別に国家防衛がどうとか、軍隊の在り方がどうのという話ではないです(・ω・)ノ
よく、空手の言葉に、空手とは人に打たれず人打たず 事無きをもととするなり、といわれるが、これをどう解釈すべきか、考えることがある。
特に子供のケンカに暴力が発生した場合それをどう諭すべきか、いまいち答えが出なかった。
何故なら、私はケンカ自体を否定するものではないからである。時としては手も出ることもあろう。人間は純粋さのみでは逞しさは身に付かない。清濁併せ持つだけの度量は必要だ。
しかし、それ故に目に余る力による主張は戒めなければならない。
その為の言葉はどうあるべきか。
思うに力を使う基準はその人の心の中に曖昧な形に存在するのではないか。
その証左に、そこで使われた暴力が本人からみても正当性が曖昧なことがままある。
そんな時に、力の行使を一方的に咎めてしまっては、本人の心を頑なにし閉ざしてしまう結果となってしまう。
そこで、一呼吸置き、こう問う。それが果たして暴力を使わなければ守れないものなのか、そして、その守ろうとしたものは暴力を使ってでも守らなければならなかったものなのか。
自身で考えさせ、曖昧であった基準を明確にさせる。そうすることで、ハッキリしたものが浮かび上がり、自己の心と行動を省みることが出来るのではないか。
それでも尚、自分の行為に正当性があるというのであればよっぽどの何かがあると考えるべきである。
人はなにも理由なく暴力行為をするのではなく、そこにはそこにいたるまでの経緯が必ずある。無ければただの通り魔である。
その経緯を認めることで、人は始めて己の非を認めることが出来る。
一番納得出来るのは、自分で導き出した答えである。
こちらの意見を言う前に、相手に考える時間を与えてやるべきではないだろうか。
思いついたことを、書いていったので、文章はメチャクチャです。
忘れないうちにと思って(=゜ω゜)ノ
よく、空手の言葉に、空手とは人に打たれず人打たず 事無きをもととするなり、といわれるが、これをどう解釈すべきか、考えることがある。
特に子供のケンカに暴力が発生した場合それをどう諭すべきか、いまいち答えが出なかった。
何故なら、私はケンカ自体を否定するものではないからである。時としては手も出ることもあろう。人間は純粋さのみでは逞しさは身に付かない。清濁併せ持つだけの度量は必要だ。
しかし、それ故に目に余る力による主張は戒めなければならない。
その為の言葉はどうあるべきか。
思うに力を使う基準はその人の心の中に曖昧な形に存在するのではないか。
その証左に、そこで使われた暴力が本人からみても正当性が曖昧なことがままある。
そんな時に、力の行使を一方的に咎めてしまっては、本人の心を頑なにし閉ざしてしまう結果となってしまう。
そこで、一呼吸置き、こう問う。それが果たして暴力を使わなければ守れないものなのか、そして、その守ろうとしたものは暴力を使ってでも守らなければならなかったものなのか。
自身で考えさせ、曖昧であった基準を明確にさせる。そうすることで、ハッキリしたものが浮かび上がり、自己の心と行動を省みることが出来るのではないか。
それでも尚、自分の行為に正当性があるというのであればよっぽどの何かがあると考えるべきである。
人はなにも理由なく暴力行為をするのではなく、そこにはそこにいたるまでの経緯が必ずある。無ければただの通り魔である。
その経緯を認めることで、人は始めて己の非を認めることが出来る。
一番納得出来るのは、自分で導き出した答えである。
こちらの意見を言う前に、相手に考える時間を与えてやるべきではないだろうか。
思いついたことを、書いていったので、文章はメチャクチャです。
忘れないうちにと思って(=゜ω゜)ノ
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