hiroべの気まま部屋

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仏教思想:中国禅思想概要(その3)

2021-08-10 07:43:52 | 仏教思想
 『今朝の天気』


(6:45頃)

 今朝の温度(5:30) 室温 リビング:29.0、 洗面所:29.0、 湿度(リビング):58%
 (昨日の外気温 東京、最高気温:31.3、最低気温:25.5
  本日の予想気温 最高気温:38、最低気温: 28)

 昨日は、朝やや強い風が吹いていたのですが、その後一時強い雨が降り、それが上がると今度は強風に変わり、その後は一日中吹いていました。ネットで、街路樹が倒れて車にぶつかり二人がけがをしたというニュースを見出しだけ見て、「へえ!そんな強い風が吹いる所もあるんだ」と思っていたのですが、それが、夜のTVニュースで市内の国道で起こったことと知ってびっくりでした。
 台風の影響は今日も続きそうですね。今日は熱風が吹き荒れそうです。東京の予想最高気温は38度、さすがに今日は猛暑日になりそうです。

 さて、中国禅思想概要の3回目です。
 前回に続いて、中国禅宗の成立過程をみていきます。今日は「北宗禅」についてみてみます。

2.2.3.北宗禅(神秀)の主張
①神秀の主張の概要
 ダルマ系禅宗が、華厳の哲学と結んだのは、両者がともに中国的に独自な形而上的絶対性の問題に特別の関心をもったためと思われます。その事例を北宗禅の神秀(北宗禅)の『観心論』にみることができます。(下表5参照)
 

②禅と華厳(前述神秀の主張の解説)
 書き出しは『般若心経』を模したもので、その後は、ほとんど『起信論』によっています。
 『十地経』の引用部分は、華厳哲学の形成に大きい影響をもっていた『十地経論』やこれによる地論宗とダルマ系禅がなんらかの交渉をもっていたことがうかがい知れます。特に、『十地経』にいう金剛仏性が、『起信論』の絶対の目ざめの主体と比せられることはおおいに注意すべきことです。(『起信論』の絶対の目ざめと神秀の説(下表6参照)
 
(ここでの注意点)
 神秀が、自心の体である真如に目ざめることを強調しているが、現実の煩悩の始末にまったく問題にしていない点。
→同時代の浄土教が、ひたすら現実の罪悪性の追究に沈潜していったのと、きわめて対蹠的です。
→『起信論』の教えは、煩悩の非本体性と真如の不生不滅であり、無自性空であることを前提としています。天台仏教の特色とされる性悪説や、一念三千の解釈とはまったく異質です。
 ここには、僧肇とおなじ中国独自の形而上的主体性の根強い関心が見られる。きわめて楽天的で、しかもはなはだ実践的な思惟があります。初期禅宗の人々が、実践をそうした『起信論』の真如思想に体系づけたことは、その後の禅思想の発展に決定的な方向を与えたといえます。

3.中国禅の発展
3.1.北宗禅と神会の主張
3.1.1. 北宗禅の形成
 「すべての人間は、本質的に清浄であり真実であった。なんびともブッダと平等であった。これを証明するものは、強烈で主体的な人間性の直観であり、さらにその背後には、深い瞑想の実践があった。(如来清浄禅、真如三昧、一行三昧と呼ばれた)」→これらを導く哲学は、『華厳経』とか、『起信論』によって用意されており、選ばれた大乗経典の真理を各自の生活の上に味得することが、この時代の禅宗の運動であったのです。
 つまり、『起信論』の絶対的な目ざめ(究竟覚)とか、本来的な目ざめ(本覚)は自己の心の根源にじっさいに目ざめる実験を前提にしており、しかも、素朴な瞑想の実習にとどまらないのです。北宗禅の成立は、そうしたすぐれた哲学と行動をつつみ越える自覚の実験と思想の運動を意味したのです。

①北宗禅の特色と鏡の比喩
 宗密(*)は北宗禅の特色を要約して、「煩悩のちりを払って、清浄な心を直観し、瞑想の方便によって大乗経典の真理に通達するもの」と言っています。
(鏡の比喩)
 鏡が美しい対象を映しても、その清浄性を増すことはなく、汚れた対象を映しても、本来の清浄性を減ずることはない。鏡はそれらいずれに対しても差別の意識をもつことがない。→これを体用の概念に当てるならば、鏡の本来的な清浄性は「体」であり、それが清浄と汚染を平等に映しだすのは「用」である。現実的な行道としては、どこまでも客塵を払う用によって、本来の清浄性にかえり、それを自覚しようとするのである。体と用の混同は許されない。
→ちりを払うのは、人々の心にもともとちりがないからである。ちりがないから、ちりを払うことができるのであり、ちりを払う必要があるのである。→この点が、理論と実践の異なるところであり、理論と実践を総合する北宗禅の特色であったのです。
→北宗禅は、行道としての禅の限界を、どこまでも忠実に守ったのです。
*宗密(780-839):華厳宗五祖。北宗禅を批判した南宗禅・荷沢宗開祖神会の思想を継承した。(詳細後述)

②北宗禅の離念と南宗禅の無念
 北宗禅は『起信論』の離念の説によって、心の本来的な真実とそれを直観する離念の行道を主張した。それには華厳哲学を意識し、哲学と共なる禅の行道の本質を明らかにしたことを示しています。
 これを攻撃したのが、おなじ東山法門の十大弟子の一人、曹渓の慧能(えのう)に学んだ神会(じんね 684-758)でした。(下表7参照)
 



 本日はここまでです。次回は、北宗禅を批判した神会について取り上げます。




 (本日コメント欄お休みをいただいております。)







仏教思想:中国禅思想概要(その2)

2021-08-03 08:35:25 | 仏教思想
 『今朝の天気』


(7:00頃)

 今朝の温度(5:30) 室温 リビング:29.0、 洗面所:29.5、 湿度(リビング):61%
 (昨日の外気温 東京、最高気温:33.1、最低気温:25.6
  本日の予想気温 最高気温:34、最低気温: 27)

 今日は雲の多い朝でスタートしました。日差しが少ないと吹いてくる風にも涼しさを感じます。もっとも、今日も暑くなるようです。

 さて、中国禅思想概要の2回目です。前回は中国禅宗の組織・主要人物の系譜と、成立要因についてみてきました。その中でも出てきたように、中国禅宗にはその背景となる経典を持ちません。中国禅宗は「正伝」ということを重要視しています。それは釈迦以来の仏教の教えの伝承ということです。「経典によらず、教えの伝承=正伝によるのだ!」ということだったのかもしれません。
 ということで、他の宗派の説明では、系譜の後に基本となる経典の説明があるのですが、中国禅ではそれがありません。それに代わって、中国禅の成立要因や影響を受けた宗派の説明が最初の部分でなされています。
 そんなわけで、前回の成立要因に続いて、今回は、多宗派との関係に触れてみます。それは、天台宗と華厳宗です。


2.2.一行三昧と初期中国禅の成立
2.2.1.天台と中国禅
 初期中国禅宗の歴史は、天台の『摩訶止観』との対決からはじまったといえます。つまり、天台の止観と実践との相違を智顗より古いボダイダルマに求めたことによります。(禅宗の四祖・蘄州双峰山(きしゅうそうぼうざん)の道信(580-651)、五祖弘忍(601-74)の頃で、活躍した山の名により「東山法門(とうさんほうもん)」とよばれた)

①天台智顗の意義と一行三昧の成立
 智顗は、クマーラジーヴァによって中国に伝えられたインド大乗仏教の空の哲学とその実践を、中国人の宗教として組織づけ、最初のすぐれた成果をあげました。特に『摩訶止観』による瞑想法の体系化があげられます。(下表2『摩訶止観』の構成と概要参照)
 
 人間の一般的な人のあり方を、歩くこと(行)、とどまること(住)、足を交えてすわること(坐)、および横になって眠ること(臥:が)の四つとし、とくに瞑想にふさわしい姿勢として、坐と行をとり上げています。
 しかし、智顗の四種の禅法については、総合的な行であり、その価値はおなじものであったのですが、異なった瞑想は一度に実習できぬため、人々の関心によりいずれか一つが選ばれ、坐禅か念仏のいずれかが中心となりました。→一行三昧の成立
 事実、『摩訶止観』の書かれた時代に前後して、禅と浄土教という二つの異なった実践運動が同時に起こっています。

②東山法門の主張
 「円頓」とよばれる天台の総合的な教と観の体系に対して、禅宗の実践的な関心は、より単純であり、いっそう直截的(ちょくせつてき)であったのです。
 『六祖壇経』(*)では、「一切時中に行住坐臥を通して、つねに唯一なる直心(じきしん)を行ずるのが一行三昧だ」といっています。ここでの「直心」とは根源的な形而上的な一心の意のことです。
 つまり、本来的な一行三昧は『般若経』の中にその名を見ることができ、この三昧のほかに、さらに余行はないとせられたのに対して、この時代におなじく一行三昧を説く別の経典や論書が、しきりと人々の関心をひいたのです。→代表例に『大乗起信論』があるが、この書での一行は、形而上学的な一心のはたらきをさしている点で、『般若経』の正しく般若ハラミツと応ずる一行とは、すでに本質を異にしているのです。
*六祖壇経:弟子の法海によって編集された、禅宗の第六祖曹渓慧能(そうけいえのう、南宗の祖とされる)の言行録のこと、のちに経典に準ずる扱いを受けた。

2.2.2.華厳と中国禅
①一心の展開
 前述の一心について、その展開を道信の『楞伽師資記(りょうがしじき)』にみることができます。(下表3「道信のことばの例」参照)
 
 これは、『起信論』にある、生滅心の最初の動きの内省する意味の「絶対的な目ざめ(「究竟覚(くぎょうかく)」)を説明する内容によっています。
 絶対的な目ざめは、『起信論』では、如来または仏の位に至ったものの知恵とされ、別に真如三昧、もしくは金剛三昧、一行三昧ともよばれ、まさに宗密のいう最上乗禅の意です。
→道信の坐禅は、すでにそうした根源的な悟りの性格をもっていたもので、のちの神秀(じんしゅう606?-706)に始まる北宗禅の哲学も、こうした構想にもとづいて展開されることとなります。

②華厳の哲学との結びつき
 初期禅宗の人々の単純で具体的な実践による関心は『楞伽経』や『起信論』の一心の説に移ることによって、しだいに根源的に唯一なるものに深まることとなりました。さらに北宗禅の形成の時期には、長安を中心として栄えていた華厳の哲学と結びついていきます。
 この時代を期として、中国禅宗は、すでに単純な坐禅や瞑想の域を超えて、独自な形而上的一心の探求にすべての関心を注ぐようになります。
(華厳と禅宗の結びつきの事例(表4))
 
 やがて、華厳の側からも澄観(738-839)、宗密(780-841)らが出て、この派の禅に特別の注意を払うようになります。


 本日はここまでです。次回は「北宗禅」についてみてみます。しばらくお待ちください。





 (本日コメント欄お休みをいただいております。)











仏教思想:中国禅思想概要(その1)

2021-07-27 08:29:59 | 仏教思想

(府中市郷土の森公園・修景池にて:美中紅(ビチュウコウ)    7月16日撮影)







 『今朝の天気:雨』


(7:00頃)

 今朝の温度(5:30) 室温 リビング:28.6、 洗面所:29.0、 湿度(リビング):56%
 (昨日の外気温 東京、最高気温:32.1、最低気温:24.9
  本日の予想気温 最高気温:32、最低気温: 22)


 仏教真理の純粋性を追求したのが中国華厳でした。その中国華厳を実践面で継承したのが中国禅でした。「あるままが一番」中国禅思想の神髄でしょうか。
 汚れた泥にも染まることなく、あるがままに泥田に美しく咲く蓮の花、最も中国禅にふさわしい花でしょうか。

 中国華厳思想概要の整理が終わって1か月半ほど経ちました。少しお休みをいただき、少しづつ次の中国禅思想概要の整理をスタートさせています。ということで、整理が終わったところから順次ご紹介していきます。これまで同様、うまく整理が出来なく、「仏教の思想」の抜き書きになると思います。パスしていただくのが賢明な選択かと思います。泥田にはまってみようという方は、どうぞ???と思いながらお付き合いください。

 今日は、本題に入る前に、いつもどおり、中国禅宗に関わった人物や組織を整理した系譜と、中国禅宗成立の要因をみていきます。

『仏教の思想7 無の探求<中国禅>』概要
-中国禅宗の思想-


1.中国禅宗の成立と発展
1.1.中国禅宗の系譜
 中国禅宗に思想があったかという点になると、多少の疑問があります。中国華厳宗の概要でも取り上げたように、中国禅は中国華厳の思想的影響を強く受けています。華厳宗にも実践論はありますが、その実践方法は観念的な内容となっており、具体的な実践法はありません。結果としてそれは禅宗にゆだねられます。一方、禅宗は中国仏教の中で唯一思想的な背景となる仏典を持ちません。その点は華厳思想にゆだねることになります。つまり、思想面、実践面で華厳宗と禅宗は相互依存の関係にあったといえます。
 とはいえ、宗派としての禅宗も、自派の発展のためには布教活動は必須であり、そのための背景となる思想が必要となります。ということで、仏典によらない禅宗の思想がどういうものであったのかを、以下みていきたいと思います。
 前置きが長くなりましたが、中国禅宗(以下禅宗と称す)の思想を説明する前にまず、禅宗がどのように成立し発展したかをみてみたいと思います。
 成立過程の説明の前に、禅宗の成立・発展に関与した主な人物と組織を系譜で示します。(下図1参照)

 

 本著(仏教の思想7)では、禅宗の系譜については詳しく述べられていません。このため、上図は、ウキペディアなどのネットの情報も参考にして整理しています。
 この図は、禅宗の宗派としての隆盛を中心に整理したものです。このため「思想」といった点を中心にとらえると、例えば、禅の二大祖師の一人である「行思」などは本著では登場しません。また、禅宗の伝説的な時代である正伝の時代も本著では詳しい説明はありません。(なお、「仏教の思想11 古仏のまねび<道元>」において詳しい解説がありますので、ご参照ください。過去記事
 思想面では、南宗禅の祖師「慧能」と北宗禅の祖師「神秀」、その後の主流となった南宗系の道一と神会が中心に中国禅が形成されます。以下、その内容をみていきたいと思います。

2.中国禅思想の成立
2.1.中国仏教と中国禅
①体用論とは
 中国思想を考える上での重要な思想に「体用論」があります。それは同時に、中国的な仏教思想のもっとも基本的な概念といえるもの(「体用」とは本体と作用のことで、宋代の儒学者が用いた哲学用語)です。
「僧肇の『涅槃無名論(ねはんむみょうろん)』にみる「体用論」(表1)
 

②中国仏教諸宗の基礎にすえられた無の体用論
 造物者の絶対性をもっともきびしく退けたのがブッダの宗教の出発でありました。一方万物の根源に形而上的な一者を認めることをたえず拒否しつづけてきたのは、ほかならぬ中国人の思惟でした。無の体用論は、そうしたインド仏教にも中国思想にももっていなかった独自の論理として、中国仏教の基礎にすえられました。
(無の体用論)
「主体的な無は、無といっても主体であるゆえに、つねに失われることがないもの、しかも失われることがない主体としての無がつねに有の世界にはたらく。
 有の世界のすべてが、無のはたらきと見られるとともに、無はつねに有の世界にあることになる。→中国的な思惟では、有と無はつねに冥合し連絡している。」

③『大乗起信論』の出現と中国禅の形成
 六朝末の『大乗起信論』の出現により、真如の体・相・用という三大の組織により体用論はよりいっそう強められることとなりました。
 唐代の華厳学者はこれを現象世界の根源にある絶対的一者と考え、現象をその起動と解したのであり、そうした形而上的な真如の理解のうえに、やがて中国禅が形成されたのです。


 まずは、お付き合いいただきありがとうございました。本日はここまでです。
 次回は中国禅の成立過程をみていきます。まずは天台宗との関係をみます。よろしければ、引き続きお付き合いください。





 

仏教思想:中国華厳思想概要(その14・最終回)

2021-06-01 09:05:49 | 仏教思想
 『今朝の天気』


(6:45頃)

 今朝の温度(5:30) 室温 リビング:26.2、 洗面所:27.5、 湿度(リビング):48%
 (昨日の外気温 東京、最高気温:25.2、最低気温:16.6
  本日の予想気温 最高気温:24、最低気温: 16)


 中国華厳思想概要の14回目です。そして今日が最終回です。
 前回は「無尽縁起の根拠」の理論的根拠を説明したところで終わりとしましたが、今日は、事実的根拠を説明し、さらに実践的要求について取り上げ締めとしたいと思います。


4.2.2. 無尽縁起の事実的根拠と実践的要求(六相円融)
①無尽縁起の事実的根拠
 論理的根拠はものの見方であって、あまりにも抽象的であり、現実的には把握できないようなところがあります。「もの」そのものに即して無尽縁起をみようとするのが、この項のねらいであるわけです。法蔵は十玄に何が縁起するかの10種のものをあげています。(下表26参照)
 
 ここにおいても、以上の10種は客観的世界の存在する「もの」を表わしているものは少なく、ほとんどが宗教的実践主体とのかかわりによって生まれる概念です。
 これまでの無尽縁起の論理的根拠はきわめて抽象的哲学的な論理のようにみえるが、実はここで述べられた宗教的実践の抽象化であったとことに気づくことになります。

②無尽縁起の実践的要求-六相円融
 十玄門は、智儼-法蔵により体系化されたものであり、華厳思想の至境を表わすものであるとともに、この思想の背景には深い宗教的体験がひそんでいます。
 それは、この無尽縁起を成り立たしめるものは、実践的体験として「海印三昧」(後述)という禅定経験・意識があるのです。華厳思想の究極を知らんと欲すれば、深い禅定の体験に触れなければならないのです。
 ここでの、実践的な要求を満たす思想として、世親の『十地経論』をもとに、地論宗南道派の浄影寺慧遠→第二祖智儼→法蔵と体系化したものに「六相円融」があります。
 六相とは、総・別、同・異、成・壊(じょう・え)の三対(六相)の概念で、これがたがいに円融無礙の関係にあって、一相に他の六相が含まれ、しかも六相のおのおのの分を守ることで法界縁起が成り立つという思想です。
(『華厳五教章』における六相の「屋舎」「人体」の引用例、下表27参照)
 
 以上、「総相・同相・成相」と「別相・異相・壊相」はそれぞれ、同じ視点からとらえたものであるわけです。

4.2.3.中国華厳の実践法-海印三昧
①海印三昧とは
 十玄縁起の無尽円融の思想や性起の考え方をささえるための宗教的実践方法のことをさします。
 法身毘盧舎那仏が海印三昧に入定(にゅうじょう)して、そこから説法したのが『華厳経』であるといわれています。
ここに現れた海印三昧とは、ほとけがあらゆるものに示現するはたらきとして現れる勢力を意味し、この海印三昧の大海のなかに、無量の一切衆生の色像が現ずることをいう。それは一切を包摂し、一切をそこに顕現せしめる、鏡のごとき絶対的境地を意味します。
 そこでは心も自然物も、美も悪も、ありのまま映現する。そのような絶対現実の心を海印三昧と名づけたのです。
 澄観は海印三昧を定義して「無心頓現」といっているが、禅的に理解するなら「無心」の境地といえます。

②華厳の観法
 「海印三昧」を前述では実践法と説明しましたが、実践の結果の境地というのが正しいようです。
 華厳の観法(宗教的実践)を説いた書物には『五教止観』『遊心法界記』『妄尽還源観(もうじんげんげんかん)』などがあげられます。ここでは、教相(教義を理論的に研究すること)と観法とが別なものではなく、教相即観法であり、古来「文義一致」といわれ、教相がすなわち同時に観法となるとしています。
 『妄尽還源観』で説く観法の方法で、その根本をなすものを「摂境帰心真実観(しょうきょうきしんしんじつかん)」と呼びます。これは、観法を三界唯心の立場からとらえているもので以下のように説いています。
「唯識の「境無識有」(境=客観、識=主観)の立場をとりながら、識もまた空なるを主張し、境が唯心であること。→ここでの唯心とは、境と識とが対立的存在としながらも、しかも融会(ゆうえ)していること。つまり、華厳の円融無礙の世界が開けてくること。
→このような事々無礙法界を出現させるには、頓悟(禅宗でいう「見性」という禅経験)が必要となる。」と。

 ということで、ここでも、具体的な実践法は説かれていなく、それは禅宗にゆだねることになります。


 以上、「中国華厳思想概要」完


 ということで、5か月ほどかかってしまいましたが、「仏教の思想」の第6巻をもととした「中国華厳思想の概要」、本日でやっと終えることができました。概要ですから、もっとスッキリと整理しないいけないのですが、難解な内容で、本文の抜粋転記に終始し、なかなか省略できない部分が多く、結果やたら長くなってしまいました。
 
 整理した本人がわけのわからない内容に長らくお付き合いただいた方、本当にありがとうございました。次は、本日の説明の最後の一行に、「ここでも、具体的な実践法は説かれていなく、それは禅宗にゆだねることになります。」とあるように、中国華厳の実践法でもあった「中国禅」について取り上げます。よろしければ、またお付き合いください。しばらく、お待ちください。

















仏教思想:中国華厳思想概要(その13)

2021-05-25 09:09:11 | 仏教思想
 『今朝の天気』


(7:30頃)

 今朝の温度(5:30) 室温 リビング:26.1、 洗面所:27.0、 湿度(リビング):50%
 (昨日の外気温 東京、最高気温:28.0、最低気温:16.4
  本日の予想気温 最高気温:28、最低気温: 18)


 中国華厳思想概要の13回目です。
 前回より「中国華厳思想の至境」と題して、中国華厳思想の本論に入り、まず「華厳における法界(四種法界)」を取り上げました。
 本日は、華厳の法界= 融通無礙の世界の根拠についてみていきます。

 
4.2. 融通無礙はなぜ可能か-無尽縁起の根拠
4.2.1.無尽縁起成立の論理的根拠
 前述から(第12回参照)、華厳の法界は、「円融・融通・無礙の世界」、つまりは「たがいに対者を妨げない、個と全体のハーモニーのみられる世界」ということが出来そうです。
 そこで、次に、「では融通無礙はなぜ可能か」との命題が提示されることになります。華厳では、融通無礙を「無尽」とも呼びます。したがって、ここでの命題は「無尽縁起の根拠」を解明する、と言い換えることもできます。
 これに対して、法蔵は、『探玄記』のなかで「縁起相由(えんぎそうゆ)」であるから、と結論付けています。縁起相由とは、「縁起は相由(あいよ)って存在するものであるから」という意味です。
 そこでさらに、ではなぜ「縁起相由」か、という理由の説明が必要になってきます。以下、その理由を説明しています。

4.2.1. 無尽縁起成立の論理的根拠-十玄縁起
 法蔵は『探玄記』で、無尽縁起を可能にする根拠=「縁起相由」という理由によるとしていますが、この縁起相由についての十義を説いています。そして、あらゆる現象の事物はこの十義をそなえているために縁起しているとしているのです。
 さらに、この十義をもとに、あらゆる現象の事々物が、すべて円融無礙の関係(相互に関係し合い成立していること)にあることを10種の立場・見方から分析し、『華厳経』の法界縁起の至境としての「十玄縁起」(正しくは、「十玄縁起無礙法門」)を説いたのです。

・「縁起相由」の全体概念図(図7)
 

・十義用語の説明(表24)
 
 以上の述べた十義に示された論理的成因により、法界縁起の至境である「十玄縁起」が成立することになります。すなわち、同体異体(*1)、相即相入(*2)の論理が、あるいは分割的にあるいは全体的に、あるいは縦面断面、あるいは正面側面などのよって、「同時具足相応門」などの十玄門が成り立つのです。みる見方の相違によって十門に分かれるといえるわけです。
*1同体異体:甲乙二者について、まったく別のものという観点と、乙は甲に内包されて二者は一つであるという見方のこと。(前者:異体、後者:同体)
*2相即相入:一切が対立せずに融け合い(相即)、 影響し合って(相入)いる関係をいう。相即相容ともいう。

・十玄縁起(表25)
 
 


 「無尽縁起の根拠」の説明の途中ですが、本日は理論的根拠を説明したところで終わりとします。
 次回は、事実的根拠を説明し、さらに実践的要求について取り上げます。そして、ずいぶん時間がかかってしまいましたが、最終回とする予定です。




 (本日コメント欄お休みをいただいております。)