熟年夫婦のケチケチ旅日記

後期高齢者の仲間入り。これからも日々何か楽しいことや、感動することを見つけて、前進していきたいです。

醍醐・三宝院

2006-11-08 | リタイヤ夫婦のケチケチ旅日記
西国11番札所は、醍醐寺の奥の院(上醍醐寺)です、
以前主人と歩いて約1時間30分を歩いて行ったことを思い出しました。
今回は三宝院のみの見学です、
秀吉の醍醐の花見はこのお寺の境内で行われた物です。
其の当時のお花見とは、高いところから、桜の花を見下ろしたそうです、
今は花の下にござを敷いて下から眺める物とは、違っていたそうで、今も境内のやり山に秀吉のお花見跡があるそうです。

こちらの庭は、紅葉すると、とても綺麗だろうと思われる、枯山水のいいお庭でしたが、写真撮影禁止で、撮ることは出来ませんでした。

写真は三宝院大玄関です

高台寺

2006-11-08 | リタイヤ夫婦のケチケチ旅日記
昨日11月7日私は和倉温泉に行く予定で京都駅に行ったら、北陸線不通で、最終列車まで待ったのですが、全て運休に成り結局行けませんでした。
列車を待つ間、3時間コースの観光バスで、高台寺と醍醐寺に行って来ました。

高台寺は、豊臣秀吉の正室ねね(北政所)の建てたお寺です、以前から本当の高台寺蒔絵を、見たいと思っていたので、期待してたのですが、近くで見る事が出来ず残念でした。

高台寺蒔絵は、お棗などによく見られる、菊・桐の絵柄が書かれたものですが、高台寺蒔絵はその一部分に、なし地の手法を用いたものを言うとの事。
ねねのお霊屋の壁に描かれているのが、本当の高台寺蒔絵で、菊桐の絵柄のみならず、全ての絵柄の中の一部分になし地の手法が見られると、雲居庵のお茶席でお抹茶を頂きながら、聞きました。

紅葉はまだで、あと2週間後ぐらいが見頃かなとのことでした。


法華寺・海龍王寺・不退寺

2006-11-04 | リタイヤ夫婦のケチケチ旅日記
大和北部88ケ所霊場の内、
別格霊場・法華寺(尼寺)と、19番・海龍王寺と、18番・不退寺に行って来ました。
法華寺は、光明皇后が、父藤原不比等の邸宅跡に天平年間に総国分尼寺として、開いた。
海龍王寺も光明皇后が、父の邸宅跡北東の隅に建立されたので。隅寺の別名がある。
不退寺は、仁明天皇の勅願にて、大同4年に建立されました。後在原業平が、承和14年本尊聖観音を安置したことから、業平寺とも呼ばれている。

いずれのお寺も古い時代の建立なので、本堂の前の灯篭は、正面に一つだけ建っています。

平城京・大極殿特別公開(第5回)

2006-11-04 | リタイヤ夫婦のケチケチ旅日記
大極殿復原整備特別公開を見て来ました。
前回と同じく1層目の屋根しか見ることが出来ませんが垂木の一部分に絵付けがされていました、全部に絵付けがされるとさぞ、美しいだろと思います。上層の屋根組の様子はスライドで見ることが出来ます。実際には、安全上無理なようです。

今回の見所は、作業場で、かわら作りに参加できることです。
自分で作った瓦を焼いて、送ってくれるとの事です。
明日5日までです。
 
平城京祉にあるこの井戸は、造酒司にあった井戸で、酒造に使われたそうです。

もう一つの潜没橋(恋路橋)

2006-11-03 | リタイヤ夫婦のケチケチ旅日記
国道163を、南大河原附近の木津川に掛る潜没橋は恋路橋と、言うらしい、
なぜこの名前が付いたのかしら?
この橋を渡って進むと、恋志谷神社と天満宮と言う神社に突き当たります。

恋志谷姫神は、後醍醐天皇の側室で、後醍醐天皇は、笠置の戦いで破れ、壱岐に流されました。其の時姫は病を直すため伊勢にいました、やっと病も治り南大河原の地まで帰り着いたとき、後醍醐天皇は、壱岐に流されたと聞き、あまりの悲しさに、自らの命を絶ったとのことです。

江戸末期には渡し舟があったとか、後醍醐天皇はどのようにして、この川を渡ったのでしょうね、どちらにしても、なんだか切ないですね。

神社の石の鳥居は、柳生宗矩が愛した、この地に建つ二つの神社の改築に当り、天保4年柳生宗冬が石の鳥居を建立したとのことです。

この地・南大河原も、元柳生藩の領地だったようです。

布目川の甌穴郡

2006-11-03 | リタイヤ夫婦のケチケチ旅日記
10月31日に、飛鳥路街道を通って飛鳥路村に行きましたが、そのとき立ち寄ることができなかった、天照御門神社と布目川に出来た、甌穴(おうけつ)郡を見に再度飛鳥路に行って来ました。

国道163から潜没橋を渡り又狭い村内の道を進むと、左山側に天照御門神社が鎮座されていました、其の向いには、東明寺が、在りました。

布目橋から下流に少し行ったところに甌穴郡が見られます。
甌穴とは、(案内板より)
円筒形をした美しい代表的な甌穴は河底のくぼみに、うずまき流が生じ中に落ち込んだ小石が回転しながら河床を深く削って出来たものである。この辺りの河床は非常に堅い花崗岩で成り立ち、このような所に出来るものは珍しく、穴が出来るまでには数十年から数百年かかるものと推定されています。地元では、この甌穴を九つ壺と呼んで親しんでいます。

深く掘られた円形の穴には、推量の少ない今は、水がたまっていました。