を建設し、「パックス・ロマーナ」と称したことになぞらえたものです。

今回は、パクス・ブリタニカにおけるイギリス人の食生活について見て行きます。

***************
イギリスは厳格な階級社会と言われている。そこで、最初に19世期のイギリスにおける階級について見て行こう。

イギリスの上流階級には貴族ジェントリと呼ばれた地主がいた。19世紀のイギリスには300~500家ほどの貴族がいて、彼らの所有地はそれぞれ1万~5万エーカーほどだった。1エーカーは約4000㎡なので、40k㎡から200k㎡の土地を所有していた計算になる。一方、ジェントリは4000人弱で、所有地は1000~1万エーカー(4~40k㎡)ほどだった。

貴族とジェントリは地代から主な収入を得ていた。地代収入は1エーカー当たりおおよそ1ポンドだった。当時の1ポンドは現在の1~5万円と言われていることからすると、少なく見積もっても小貴族で年収1億円以上、小地主のジェントリで年収1000万円以上になる。

貴族とジェントリはそれぞれの所有地に邸宅を建てて、普段はそこで生活をしていた。邸宅にはたくさんの使用人(召使い)がいて、身の回りの世話は全部やってくれた。また、貴族とジェントリは議員でもあったため、議会のあるロンドンにも邸宅を構えていて、議会の間はそこで過ごした。

次の階級の中流階級は裕福な上位層とそれほど豊かでない下位層に分けられる。上位層には、資本家や医者、法律家、高級官吏、聖職者、教師、軍の士官などが含まれていた。下位層には、下級官吏、会社員、商人などがいた。

なお、中流階級でも一定以上の土地を購入して地主になれば、ジェントリや貴族になることができた。その点でイギリスの階級制度は比較的オープンであり、これがイギリス社会の活力を生み出していたという指摘もある。

上位層でも下位層でも中流階級と呼ばれるためには使用人を雇う必要があり、上位層では最低でも3名の使用人が必要だった。料理や洗濯などは、労働者が行う下賤な作業と考えられていたからだ。また、馬車も必須で、豊かになった19世紀のイギリスでは馬車の数が急増した。

下流階級はいわゆる労働者階級で、人口の大部分がこの階級に含まれていた。労働者たちは、19世紀の前半まではかなり貧しい生活を送っていたが、19世紀後半になるとパクス・ブリタニカの恩恵にあずかり、他の国々の労働者に比べて豊かな生活を送れるようになったと言われている。

それでは、19世紀の各階級の食生活について見て行こう。

イギリスの食生活は、18世紀に入るまでは上流階級でも国内で生産される作物や家畜の肉、そして漁や狩りで得られる魚介類や鳥獣の肉などを使用した質素なものだった。その理由の一つに、プロテスタントには質素な生活が推奨されていたことがあった。

ところが18世紀になってイギリスの海外進出が盛んになると、香辛料や砂糖、紅茶などの海外産の食品・飲料品が国内に流通するようになり、これらが食事で大量に使用されるようになった。しかし、19世紀には新鮮で高品質の食材が出回るようになり、次第に香辛料の使用量は減って行ったという。

なお、1772年には複数のスパイスを使用したインドの「カレー」がイギリス国内に紹介され、19世紀初めには手軽に利用できる混合スパイスのカレーパウダーの販売が開始された。

また、18世紀から上流階級を中心にフランス料理イタリア料理がよく食べられるようになった。また、ワインもよく飲まれるようになった。シンプルなイギリス料理に代わって、フランス料理のように手の込んだ料理が好まれるようになったからだと考えられている。

イギリスでは下の階級の人々は、上の階級の生活様式を真似ることが伝統的に行われてきた。19世紀の中流階級では住宅や使用人に多額の費用をかける必要がなかったので、食事では上流階級と同じようなものを食べることができた。

上流階級と中流階級の食事の大きな違いが、狩猟で得た肉を食べるかどうかだった。古くから狩猟は貴族やジェントリなど上流階級の最大の娯楽で、狩りで得た鳥獣の肉が最高のごちそうだったのだ。なお、上流階級の狩りは頻繁に行われたため、19世紀中頃には獲物を育てる鳥獣管理人が3000人ほどいたと言われている。

下流階級の食の中心はパンジャガイモで、これらを紅茶やスープ、ミルクと一緒に食べるのが一般的だった。また、エンバクのかゆ(オートミール)もよく食べられていた。タンパク源としては、チーズやソーセージ、ベーコン、牛肉や羊肉、ニシンやタラ、ウナギなどが定番だった。ただし、これらは比較的高価だったので、多くは食べられなかった。

労働者によく利用された売店にホットパイ・スタンドがあった。パイと言っても甘いお菓子ではなく、中に羊肉や牛肉などが入ったものが売られていたのだ。

1860年代になると、ホットパイ・スタンドでイギリス名物の「フィッシュ・アンド・チップス」が売られるようになり、大人気を博するようになる。これは、タラなどの白身魚のフライに棒状のポテトフライを添えたもので、当時も今と同じで酢をかけて食べるのが一般的だった。

通常サイズのフィッシュ・アンド・チップスは、大人一日の必要カロリーの3分の1ほどをまかなうことができ、味も良かったため一般庶民にも欠かせないものになって行く。


フィッシュ・アンド・チップス(kirstiecoolinによるPixabayからの画像)

ちなみに、19世紀に蒸気式トロール船や鉄道網が発達したことによって、北大西洋などで獲れた魚を大都市に迅速に運ぶことができるようになったことが、フィッシュ・アンド・チップスが広まる要因になったと言われている。

現在のイギリスには約8500のフィッシュ・アンド・チップスを売る店があるそうで、マクドナルドの店舗数が約1300店舗であることを考えると、フィッシュ・アンド・チップスの人気のすごさがよく分かる。